port jubilee

神戸の音楽サークル

会長中井の独り言 3章

2006年05月30日 13時32分44秒 | 中井レポート

万博のコンサートの源資確保の為、私はMBSの音楽出版社
「ミリカ音楽出版社」に飛び込みました。
スッタモンダのあげく100万円(今の200万円位のイメージ)を
確保し、前に進む事ができ、ライブアルバムとシングルが出ましたが、
1970年8月13日の当日は徹夜仕込の疲れから、本番中はずっと寝てました。

出演者もスタッフも戦後生まれでやる事をテーマに「テ-マ曲/戦争を知らない子供達」を掲げたコンサートは大成功でした。結局は40万円弱の赤字を出してしまいましたが良い思い出です。

アッそうそう、万博の企画が進むうちに、名刺がどうしても必要
になり、PJの総会で「PJ顧問」の肩書きを書いた名刺を作って良いか?をはかった時、皆が賛成しない中、コロが「こんなに御世話になっている中井さんの為やん。エーんちゃうの?」の一言が僕を助けてくれた事を今でも感謝してます。

万博コンサートの事はPJと直接関係が無いので、これ以上の詳細は割愛します。

大学3年生の時、ヤマハのライトミュージック・コンテストに出場する事になったダボーズはそれに向けて練習に継ぐ練習でした。
倍音が聞こえるまでに完成度を高め、全国大会で「フォーク・ラテン・ハワイアン部門」と言う不思議な部門で優勝、グランプリは「素晴らしい演奏をやってのけた愛知学院大学吹奏楽部」に譲りましたが、準GPでした。詳しい事は傅スケが多分書くであろう本ブログに譲ります。

ステージに立った時の感激、緊張は味わった事は有りませんが、裏方としてコンサート全体を支えるやりがいは、それとは違った感激、緊張を生み、成功したときの「サブイボ」が今の私の原点になっている事は確かです。

4年生になり、柿に会長を譲った後はダボーズの「フェアウエル・コンサート」にむかいました。結果は国際会館が超満員になる大成功。有馬の旅館で皆で大騒ぎした事を覚えてます。
この詳細も傅スケが多分書くであろう本ブログに譲ります。

真辺さん、「地平線の彼方に夕陽が沈み・・・・。」の名調子の司会は
兄の友人の星野さんです。ネコとは違い、ちゃんと各バンドの資料を用意しなければならなかった事を思い出します。

散発的にいろんな事を思い出しますが、どれも表面的で読み物になりません。

最後にPJの経験が今の私の基礎になった事を皆さんに感謝申し上げ、そろそろ筆を置きます。

次は柿本の番ヤデ。

(完)





会長中井の独り言

2006年05月03日 00時09分14秒 | 中井レポート
ヤンタン、ヤング720へのバンドの派遣も良い思いでです。
ヤンタンは、真辺さんと同じように前の日になってもバンドが決まらず、穴を開けそうになった事もしばしばでしたが、今では考えられませんが、割と平気でした。

ヤング720は東京からの生なのでそうは行きません。きっちりブッキングして、マネージャーとして同行しました。
早朝の生なので前日入り、TBS近くの旅館に泊りました。
その旅館が5:00に朝食を用意してくれるのですが、ごはん(お米)がムチャ美味しかった事を覚えてます。

豊島園の思い出は誰かが書いていたので省きますが、長谷川キヨシの訴求力の有るギターと歌にはまいりました。

コンサートの方は、タイニー、KGQ、ダボーズに加え、ロッキャンが台頭してきました。チンペイの巧みなMCに加え、三人の声量を伴った素晴らしいオリジナルを含む楽曲。

PJの黄金期だったと思います。チケット販売もますます楽にはなったのですが、超満員、立見まで出たのは2回くらいだったと思います。

こうして初めてスタッフ出身の会長となった私は、70年安保で授業の無い学校とPJで、充実した学生生活を送っていたのですが、ある日新聞を読んでいたら、1970年(昭和45年)に大阪万博が開催されると、記事が載ってました。
1970年と言えば僕が卒業する年です。「何かやりたい。」
と自宅近くに有った万博事務局に飛び込みでたずねました。

今考えると、訳のわからない飛び込みの学生に、足達さんとおっしゃる担当者はよく対応してくれたと思います。
彼は「何かやりたいじゃ判らないから。」と企画書を出すようにとおっしゃいました。
2つ出しました。(ビートルズ呼びたい。)と(全国の上手いアマチュアを一同に会したい。)です。
(ビートルズ呼びたい。)はアホな事言うな、と一蹴されましたが、(全国の上手いアマチュアを一同に会したい。)は面白そうだからもうちょっと具体的に教えて、と・・・・・。

当時は神戸のPJ、大阪のCJ、京都のダイム(フォークル、杉田二郎)・フラワー・AFLフーツ、名古屋のサンデーフォーク(チェリッシュ)、広島フォーク村(拓郎)、東京のスチューデントフェスティバル(森山良子、本田路津子)、博多の九州フォークソサエティー、など全国に任意の文化団体のフォークコンサートが雨後の竹の子のように発生して、それぞれ独自の活動と、相互交流を持ってました。

それらのコンサートから、代表選手を派遣してもらい、全国各地から上手いバンドが集まったコンサートをしようと企画書を協会に提出、その反応は「わかった、無料で万博ホールを貸したげるから、入場無料でしなさい。」でした。

ハタと困りました。チケット売上を経費に当てようと思っていた僕は正直「どないしよう?」です。小屋代が只とは言え、相当の経費がかかる訳です。その源資の宛が外れたのです。頭ひねって、考えて、MBSの松田さんに相談しました。「中井君、レコードにしたらエーやん。」レコード産業のお金の流れがわからない僕は「????。」「ヨー判らんけど、それに頼るしか方法が無い。」と思いました。

(続)





特別ゴルフコンペ報告

2006年05月02日 00時48分28秒 | 真辺のつれづれ日記
PJゴルフのご報告
真辺政博

 当日、優勝の弁をと言う声もありましたが、どうせ「同伴者に恵まれて云々」と言う心にも無い話だろうし、「要らん」と言う田中タミー先輩の一声で、演説は免除してもらいました。しかし、「HPに書いたら」という提案もありましたので、出来れば優勝者が会の報告をしてみてはどうかと思い、先鞭を付けてみました。

 第4回PJゴルフコンペは4月29日、アークよかわゴルフクラブで田中タミーさん以下10名の参加を得て和気藹々の雰囲気の中、開催されました。いつもながら、常任幹事を引き受けていただいているタミー先輩と秘書の石田康子さんに心から感謝申し上げます。
 第1回は西宮高原、第2回は高室池、次のジャパンメモリアルでは1組しか出来なかったのでコンペとはせず、第3回は今回と同じアークよかわで開催されましたが、何れも晴天ではないものの、雨には見舞われずに来たように記憶しています。今回も一日中曇りで、この季節としては少し寒いような一日でした。

 今回のハイライトは何と言ってもスタッフの福田道枝さんの初参加でした。すぐ後の組から見せて頂いておりましたが、豪快な福井、柿本(息子)、手堅い柿本(親)がボールを散らして行く中、真近で見られるロングショットでは実にシャープなパンチでフェアウェーに運んでおられました。多分、ショートゲームがもう少し纏まれば、文句なしの常時優勝候補でしょう。Wぺリアで2位、OUT45でグロストータル4位タイは見事でした。ちなみに、2桁スコア5名の中の1人でした。

 コースとしては確かに狭く、トリッキーでしたが、無理なコースレイアウトと云うほどではなく、結構楽しめたコースだったと思います。ただ、これ程毛足の長いベントグリーンは初めてで、パターをしたらカサカサと音を立てて転がって行ったのには閉口しました。
ドライバー、アイアン共にショットは好調でしたが、一日中パットの距離感が掴めず苦労しました。この辺りが、Wぺリアでハンディキャップに恵まれた要因かも知れません。その上に、ミスショットもあった割りには、トリプルボギー以上なしと言うのが勝因なのでしょうか。崩れそうになりながら良く凌いだと言うところです。

 玄後、柿本(親)、小田口各氏は不本意なゴルフだったようですが、それでもキラリと光ったショットがあって流石でした。とにかく、皆さん結構真面目にゴルフに取り組んで、和気藹々の楽しい一日でありました。

 PJメンバー(勿論、スタッフを含む)を参加資格とするコンペですが、まだまだ対象者が居られる筈です。未登録の方は奮ってご参加下さい。
                                  以上