高校のときに古文の授業がありました。その授業では、生徒に古文を
音読させていました。ある同級生が古文を読んだとき、例えば
「おもふ」をomouではなく、omohuと読んでいました。徹頭徹尾
文字通りに読んでいて、読み終わった後、先生から「なんだその読み方は」と
叱られていました。古文を読むときには、文字通りに発音するのではなく、
その言葉の現代の発音に従って発音するものです。
しかし、そのときに思ったのですが、古文が書かれた当時は、文字通りに
発音していたはずです。それなら、件の同級生の読み方は、当時の発音で
古文を読んでいたのであり、おかしなところはないのではないか。授業が
終わって、先生に質問してみました。
「なぜ古文は現代の発音で読まねばならないのですか」
「室町時代からの習慣だよ」
習慣なら仕方ありません。
去年のこと、書店で時間つぶしをしていてたまたま見つけた
「日本語の発音はどう変わってきたか」(釘貫亨著、中央公論社刊)を
買いました。日本語の発音の変遷を根拠を示しながら論じていました。
なかなかに衝撃的な内容でした。
奈良時代は、ハ行の音はなく、ぱ行であったと言います。「川」は「かぱ」、
「家」は「いぺ」でした。平安時代にひらがなが生まれてからの表記は、
それぞれ「かは」。「いへ」でした。「さ」は「つぁ」でした。
阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる」は「あまのぱらぷりつぁけみれぱ
かすがなる」とでも読んだのでしょうか。
古文でなじみのある平安時代も、現代とは随分と異なる発音がされていました。は行
は、ふぁ行でした。「お」はwoと発音していました。当時の発音に従えば、
源氏物語の冒頭は、「いどぅれのうぉふぉんときにか」とでも読むようです。
古文は、雅な感じがするものですが、その読み方ではなにか違った風に聞こえ
ます。
ようやく、高校以来の疑問が解けました。「おもはず」をomohazuと言うように
古文を文字通りに読んでみても、古語で読んだことにはなりません。意味が取りに
くくなるだけです。古文を読むのは、古文の内容を理解して物語を楽しむためです。
意味が分かるように現代の発音で読むので正解でした。
音読させていました。ある同級生が古文を読んだとき、例えば
「おもふ」をomouではなく、omohuと読んでいました。徹頭徹尾
文字通りに読んでいて、読み終わった後、先生から「なんだその読み方は」と
叱られていました。古文を読むときには、文字通りに発音するのではなく、
その言葉の現代の発音に従って発音するものです。
しかし、そのときに思ったのですが、古文が書かれた当時は、文字通りに
発音していたはずです。それなら、件の同級生の読み方は、当時の発音で
古文を読んでいたのであり、おかしなところはないのではないか。授業が
終わって、先生に質問してみました。
「なぜ古文は現代の発音で読まねばならないのですか」
「室町時代からの習慣だよ」
習慣なら仕方ありません。
去年のこと、書店で時間つぶしをしていてたまたま見つけた
「日本語の発音はどう変わってきたか」(釘貫亨著、中央公論社刊)を
買いました。日本語の発音の変遷を根拠を示しながら論じていました。
なかなかに衝撃的な内容でした。
奈良時代は、ハ行の音はなく、ぱ行であったと言います。「川」は「かぱ」、
「家」は「いぺ」でした。平安時代にひらがなが生まれてからの表記は、
それぞれ「かは」。「いへ」でした。「さ」は「つぁ」でした。
阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる」は「あまのぱらぷりつぁけみれぱ
かすがなる」とでも読んだのでしょうか。
古文でなじみのある平安時代も、現代とは随分と異なる発音がされていました。は行
は、ふぁ行でした。「お」はwoと発音していました。当時の発音に従えば、
源氏物語の冒頭は、「いどぅれのうぉふぉんときにか」とでも読むようです。
古文は、雅な感じがするものですが、その読み方ではなにか違った風に聞こえ
ます。
ようやく、高校以来の疑問が解けました。「おもはず」をomohazuと言うように
古文を文字通りに読んでみても、古語で読んだことにはなりません。意味が取りに
くくなるだけです。古文を読むのは、古文の内容を理解して物語を楽しむためです。
意味が分かるように現代の発音で読むので正解でした。