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ユーニッヒ

仕事の話もたまには書くかもしれません。

古語なのに現代の発音で読む

2025-04-13 11:38:39 | 日記
 高校のときに古文の授業がありました。その授業では、生徒に古文を
音読させていました。ある同級生が古文を読んだとき、例えば
「おもふ」をomouではなく、omohuと読んでいました。徹頭徹尾
文字通りに読んでいて、読み終わった後、先生から「なんだその読み方は」と
叱られていました。古文を読むときには、文字通りに発音するのではなく、
その言葉の現代の発音に従って発音するものです。

 しかし、そのときに思ったのですが、古文が書かれた当時は、文字通りに
発音していたはずです。それなら、件の同級生の読み方は、当時の発音で
古文を読んでいたのであり、おかしなところはないのではないか。授業が
終わって、先生に質問してみました。
 「なぜ古文は現代の発音で読まねばならないのですか」
 「室町時代からの習慣だよ」
習慣なら仕方ありません。

 去年のこと、書店で時間つぶしをしていてたまたま見つけた
「日本語の発音はどう変わってきたか」(釘貫亨著、中央公論社刊)を
買いました。日本語の発音の変遷を根拠を示しながら論じていました。
なかなかに衝撃的な内容でした。

 奈良時代は、ハ行の音はなく、ぱ行であったと言います。「川」は「かぱ」、
「家」は「いぺ」でした。平安時代にひらがなが生まれてからの表記は、
それぞれ「かは」。「いへ」でした。「さ」は「つぁ」でした。
阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる」は「あまのぱらぷりつぁけみれぱ
かすがなる」とでも読んだのでしょうか。

 古文でなじみのある平安時代も、現代とは随分と異なる発音がされていました。は行
は、ふぁ行でした。「お」はwoと発音していました。当時の発音に従えば、
源氏物語の冒頭は、「いどぅれのうぉふぉんときにか」とでも読むようです。
古文は、雅な感じがするものですが、その読み方ではなにか違った風に聞こえ
ます。

 ようやく、高校以来の疑問が解けました。「おもはず」をomohazuと言うように
古文を文字通りに読んでみても、古語で読んだことにはなりません。意味が取りに
くくなるだけです。古文を読むのは、古文の内容を理解して物語を楽しむためです。
意味が分かるように現代の発音で読むので正解でした。

四国に出張

2024-12-29 16:44:54 | 日記
 四国は気になる土地です。我が家の伝説のせいです。時は江戸時代、
先祖は現在の福島県伊達市で豆腐屋を営んでいました。豆腐屋の朝は早く、
その日も朝早くに店を開けると、前に行倒れがありました。家に入れて
介抱しましたが、それも空しくその人は亡くなりました。その人は四国の人で、
先祖はその人の所持品を四国の家族に届けました。家族は、お礼にと所持品の中に
あった路銀を先祖に渡しました。先祖は、その金で生糸商を始めました。
というような話ですが、四国はどこの話かは伝わっていません。そのために却って
四国全域が気になっています。今年は、その四国の今治に仕事で行く機会がありました。

 岡山から特急しおかぜに乗ります。瀬戸大橋を渡り、四国に上陸すると、しおかぜは予讃線の
線路を西へ西へと進みます。瀬戸内海沿岸を走るしおかぜの写真を見ますが、車窓に瀬戸内海が
見えるのはほんの少しの間だけです。大概は、進行方向右の車窓には、田畑とまばらに立つ
民家が見えます。左の車窓には、地図上でのみ見てきた四国山地が見えます。

 今治駅でしおかぜを降りました。今治駅の構内にうどん屋があり、駅の中に出汁のにおいが
漂っていました。瀬戸内海の新鮮な出汁じゃこで出汁を取っていると思うと食欲がそそられますが、
終わらないといけないので仕事に直行です。

 今回の仕事は、銀行を回って代理で手続きを行うと言うものです。お陰で、市内を見て
回ることができました。見えるものはビル、戸建て、道路でどこにでもあるものですが、
その取り合わせ、配置は町ごとに異なり一つとして同じものはありませんから、紛れもない
今治の町の風景を見ました。銀行で手続きを取るので、行員さんと話をします。このとき
お国言葉を聞くことができました。アクセントは京阪式、つまり関西風です。「何々しています」を
「何々しよります」というところが、今治らしい表現です。

 愛媛名物じゃこ天も含めて魚料理を食べられました。刺身も炊いたものも透明感のある味でした。
これまで味わったことのない味で、今治あるいは四国いることを強く感じさせました。

 気になる四国に行けましたし、普段とは違う体験ができましたので、仕事ではあったのですが、
今治への出張は大いに心を開放しました。今年は、このブログが全然更新できないくらい忙しい日々でした。
土日も仕事をせざるを得ませんでした。疲れたときは、この今治への出張を思い出し、束の間の平安を
感じていました。


平安京のジオラマ

2024-05-06 15:50:50 | 日記
 京都市平安京創生館には、平安京の1000分の1のジオラマが
展示されています。平安京は東西4.5km、南北6,2knです
から、その1000分の1のジオラマは大変に迫力があります。
平安京の中央には、南の端に位置する羅城門から大内裏にまっすぐ伸びる
朱雀大路があります。実際の道幅は、80m以上あり、1000分の1
模型においてもその道幅の広さが際立ちます。朱雀大路の両側には高い塀が
続き道幅が広いにもかかわらず圧迫感のある光景です。朱雀大路の両側には
碁盤目に東西南北に通された道で整然とした対称な町が見えます。

 ボランティアの方の解説がありました。朱雀大路の西側の右京は湿地で
あったために、人がいなくなり左京だけが都としての機能を持ちました。
朱雀大路は、人々の敷地に取り込まれ、今の千本通りが朱雀大路に対応する道
とは言え、細くなり、道も曲がってしまいました。平安京にあって今に
伝わるものは、東寺と神泉苑だけであり、「他はなんにも今に残っている
ものはありません」。

 創生館を後にして、錦市場に行きました。京都に行くと、毎度のことです。
コロナがあり、7年ぶりの京都であり、錦市場です。錦小路通に足を踏み入れると、
大勢の外国からの観光客がいました。錦市場は、その場で食べさせたり、飲み物を
飲ませたりする店が増えました。前回来た時にはあった、学生時代に来たことのある
肉屋がなくなってそのような店になっていました。飲食店目当ての観光客の多さに
前に進むのもままならず、目当ての店を見つけることができませんでした。

 余りの変化に、「私の知っている京都はなくなった」と思いました。そして、
ボランティアの方の平安京にあったものは何も今に伝わらないという言葉が
頭に浮かびました。平安京の建物は今に伝わりません。現代京都の碁盤目の道は
いかにも平安京の道を伝えるようですが、道幅が変わっているのは朱雀大路に
限りませんし、同じ名前の道がずれて走る例もあります。ボランティアの方の言葉は、
都市は変化するという事実を述べたに過ぎないかもしれません。しかし、その方は昔から
京都にいるような年齢の方でした。「京都は昔も今もすっかり前とは変わってしまった」と
いう寂しさを表しているように思えてなりませんでした。

一乗谷

2024-05-03 17:13:19 | 日記

城下町を建設しましたが、最後の当主朝倉義景が織田信長に滅ぼされた
ときに、信長が破壊してしましました。しかし現在その町が復元されて
います。一乗谷に行ってきました。

 福井駅からタクシーで一乗谷に行きました。まず行ったのは、一乗谷朝倉氏
遺跡博物館です。ここでは、朝倉氏の歴史を知ることができるほか、館掘り出されて
そのまま保存された遺構を見ることができます。石が敷き詰められた遺構で、荷揚げに
利用されたなどいくつかの利用目的が推定されています。当時の人が造った施設そのもの
ですから、戦国時代の光景を実際に見ることができます。また、朝倉氏の館が復元されて
います。京都の寺院のような立派な建物で、都から遠く離れていますが、一乗谷が経済的にも
文化的にも豊かな地域であったことがうかがえます。

 復元された町並みは、博物館から2キロ以上先にあります。路線バスが走って
いますが本数が少なく、今回は歩いて町並みに向かいました。歩道の整備された
自動車道を歩いていきます。自動車はあまり通りませんし、歩いている人は誰も
いませんでした。道は小高い山に挟まれています。静寂と自然の中を歩いていきます。

 復元された町並みでは、武家屋敷の門と塀、庶民の家、中級武士の館が復元されています。
これらにより当時の町が再現されています。復元された家屋は中に入ることができます。
各家の中に井戸があり、家の中で水の供給が受けられるのは今と変わりません。
しかし、現代人から見て快適な家ではなさそうです。庶民の家は、板の間二間だけと
かなり狭いものでした。囲炉裏がありますが、暖鳩にくいでしょう。隙間風は入り放題で、
冬の生活は厳しそうです。中級武士の屋敷は、庶民の家に比べれば敷地は広く、屋敷も
大きいものでした。しかし、部屋数は3つ程度でどれもそれほど広くなく、意外と
質素な印象を受けます。ここでは厠が復元されています。厠は外にあって小屋の中に
穴を掘っただけの構造です。

 復元された町並みからは、タクシーで福井駅に向かうことにしました。しかしタクシーが
なかなか来ず、長い時間をそこで過ごしました。夕方になり、付近に人がいなくなり、車も
稀にしか通らず、音のない世界になりました。町並みは復元されても織田信長の破壊により
二度と賑わいは戻りません。城下町は今も静かに眠っています。
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思い出の味

2024-02-25 12:35:33 | 日記
 神奈川県のある酒蔵の無濾過原酒を買いました。前回飲んだのは、21歳の時です。

 そのころ、日本酒と言えば、大手の酒造会社の日本酒でした。地酒はいいものだという話は
出ていました。ある日新聞に大きな広告が出ていました。大学生が数人集まって座談会形式で
地酒のよさを語るというものでした。まだまだ普及していない地酒を世間に広めようという
広告主の意欲が感じられます。地酒は売っていなくもありませんでした。大学の同級生の
家が酒屋をしていて、「地酒売ってんの」ときいたら、同級生は「うち来たら買えるで」と
言っていました。私は京都にいて、友人の家は大阪で、地酒を買いに行くには遠くでした。
そこらかしこで地酒が手に入るという時代ではありませんでした。

 このようなころ、冒頭の地酒を入手しました。それが私にとっては初めての地酒でした。
飲むや、衝撃的でした。日本酒は端麗なものという印象しかありませんでしたが、濃厚な
味わいでした。香りも濃厚でした。これも日本酒なのかと、常識が覆されるような驚きで
した。

 味の記憶が頭に染み付きました。また飲んでみたいと思いながら、買う機会がなく年月が
過ぎました。数年前、仕事で酒蔵の地元に行ったので、買えないかと酒屋に入ったのですが、
原酒はありませんでした。この時は6月でしたが、原酒は寒い時期に売るものでした。その後、
寒い時期に地元に行きましたが、販売時期は1か月後でした。

 調べてみると、酒蔵はオンラインショップをしていました。
ようやく、原酒が買えました。あの衝撃をもう一度と原酒を
口にしました。今も記憶に残る鮮烈な味と、今のこのときの
味覚を重ね合わせようとしました。全く重なり合いませんでした。
いい酒なのです。また次の季節も買いたいと思う味です。しかし、
普通に旨いという感想でした。

 味というのは、気分や体調で変わります。待望の地酒を初めて飲みました。
その頃の私は若くて健康な体でした。下宿先から帰ってきて家族と年末を
過ごしていました。家族との再会も、酒の味に一味加えたのでしょう。
長年、記憶の味をまた体験したいと思い続けてきましたが、それは
かなわないことだとわかりました。