大震災から3カ月。
私の身近な人はみな無事でした。
でも、大好きな、思い出いっぱいのおばあちゃんの家はなくなりました。
せめて、私の記憶の中の志津川を残したくて、書きました。
テレビのニュースには、私が生まれた志津川病院が映っていた。
ぽつんと建物だけが残り、屋上まで海草があった。
うそだと信じたい私の心に、目に入ったもうひとつの建物。
サンポートのマークが、心に突き刺さった。
震災の後、2回仙台に帰ったけど、怖くて海の方には行けなかった。
自分は何も被害にあってなくて、離れた地で普通の生活ができてるのに、
大好きな東北のために、何もできない、情けない。
子どもの頃、車酔いのひどかった私は、志津川の海が見えた瞬間、必ず車の窓を全開にして、
海の匂いを胸いっぱい吸い込んだ。
そのとき見えるのは、海産物の養殖場。船の周りを飛ぶカモメ。キラキラ光る波。
海岸のホテル観洋は、窓辺までカモメが飛んでくる。
町に入ると、一番大きいお店のサンポートと、志津川病院がある。
志津川に来ると、おじいちゃんとおばあちゃんはおもちゃを買ってくれた。
お兄ちゃんと、サンポートでよくおもちゃ選びをした。
公園の向かいの松原食堂では、私はラーメンをよく食べた。
お兄ちゃんはどこでもかつ丼かな。
食料品を買うのはウジエスーパー。
かねきゅうのあわびの粕漬けは冷凍庫にいつも常備してあって、
ご飯と食べたり、酒のつまみに、お客様の手土産に、重宝した。
帰りには必ず海すぐそばのヤマウチで、魚介類を買って帰る。
でっかいタコやカニやカキや、たくさん見るだけでも楽しかった。
何年か前に海岸沿いがとても整備され、荒戸に向かう道路も整備された。
海水浴場も公園も駐車場もできて、去年は子どもたちを連れて泳ぎに行った。
民宿の間の道を上っていく。お寺があったり、老人施設ができたり、
くにゃくにゃ細い道を走っていく。
荒戸小学校は母が通った小さな学校。
海からは10メートルくらい高い所にある。
まさか、そこまで波が来るなんて、想像もできない。
前田商店を過ぎると、おばあちゃんちに着く。
ずっと店名は「めだ」だと思ってた。
正式名称を知ったのは、かなり大きくなってからだった。
「めぃだ(まえだ)」とみんなが言ってたのが、名前だと思っていた。
海からほんの数百メートルしか離れていない家。
朝はカモメの声と、船の音で目が覚めた。
新聞は「めだ」に取りに行く。
昔はガチャガチャも安くて小さくて、お兄ちゃんとよく「めだ」のガチャガチャをした。
ちょっとした足りないものを買うのに、「めだ」をよく利用した。
今思えば、当時私たちにとって「めだ」はコンビニだった。
海で泳いだ後は、そのまま家に走って帰り、おばあちゃんが沸かしてくれたお風呂に飛び込む。
体の塩っぽさがなくなり、ちょっと冷えた体が温まり、すごく気持ちいい。
ボロボロの家には、山ほどの釣りざおが天井にしばりつけてあった。
死んだおじいちゃんは、元気な頃漁師で、小さな船を持っていた。
何度か乗せてもらったが、船酔いで魚釣りどころじゃなかった。
「うにのかいこう」の日には、ボートのような小さな船に乗り、
ウニを採ってきて、隣の大きな家の前で秤にかける。
うちで殻むきをしながら、殻についたおこぼれをもらった。
まだウニの足は動いている。
一番新鮮なウニの味を、物心ついた頃には知っていた。
朝から外がワカメの匂いの日には、海岸に見に行くと、
大量の茶色のワカメが、湯気のあがった大きな容器に入ると、緑色に変わるのが見えた。
夏の夜は、ちょっと山の方に歩くと、ホタルがいた。
すぐそばの高台にあるお寺には、ものすごい大きな蜂の巣があった。
津波が来たら、お寺に逃げれば大丈夫。
チリ地震津波にあっているおじいちゃんとおばあちゃんは、よく言っていた。
津波のときの話も、何度も聞いていた。
だから那須にいても、地震が起きてすぐに、津波を心配した。
宮城県沖地震が来ることは、何年も言われ続けていた。
33年前の宮城県沖地震は、私は母のお腹の中だった。
怖い目に遭った、という記憶はあるのか、
子どもの頃から地震にはびくびくしていた。
でも、まさかここまで大きいとは、思っていなかった。
お父さんとおじいちゃんは、天国で心を痛めているだろう。
父はおばあちゃんと志津川の役場で同じ職場だったときに母と出会い、結婚した。
海から離れたその役場さえも、今はない。
志津川の町のおかげで、今の私は生きてる。
何もできない自分が情けないけど、
いつまでも立ち直れないでいるのは、実際被害にあって大変な方々に申し訳ない。
いつか大好きな志津川の町に、また子どもたちを連れていきたいな。
私の身近な人はみな無事でした。
でも、大好きな、思い出いっぱいのおばあちゃんの家はなくなりました。
せめて、私の記憶の中の志津川を残したくて、書きました。
テレビのニュースには、私が生まれた志津川病院が映っていた。
ぽつんと建物だけが残り、屋上まで海草があった。
うそだと信じたい私の心に、目に入ったもうひとつの建物。
サンポートのマークが、心に突き刺さった。
震災の後、2回仙台に帰ったけど、怖くて海の方には行けなかった。
自分は何も被害にあってなくて、離れた地で普通の生活ができてるのに、
大好きな東北のために、何もできない、情けない。
子どもの頃、車酔いのひどかった私は、志津川の海が見えた瞬間、必ず車の窓を全開にして、
海の匂いを胸いっぱい吸い込んだ。
そのとき見えるのは、海産物の養殖場。船の周りを飛ぶカモメ。キラキラ光る波。
海岸のホテル観洋は、窓辺までカモメが飛んでくる。
町に入ると、一番大きいお店のサンポートと、志津川病院がある。
志津川に来ると、おじいちゃんとおばあちゃんはおもちゃを買ってくれた。
お兄ちゃんと、サンポートでよくおもちゃ選びをした。
公園の向かいの松原食堂では、私はラーメンをよく食べた。
お兄ちゃんはどこでもかつ丼かな。
食料品を買うのはウジエスーパー。
かねきゅうのあわびの粕漬けは冷凍庫にいつも常備してあって、
ご飯と食べたり、酒のつまみに、お客様の手土産に、重宝した。
帰りには必ず海すぐそばのヤマウチで、魚介類を買って帰る。
でっかいタコやカニやカキや、たくさん見るだけでも楽しかった。
何年か前に海岸沿いがとても整備され、荒戸に向かう道路も整備された。
海水浴場も公園も駐車場もできて、去年は子どもたちを連れて泳ぎに行った。
民宿の間の道を上っていく。お寺があったり、老人施設ができたり、
くにゃくにゃ細い道を走っていく。
荒戸小学校は母が通った小さな学校。
海からは10メートルくらい高い所にある。
まさか、そこまで波が来るなんて、想像もできない。
前田商店を過ぎると、おばあちゃんちに着く。
ずっと店名は「めだ」だと思ってた。
正式名称を知ったのは、かなり大きくなってからだった。
「めぃだ(まえだ)」とみんなが言ってたのが、名前だと思っていた。
海からほんの数百メートルしか離れていない家。
朝はカモメの声と、船の音で目が覚めた。
新聞は「めだ」に取りに行く。
昔はガチャガチャも安くて小さくて、お兄ちゃんとよく「めだ」のガチャガチャをした。
ちょっとした足りないものを買うのに、「めだ」をよく利用した。
今思えば、当時私たちにとって「めだ」はコンビニだった。
海で泳いだ後は、そのまま家に走って帰り、おばあちゃんが沸かしてくれたお風呂に飛び込む。
体の塩っぽさがなくなり、ちょっと冷えた体が温まり、すごく気持ちいい。
ボロボロの家には、山ほどの釣りざおが天井にしばりつけてあった。
死んだおじいちゃんは、元気な頃漁師で、小さな船を持っていた。
何度か乗せてもらったが、船酔いで魚釣りどころじゃなかった。
「うにのかいこう」の日には、ボートのような小さな船に乗り、
ウニを採ってきて、隣の大きな家の前で秤にかける。
うちで殻むきをしながら、殻についたおこぼれをもらった。
まだウニの足は動いている。
一番新鮮なウニの味を、物心ついた頃には知っていた。
朝から外がワカメの匂いの日には、海岸に見に行くと、
大量の茶色のワカメが、湯気のあがった大きな容器に入ると、緑色に変わるのが見えた。
夏の夜は、ちょっと山の方に歩くと、ホタルがいた。
すぐそばの高台にあるお寺には、ものすごい大きな蜂の巣があった。
津波が来たら、お寺に逃げれば大丈夫。
チリ地震津波にあっているおじいちゃんとおばあちゃんは、よく言っていた。
津波のときの話も、何度も聞いていた。
だから那須にいても、地震が起きてすぐに、津波を心配した。
宮城県沖地震が来ることは、何年も言われ続けていた。
33年前の宮城県沖地震は、私は母のお腹の中だった。
怖い目に遭った、という記憶はあるのか、
子どもの頃から地震にはびくびくしていた。
でも、まさかここまで大きいとは、思っていなかった。
お父さんとおじいちゃんは、天国で心を痛めているだろう。
父はおばあちゃんと志津川の役場で同じ職場だったときに母と出会い、結婚した。
海から離れたその役場さえも、今はない。
志津川の町のおかげで、今の私は生きてる。
何もできない自分が情けないけど、
いつまでも立ち直れないでいるのは、実際被害にあって大変な方々に申し訳ない。
いつか大好きな志津川の町に、また子どもたちを連れていきたいな。
胸が熱くなったよ。
でも、とっても素敵な思い出だよね。そんな素敵な場所だったってことをいろんな人に伝える事って大切だと思う。
前回の日記、ちょうど地震が起きる直前だったんだね。
あの震災を境に人生観とか変った気がする。
また日記更新待ってるね。
こっちは今変わらない日常に戻っていますが
震災後自衛隊のヘリの往来が朝から晩まで
続いていて隊員の人たちには頭が上がらないです。
えだまめさんが立ち直れないならそれは
それで時間の経過に身をまかせればいいのでは
ないでしょうか?
悲しい思いをしているときは無理に頑張らずに
思いを誰かに吐き出すといいみたいだよ。
また大好きなパンの日記が読めるのを
待っています。