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オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

2016年09月25日 | 歴史あれこれ
1699年のカルロヴィッツ条約で領土を初めて失った失ったオスマン=トルコ帝国は、その後200年以上に渡って、領土が縮小して衰退をしていきます。


上の赤色の部分が、現在のトルコ共和国の領土で、バルカン半島、黒海周辺、アラビア半島、アルジェリアからエジプトに至る北アフリカ、地中海の島々を領有していたオスマン=トルコ帝国は、現在の領土はイスタンブール周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)のみとなってしまっています。

バルカン半島では、オーストリア=ハンガリー帝国(旧神聖ローマ帝国)やローマ帝国の支援を受け、様々な国がトルコからの独立を果たし、第一次世界大戦が開始された1914年までに、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアがトルコから独立して国家を成立させています。


バルカン半島の国境線の変遷です。

ロシア帝国からは、断続的に戦争を仕掛けられ、1700年以前を除いても、露土戦争 と呼ばれる戦争が第一次世界大戦までに、8回も行われ、トルコ側の2勝5敗1分 とその殆どで負け、オスマン=トルコ帝国の領土がロシア帝国に奪われていきました。

参考までに、それぞれの露土戦争を記しておきます。

1710年~1711年の露土戦争 トルコの勝利

1735年~1739年の露土戦争 勝敗は引き分け

1768年~1774年の露土戦争 ロシアの勝利

1787年~1791年の露土戦争 ロシアの勝利

1806年~1812年の露土戦争 ロシアの勝利

1828年~1829年の露土戦争 ロシアの勝利

1853年~1856年の露土戦争 クリミア戦争と呼ばれ、トルコ側に英仏が参戦したことによりトルコの勝利

1877年~1878年の露土戦争 ロシアの勝利

何回も行われた露土戦争により、オスマン=トルコ帝国の内海で勢力圏だった 黒海 が、黒海沿岸がロシア帝国の領土となっていき、ロシアの勢力圏へと変わっていきました。

そして、この露土戦争の延長上に、ロシアに支援されたバルカン諸国とトルコの戦争の 第一次バルカン戦争(1912年~1913年) 、ロシア帝国とオスマン=トルコ帝国が直接に戦火を交えた 第一次世界大戦(1914年~1918年) へと続いていきます。

北アフリカでも、アルジェリアが1830年にフランス、エジプトが1882年にグレートブリテン・北アイルランド連合王国(通称イギリス)の実質的な支配下となり、オスマン=トルコ帝国の勢力圏が縮小していきます。

こうして、ヨーロッパ列強から 瀕死の病人 とまで呼ばれるようになってしまったオスマン=トルコ帝国は、次々と領土や勢力圏が削られていき、外交上の関係も対等ではなくなっていきます。

トルコの勢力下であったエジプトでムハンマド・アリーが宗主国であるオスマン=トルコ帝国に対して、1831年~1833年と1839年~1840年の2回に渡り、エジプト・トルコ戦争を起こした中で、1838年に通称イギリスが トルコ=イギリス通商条約 を結びました。

通称イギリス側には長期的なトルコを食いモノにしていく狙いが、トルコ側の短期的に反乱を起こすエジプトの力を削ぐ狙いがあり、結ばれた条約ですが、これは 不平等条約 です。

これは、もはや軍事力が上回っていたオスマン=トルコ帝国が、フランスを皮切りにヨーロッパ諸国に16世紀に与えた恩恵的特権であった カピチュレーション とは異なり、関税自主権も喪失した、まぎれもない 不平等条約 に他なりません。

勢力を拡大し、オスマン=トルコ帝国をも滅ぼすかもしれない勢いとなったムハンマド・アリーのエジプトは、トルコ領だったため、トルコ=イギリス通商条約の適用を受け、関税自主権を失い、通称イギリスにより 経済的な大打撃 を受け、力を削がれました。

この事が、短期的にはオスマン=トルコ帝国にとってもプラスになりましたが、結局は1882年には、エジプトは通称イギリスの実質的な支配下となってしまうばかりか、トルコ全土に適用される 不平等条約 により、経済的な大打撃を受け、保護関税を設けれなくなったトルコの綿工業などが壊滅してしまいました。

この1838年の不平等条約は、アヘン戦争敗戦後に清(中国)が1842年に結んだ不平等条約の南京条約に先立つ、最初の不平等条約と言われるもので、開国させられた日本が1858年以降に欧米列強と結ばされた不平等条約へと続いていくものです。

加えてクリミア戦争(1853年~1856年)で通称イギリスとフランスが実際に兵を動員して、ロシアと戦いトルコを助けたことにより、膨大な援助に費やされた戦費などを理由に、戦後、トルコは、英仏の経済的な影響力下に置かれてしまうことになります。

20世紀に入り、トルコを長年苦しめ続けていたロシア帝国が極東のアジア人の日本に日露戦争(1904年~1905年)に敗れる事件に接し、多くのトルコ人を精神的に勇気づけましたが、各国のトルコへの侵食は続けられ、北アフリカに残っていたオスマン=トルコ帝国の唯一の勢力圏にあったリビアの支配を狙ったイタリアが武力攻撃を加えてきました。(1912年~1913年の伊土戦争)

このイタリアの侵略に対して、武装面では劣勢だった ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ) の奮戦もあり、イタリアの侵攻を防いで一進一退の状況に持ち込むことに成功しましたが、この国家存亡の危機に乗じて、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアによるバルカン同盟諸国が、ロシアの援助に支えられてオスマン=トルコ帝国に宣戦布告した 第一次バルカン戦争(1912年~1913年)も勃発し、首都のイスタンブールを脅かされる事態に直面し、リビアをイタリアへ割譲する講和を結ばざるを得なくなりました。

バルカン諸国に攻められ、遂には首都のイスタンブールも陥落の危険が迫り、講和を結びましたが、次に戦争が行われてバルコン諸国に攻められたならば、もう後のない国家滅亡 の状況にまで追い込まれ、残ったオスマン=トルコ帝国の領土は周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)、アラブ地域のみとなりました。

風前の灯だったオスマン=トルコ帝国に第一次世界大戦の直前に 奇跡 と呼ぶには、あまりにも小さな幸運が起こりました。

第一次バルカン戦争の戦勝国間の獲得領土を巡り意見の対立が発生し、ブルガリアに対して、その他の全ての戦勝国のセルビア、モンテネグロ、ギリシャが戦争状態になりました。(第二次バルカン戦争:1913年)

この戦争にオスマン=トルコ帝国もブルガリアに第一次バルカン戦争で奪われた領土の回復を目指して参戦して、エデルネと東トラキアの一部を回復しましたが、帝国滅亡の危機に直面していることにことには変わりありませんでした。




( 続く )



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BLOGタイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/d6afbe1dbf675d4482b9e5bdd0cc0506




BLOGタイトル オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)

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オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)

2016年09月22日 | 歴史あれこれ
1543年に千年以上も続いたキリスト教の東ローマ帝国を滅ぼし、1517年にはエジプトにあった同じイスラム教のマムルーク朝を滅ぼしてカリフを廃位させ、更に勢力を拡大させていきました。


1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を奪いました。

その後の1571年のレパントの海戦では、逆にプレヴェザの海戦と同じスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊と戦い、参戦した285隻中の82%以上の235隻を失う大敗を喫しますが、敗戦から僅か半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを占領し、翌17世紀にはクレタ島への征服を断続的に行い、その領有も確定させ、地中海の大半を掌握しました。


また、ヨーロッパ(バルカン半島)方面に対しても、1521年はにベオグラードを征服、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、1529年には2ヶ月近くも神聖ローマ帝国(ドイツの帝国)の首都のウィーンを包囲しました。(第一次ウィーン包囲)


第一次ウィーン包囲(1529年)、プレヴェザの海戦(1538年)の時のオスマン=トルコ帝国の皇帝が、帝国の最強時代を築いたと言われるスレイマン1世(在位:1520年~1566年)です。

特に第一次ウィーン包囲は、単に軍勢を率いて神聖ローマ(ドイツ)帝国の首都を包囲したというものではありません。


当時のブルク家出身の神聖ローマ皇帝の皇帝のカール5世(在位:1519年~1556年)は、スペイン国王のカルロス1世(在位:1516年~1556年)を兼ねていました。


カール5世のヨーロッパの領土です。

1492年のコロンブスの大西洋航路発見を支援したスペインは、その後もアメリカ大陸への植民地化を進め、カルロス1世(カール5世)の時代には、中南米を中心に広大な植民地を持ち、彼の息子のフェリペ2世の時代には、フィリピンからアメリカ大陸までに至る 日の沈まない帝国 を打ちたてました。


フェリペ2世の世界帝国(植民地)です。(スペインの植民地となったフィリピンの名前は、フェリペ2世の名前に由来しています)

オスマン=トルコ帝国のスレイマン1世は、当時、世界最強の神聖ローマ帝国の皇帝とスペイン王を兼ねていたハプスブルク帝国の首都のウィーンを攻撃して、2ヶ月近くも街を包囲していました。


オスマン=トルコ帝国は、その後も領土を拡大し続けて、1683年には、帝国の領土が最大になります。


しかし、1683年に強引に大軍を率いて、2ヶ月近くもウィーン包囲(第二次ウィーン包囲)を強行した結果、その後、神聖ローマ帝国との16年に及ぶ戦争が続き、トルコは1699年にロシアを除くヨーロッパ諸国とカルロヴィッツ条約を、1700年にロシアとコンスタンティノープル条約を結び、ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラボニアを神聖ローマ帝国内のオーストリアに、ダルマチアをヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに、アゾフをロシアに割譲することが決まり、拡大していった領土が小さくなりました。

これを境に、オスマン=トルコ帝国は、衰退へと向かっていきます。

今回の前編ではオスマン=トルコ帝国の勢力が拡大していく過程を記しましたが、その中で特筆すべき事が起きています。

それは、当時の世界最強のハプスブルク家のカール5世のウィーンを包囲して追い詰めた皇帝スレイマン1世の治世に、ハプスブルク家の領土のスペインとドイツに挟まれたフランソワ1世が治めるフランス王国と共通の敵に対抗するために秘密同盟を結んでいますが、その同盟関係の中において、スレイマン1世が1536年(別説では、スレイマンの死後の1539年)に、フランス人に対して、トルコ領内での恩恵的待遇という意味の カピチュレーション を付与しています。

このカピチュレーションとは、トルコ領内に在住するフランス人に対し、通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障し、治外法権 までも認めたものです。

これらの権利は、逆にフランス領内に在住するトルコ人に認められたものではなく、トルコがフランスに与えた一方的な特権で、不平等性 を有するものですが、アヘン戦争に負けた清(中国)や黒船に脅された日本が結ばされた 不平等条約の中の 治外法権 と、中身の内容的には、ほぼ同じですが、特権を認めた経緯 は大きく異なります。

16世紀当時のオスマン=トルコ帝国とフランス王国には、歴然とした力の差があり、オスマン=トルコ帝国の方が圧倒的に強国 でした。

まさしく 恩恵的待遇という意味 で、強者が弱者に対して、特権を与えたのです。

圧倒的な力の差がある場合に、強者は、その弱みにつけこむことを恥とする日本人の伝統的な文化と、何かの共通した部分を感じます。

1699年を境に、オスマン=トルコ帝国の力が衰退していき、元来は 恩恵的な意味で与えた特権が、不平等条約としての意味合いに変わっていく過程は、後編で記していきたいと思います。



( 後編に続く )




オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

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BLOGタイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

2016年09月19日 | 歴史あれこれ

歴史学の本質と全く異なる語呂合わせまで使って出来事が起きた年を丸暗記することほどナンセンスなことはないという自論を持っているので、1517年という年を暗記などする必要は全くありませんが、西欧キリスト教世界と西アジアのイスラム教世界の双方にとっても転換点となる出来事が起きた年です。

未だに日本を含めて世界的に欧米中心の歴史観に世の中が支配されていて勘違いしてしまいそうですが、西洋が歴史において常に世界を文化的、実力的に進んでいた訳ではありません。

中世などは(文化的な)暗黒時代と言われ、教会関係者の多くがラテン語で記された聖書も満足に読めず、(当時、まだ西洋では紙は使われていませんでしたが)紙芝居のような絵でラテン語で記されている聖書とも少し異なる教えを行う宗教活動をしていたと言われるほど、文化的に酷いレベルだったそうです。

西欧が他の世界に追いついたのは、もう少し後のことですが、1517年 という年は、偶然にも、西洋のキリスト教世界にも、東洋(中東)のイスラム教世界にも、ひとつの転換点となった年でした。


キリスト教の世界では、ドイツ人の神学者 マルティン=ルター がヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に 95ヶ条の論題(正式名称『贖宥状の意義と効果に関する見解』)を掲げ、聖書には記されていない 免罪符販売 をローマ教会が行っていることを訴え、アタナシウス派(カトリック教会)を公然と批判した 宗教改革 を行開始した年が 1517年 でした。


一方のイスラム教の世界では、セリム1世が率いるオスマン=トルコ軍がカイロを占領してマムルーク朝を滅ぼし、イスラム世界での君主の最高位である スルタン キリスト教世界における皇帝のようなもの)の位を奪い、既に1258年に滅亡したアッバース朝のマムルーク朝に保護されていた預言者ムハンマドの後継者を意味するイスラム教スンニ派の宗教的な最高指導者である カリフ (アタナシウス派キリスト教世界におけるローマ教皇のようなもの)を廃位させた年が、同じく 1517年 でした。

西ヨーロッパでの宗教改革の動きは14世紀のイングランドでのウィクリフ、15世紀のボヘミアのフスなどを経た後にルターの宗教改革が起こり、実際には1536年に キリスト教綱要 を著したスイスで宗教改革運動を成功させたフランス人 カルヴァン の提唱した、現世での善業や悪業に関係なく死後に天国へ行ける者と地獄へ行く者とは、最初から神のご意志で決まっているとする 予定説 が広まり、キリスト教の安息日である日曜日に 商業活動(労働)をしても宗教的な規範に反することはないという説が西ヨーロッパ世界で支持されたことにより、その後の世界侵略、産業革命、世界の殆どを植民地化してしまうための出発点を踏み出すことになります。

逆に1517年にマムルーク朝を滅ぼしてカリフを退位させたオスマン=トルコ帝国は、16世紀初頭にはオスマン=トルコ帝国の皇帝が、スルタンとカリフを兼任する スルタン=カリフ制 を行い、中東のイスラム世界では、世俗面だけでなく宗教面においても、オスマン=トルコ皇帝の意向に逆らうことが難しくなり、オスマン=トルコ帝国では、その後に新しく発明された科学技術や制度が、それがイスラム教の教義に適しているか反するものなのかをイスラム教の高僧たちが審議し、適したものだと反対されたもの以外は違法なものとされる社会となっていきます。

例を挙げるならば、蒸気機関(鉄道)や電気、電信、株式会社や銀行などは、イスラム教のコーランに記されていないものであり、オスマントルコ帝国では、当初は違法なものだと判定され、違法なものだとされ、その後様々な新発明や新しい制度を次々と導入していったキリスト教世界と、新しいものの殆どを否定して受け容れなかったイスラム教世界の差が生じていくのです。




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安息日など宗教的な規範による人間の心の健全化と社会の硬直化について

2016年09月19日 | 歴史あれこれ


私は朝晩、必ず仏壇を拝んでいますし、宗教が人に対して良い規範をもたらすことも多くあると思っています。

国語辞典や百科事典で 規範 の意味を改めて確認すると、行動や判断の基準となる模範、手本のことで、信仰を実現するための宗教的な規範の他に、善を実践するための倫理的・道徳的な規範、美を追求するための芸術的な規範、社会に秩序を実現するための社会的な規範などがあると記されています。

(このシリーズで)前回の掲載で言及した一神教の宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも、それぞれに様々な 宗教的な規範 が存在します。

BLOGタイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/bdcffb21ed209636a2714646ec908e77


様々な違いはありますが、同じ神様を信仰している3つの宗教には共通した規範もあり、その一つが 安息日 です。

天地創造の7日目に神様が休息したことによると言われ、ユダヤ教では土曜日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)、キリスト教では日曜日、イスラム教では金曜日と、曜日が異なりますが、いずれも7日に1日の 安息日 があります。

安息日には、一切の労働が禁止されていて、少し前までの週休1日、現在の週休2日制も、遡れば安息日に辿り着くとも言われますが、逆に言えば現在では、キリスト教徒にも多くの日曜日に労働する人がいるなど、安息日が徹底されている訳ではありません。

性悪説を肯定するつもりはありませんが、他人や社会への被害などお構いなしに人間が無制限に欲望追求をすれば歯止めが利かなくなる危険があり、倫理的・道徳的な規範と並んで宗教的な規範も重要な役割を果たしている部分は否定できません。

しかし、倫理や道徳は時代や社会の変化により 基準を 柔軟に少しずつ変化 させることが比較的容易なのに対し、宗教は 神の言葉 なので、柔軟にその解釈を変更することは難しい部分があり、宗教的な規範が徹底されている社会は、その社会が 硬直化してしまう 傾向に陥ってしまう場合があります。

バランス感覚だと言ってしまえば簡単ですが、人間を良い方向へ導くための 規範 の有効性と社会の 硬直化 のリスクの回避を上手に実現できる社会は、理想的だと言うことは、間違いないと私は思います。




※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。



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BLOG記事タイトル カトリック=アタナシウス派

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BLOG記事タイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

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BLOG記事タイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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一般の患者と全く同じに診察待ちをして糖尿病の治療をしていた超大物政治家

2016年09月18日 | 心の偏差値
誰もが名前を知っているような大物政治家にとって病気の噂は決してプラスに働かないので隠したいものです。

各種パーティーなどで飲食の機会も多く 糖尿病を患っている ことを知られたくない筈です。

1991年に重度の糖尿病だと解り、糖尿病専門の病院に入院し、その後、現在も引き続き、私の母は26年間、その病院に2ヶ月毎に通院を続けています。

その母が、以前、実際に見た間違いない話を掲載します。


待合室で順番を待っていた母が聞いた患者さんを呼ぶ名前

「※山※※さん」

あまりにも有名な名前に反射的に、呼ばれた患者さんの顔を見た母が驚いたのは、超大物政治家本人 だったそうです。

いくつもの大臣や官房長官、自民党幹事長も歴任し、総裁選挙にも出馬して、次点(2位)だったために総理大臣にこそなれなかった人ですが、既に今は他界されてしまっている方ですが、誰もが名前を知っている大物政治家です。

ここまでの大物政治家でなくとも、白い巨塔のイメージなどから、それなりの権力者や金持ちは、一般患者とは異なる何らかの特別の方法を用いて 順番待ちなどせずに秘密裏に受診 するイメージがあったため、このような大物政治家が、何の特権も用いずに、一般患者と全く同じ条件で、糖尿病の専門医を受診していることに、その人間性の素晴らしさに感服しました。



( 続く )




その他の シリーズ 心の偏差値 の各記事の一覧は下記のURLに載っております。

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/cb3273f5b779ad947160f885015d4e38

イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

2016年09月15日 | 歴史あれこれ

ご存知の方も多いかと思いますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神様は、同じ神様です。

これら3つは共に聖地エルサレムから出た 一神教 なので、ユダヤ教では アドナイ 、キリスト教では デウス 、イスラム教では アラー などと呼ばれますが、いずれも同じ神様である ヤハウェ のことを指しています。

ユダヤ教は紀元前13世紀、キリスト教は紀元1世紀、イスラム教は紀元7世紀と3つの宗教の成立した時代が大きく異なりますので、同じ神様とはいえ、ユダヤ教は以降に成立したキリスト教とイスラム教を、キリスト教はイスラム教を認めていませんから、(最も新しい)イスラム教から見た場合にのみ3つの宗教の神様は同じだということになります。

キリスト教(の聖書)は、旧約聖書と新約聖書の2つから成り、両者を合わせて聖書だとされますが、旧約聖書とはユダヤ教の聖書のことで、ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが聖書です。

また、ユダヤ教の預言者であるエレミヤやエゼキエルなどはキリスト教の中でも 預言者 として扱いをされており、イスラム教でも同じく 預言者 としての扱いをされています。

(キリスト教の)イエスを例として説明すれば、3つの宗教の関係が解りやすいです。

キリスト教の立場からすれば、神を信じるユダヤ民族だけが最後に救われるという 選民思想 を持つユダヤ教から脱却し、民族に関係なく、神を信仰する者は全て救われるという教えのキリスト教を作ったのが、イエス であり、後にキリスト教の主流となったアタナシウス派の説である 三位一体説 により、イエスは神と同等の位置にある人間ではない神性を持った存在だとされています。

ユダヤ教から見れば、イエスは 救世主(メシア)を語った偽物 である、許しがたい存在でが、後に成立したイスラム教では、イエスは 預言者の一人 としての扱いを受けて評価されています。

ただし、イスラム教では、イエスは、キリスト教(のアタナシウス派)が言うような神ではなく、あくまでも人間です。

遥か昔より、数々の偉大な預言者を世の中に出現した中で、イスラム教では、最大にして最後の預言者が、ムハンマド(マホメット)であり、彼により語られた神の言葉が記されたものが コーラン です。

ちなみにユダヤ教にも、イスラム教にも、預言者は登場しますが、彼らはあくまでも人間であり、創始者であるイエスを 神と同等と位置づけているキリスト教(のアタナシウス派) が特異だとも言え、三位一体説を主張していますが、ユダヤ教やイスラム教より 一神教ではないのでは? との批判を受ける部分でもあります。

個人的には、古代より日本で育まれた 森羅万象 に神の発現を認める 八百万神(やおよろずのかみ)の方が、心が穏やかになり良いと感じるので、本当に正しいかどうかは別として、宗教学を突き詰めるという思想学としての学問的な見地からすると、一神教と偶像崇拝の禁止 に辿り着くそうで、その意味では、キリスト教よりも、後発で成立したイスラム教の方が、一神教と偶像崇拝の禁止を徹底している宗教だと思います。



※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。




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カトリック=アタナシウス派

2016年09月14日 | 歴史あれこれ
ローマ教皇(法王)がキリスト教世界の頂点に立っているような言い方をする日本のマスコミも存在しますが、ローマ教皇は俗に言うカトリック教会の頂点の存在であって、全てのキリスト教の代表者ではありません。

主に西欧からアメリカ大陸へ広がる西方教会には、カトリック以外にも俗に言う(各派の)プロテスタント があり、主に東欧には 東方教会(ギリシア正教会) があり、ローマ教皇の力の及ばないキリスト教の宗派が多くあります。

カトリックという言葉が、ギリシャ語の katholikos という 普遍的 という意味の言葉から由来するそうですが、大学時代に 哲学・倫理学 を専攻していた私には、思想学としての宗教学として、キリスト教徒でない私からすれば、普遍的という感じはしないので、自分の心の中では アタナシウス派 だと捉えています。

尚、私はキリスト教徒ではなく、キリスト教は賛美もしなければ、冒とくするつもりも全くなく、思ったことを記しているだけなので、信者の方などが、気分を害されることがあれば、どうか、お許しいただきたく存じます。

アタナシウス派は、日本の高校の歴史の教科書にも、4世紀(西暦325年)に開かれた(第一)ニカイア宗教会議 において、イエスの存在が人間かどうかの解釈において、人間面に重きを置いていたアリウス派の主張に対して、アタナシオスらが主張した、神、イエス=キリスト、精霊の3つが全て神性を持っているという 三位一体説 が勝利したことが記されています。


(ニカイア宗教会議)

少し余談になりますが、歴史の教科書には、その辺りの出来事を、三位一体説を主張した代表者だったアタナシオスの名前から、アタナシウス派 と記されていますが、キリスト教の世界で、アタナシウス派なる用語で呼ばれることは殆どないそうで、主張が勝利したニカイア宗教会議の地名に由来する ニカイア派 などの用語が一般的だそうです。

(しかし、日本の教科書にも載っているアタナシウス派という用語を用いて、これから先も書き進めます)

ローマ教皇の力の及ばない東方教会やプロテスタント各派も、アタナシウス派から派生したため、広い意味では、全てがアタナシウス派と呼んでも差し支えないのですが、大筋では、キリストの神性を認めながらも、三位一体に対する解釈 が微妙に異なるため、狭義の意味で、ローマ教皇の力の及ぶ、俗にカトリックと言われる宗派を私はアタナシウス派だと呼んでいます。


(ローマ教皇庁のあるバチカンのサンピエトロ大聖堂)


最後に大学時代に宗教学を学んだ経験より ‥‥

この事が、本当に正しいのかどうかは、未だに自分自身でも解りませんが、 という存在を突き詰めていくと、2つの事に辿り着く ‥‥ と。

一つは、神は唯一の絶対的な存在なので、一神教 に向かっていく。

神は、全知全能な絶対的に高い存在なので、人間ごときが想像できないような凄い存在だから、偶像崇拝からの脱却 が起こる。

一神教と偶像崇拝の禁止 の2つが、思想学的な見地から、優れた突き詰められた宗教ということになるそうです。

アタナシウス派は、イエスに神性を与えることで、一神教から遠ざかり、三位一体説という苦しい解釈をし、更にイスラム教からの批判に応えて偶像崇拝を禁止した東方教会(ギリシア正教会)や、プロテスタント各派の多くが禁止している偶像崇拝を一度も否定したことのないローマカトリック教会は ‥‥‥ と、個人的に感じる部分もあります。




--- 関連情報 ---



BLOG記事タイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

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BLOG記事タイトル 安息日など宗教的な規範による人間の心の健全化と社会の硬直化について

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BLOG記事タイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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学校の授業で教わる歴史とは違った切り口で、歴史の話を伝えていければ ‥‥ と思っています。


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モーツァルトの交響曲で金管楽器をもっと大きな音で演奏して欲しい!(交響曲第40番4楽章など‥‥)

2016年09月13日 | 音楽の素晴らしさ
モーツァルトの交響曲第40番(ト短調)には金管楽器として2台のホルンが楽器編成に組み込まれています。

私が残念に思うのは、多くの演奏でホルンは小さな音でしか奏でられず、あまりにも存在感がありません。


この総譜(スコア)は私が中学2年生の時に買ったもので、言うなれば35年以上も、もっと金管楽器を大きな音量で! と思い続けていたことになります。

昔から、マーラーの演奏は概して金管楽器の音が大きすぎて、逆にモーツァルトは小さすぎる ‥‥ と感じていました。

大編成のオーケストラを用いて作曲されているとはいえ、本質的には室内楽的な作風だと思っている私には、マーラーの演奏での金管楽器の音量は、概して 大きすぎる と感じます。

それにひきかえモーツァルトの演奏では、金管楽器が不当にも音量を抑えて演奏されているように感じます。

モーツァルトの時代には、金管楽器のピストンやロータリーが発明されていなかったので音階(の全ての音)が演奏できない部分はありますが、それならば少し後のベートーヴェンも同じですが、ベートーヴェンの曲では、金管楽器は大きな音量で演奏されています。


私が思う端的な例が、交響曲第40番(ト短調)の第4楽章の 147小節目 からのホルンです。

それまでピアノ(小さな音)の指定だった曲が、一小節前の146小節目のビオラからフォルテ(大きな音)を出す指示になり、続く147小節目からのホルンも フォルテ で演奏する楽譜上の指示です。

当時のホルンは音階が演奏できないので2台のホルンが代わる代わる演奏し、しかも演奏3小節はホルンが演奏できませんが、それでも161小節目までの 15小節 の間、ホルンが重要なフォルテ(大音量)を奏でる指示が楽譜に記されているのですが、残念ながら、多くの演奏は、弦楽器の影で 控えめに演奏されている に過ぎません。







https://www.youtube.com/watch?v=qzBwa2jI1Oc&spfreload=10

上の動画の29分05秒からが、該当の147小節目ですが、動画も弦楽器奏者が写っているように指揮者には、ホルン(金管楽器)を響かせようとする意図もなかったようです。








上の動画では(4楽章だけなので)2分33秒からが該当の147小節目ですが、こちらの演奏は比較的ホルンが大きな音量が演奏されていますが、それでも、私は更に大きな音量で演奏してもらいたと思っています。




( 続く )




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音楽の素晴らしさを私の拙い文章でどこま表現できるかわかりませんが、記していきたいと思います。



音楽に関連するシリーズ 伝説のピアニスト 川上敦子さん(全25話)も併せてお読みいただければ幸いです。

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演奏不可能と言われたリストの超絶技巧練習曲(1837年版)を日本で初演したピアニスト
川上敦子さんのことを掲載したシリーズです。
最終話:2015年3月11日掲載 川上敦子さんから頂戴したお心




音楽に関するシリーズ 世界が実力を認めたピアニスト 川上敦子さん も併せてお読みいただければ幸いです。

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/ab144349ca849a6e6f7e8514a704a86e
大成功のカーネギーホールのリサイタルと同じ演奏を聴きました!
既にシリーズ掲載を完了している 伝説のピアニスト 川上敦子さん(全25話)の続編にあたります。




たった4ヶ月で国産の火縄銃を完成させ、黒船の二年後には蒸気船を作った日本人の凄さ

2016年09月05日 | 歴史あれこれ

日本人が科学技術面で大きな衝撃を受けた出来事として1543年の種子島での鉄砲伝来と1853年の浦賀への黒船来航を挙げることが出来ます。

火縄銃に関しては最近では種子島よりも前に倭寇により日本に伝わっていたとする説が有力ですが、特筆すべきことは、火縄銃の実演を見た2梃(一節には3梃)を購入した種子島の島主・種子島時堯に複製を作るように命じられた刀鍛冶の八板金兵衛らが、たった4ヶ月という短い時間 で日本初の火縄銃を完成させたことです。

当時の人口(比率)は解りませんが、現在の種子島の人口や約3万3千人で、日本全国の人口(約1億2千8百万人)の たった 0.0026% にしかすぎません。

物凄い確率の中で、大天才の刀鍛冶の八板金兵衛が種子島に偶然にも住んでいたいたと考えるようりも、種子島にいた(全国で)平均的な能力を持った刀鍛冶が、短期間で火縄銃を複製できるほど、当時の日本人の技術がいかに凄かったかを物語るものだと私は思います。



その証拠に、戦後時代だったこともありますが、その後、日本の各地で、(国産の)火縄銃が次々と作られていったように、八板金兵衛だけにしか火縄銃を作れなかったのではありませんでした。

国産の火縄銃を作るにあたって、西洋人からの指導は全く受けずに完成させたのですが、複製するために分解するサンプルがありました。


しかし、黒船が来航して、日本人が初めて目にした蒸気船については、指導する西洋人の技術者もいなければ、複製するために分解などを行うサンプルも全くなく、オランダ経由で取り寄せた書物だけで、蒸気船の製作を行い、黒船来航と同じ1853年中に佐賀藩が模型の蒸気船を、2年後の1855年には、薩摩藩が国内初の蒸気船の 雲行丸 を、更にその2年後の1857年には宇和島藩が蒸気船を 独力で完成 させていおり、日本人の凄さを物語っています。





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