万博のコンサートの源資確保の為、私はMBSの音楽出版社
「ミリカ音楽出版社」に飛び込みました。
スッタモンダのあげく100万円(今の200万円位のイメージ)を
確保し、前に進む事ができ、ライブアルバムとシングルが出ましたが、
1970年8月13日の当日は徹夜仕込の疲れから、本番中はずっと寝てました。
出演者もスタッフも戦後生まれでやる事をテーマに「テ-マ曲/戦争を知らない子供達」を掲げたコンサートは大成功でした。結局は40万円弱の赤字を出してしまいましたが良い思い出です。
アッそうそう、万博の企画が進むうちに、名刺がどうしても必要
になり、PJの総会で「PJ顧問」の肩書きを書いた名刺を作って良いか?をはかった時、皆が賛成しない中、コロが「こんなに御世話になっている中井さんの為やん。エーんちゃうの?」の一言が僕を助けてくれた事を今でも感謝してます。
万博コンサートの事はPJと直接関係が無いので、これ以上の詳細は割愛します。
大学3年生の時、ヤマハのライトミュージック・コンテストに出場する事になったダボーズはそれに向けて練習に継ぐ練習でした。
倍音が聞こえるまでに完成度を高め、全国大会で「フォーク・ラテン・ハワイアン部門」と言う不思議な部門で優勝、グランプリは「素晴らしい演奏をやってのけた愛知学院大学吹奏楽部」に譲りましたが、準GPでした。詳しい事は傅スケが多分書くであろう本ブログに譲ります。
ステージに立った時の感激、緊張は味わった事は有りませんが、裏方としてコンサート全体を支えるやりがいは、それとは違った感激、緊張を生み、成功したときの「サブイボ」が今の私の原点になっている事は確かです。
4年生になり、柿に会長を譲った後はダボーズの「フェアウエル・コンサート」にむかいました。結果は国際会館が超満員になる大成功。有馬の旅館で皆で大騒ぎした事を覚えてます。
この詳細も傅スケが多分書くであろう本ブログに譲ります。
真辺さん、「地平線の彼方に夕陽が沈み・・・・。」の名調子の司会は
兄の友人の星野さんです。ネコとは違い、ちゃんと各バンドの資料を用意しなければならなかった事を思い出します。
散発的にいろんな事を思い出しますが、どれも表面的で読み物になりません。
最後にPJの経験が今の私の基礎になった事を皆さんに感謝申し上げ、そろそろ筆を置きます。
次は柿本の番ヤデ。
(完)