音楽の素晴らしさ

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収納機能のあるお花台を作りました

2017年05月08日 | DIY(自分で作ったり修理したりする)

我が家の小さなサンルームの手前の空間に置くための収納機能のあるお花台を作りました。


元々は既製品の収納庫の上に花を飾っていたのですが、これを別の場所にもっていき、寸法に見合った新しい木製の収納庫を作ることにしました。

また、この空間は、ドクダミなど、雑草が多く、それらをシャットアウトするために、地面をモルタル処理することも併せておこないました。

横幅 1600mm 奥行 400mm 高さ 800mm のを作り、地面もモルタル処理して、砂利とレンガを敷き詰めました。


まだ、あまり物は入っていませんが、べニアで作った戸を開けると収納スペースがあります。




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驚くことに生きるか死ぬかの戦国時代の武士たちは鉄砲に否定的だった

2017年05月02日 | 歴史あれこれ

隣国から攻められて滅亡する危機と隣り合わせだった戦国時代にヨーロッパから伝わってきた最新兵器の鉄砲(火縄銃)に多くの武士たちが拒否反応を示していました。
 
どうして?

現代人の視点からは、それまでの戦(いくさ)を一変する威力を持つ兵器を受けいれようとしなかったことが不思議ですが、そこには 人間の本質のある一面 が典型的に表れていると言えます。

当時の鉄砲以外の主な武器には、刀、槍、弓などがありました。

それらの武器を使いこなすためには、日々の鍛錬(訓練)を重ねる必要がありました。

全くの素人に武器だけ渡しても、上手に使いこなすことは出来ないからです。

そうした状況では、戦国大名のそれぞれの家には、刀の達人、槍の達人、弓の達人など、それぞれの分野での達人達が存在していた筈です。

そかも、それらの達人達は、その優れた武術(武器の使用法)を親から子供へと伝えていくことで、※※家は、槍の達人の家 というように、戦国大名家の中で、その地位を確立していたと思われます。

戦(戦争)となれば、槍隊は名門の※※家、弓隊は名門の※※家に任せる ‥‥ といった陣容となります。

いざ、戦(いくさ)となれば、上記のような枠組みが作られ、その中で、有力家臣たちの位置づけ(ポジション)が決まっていた中で、全く新しい 鉄砲(火縄銃) という兵器が登場してきたのです。

同じ飛び道具の弓よりも殺傷力が大きく、弓のように立ち上がって放つ必要がなく、腰を落として撃つことが出来ます。

離れた距離から鉄砲で攻撃されれば、刀や槍を持った兵士たちは、相手(敵)に攻撃を加えようとする前に殺されてしまいます。


部隊の主力を 鉄砲隊 に変更することで、兵士の数が同じでも、軍事力を各段に増大させることが可能になります。

殿様(戦国大名)からみれば、このような画期的に素晴らしいことでも、殆どの家(戦国大名家)では、軍事改革は行われませんでした。

軍隊の主力が鉄砲隊となれば、自分たちの代々、引き継がれていた、槍や弓の名門というポジション(立ち位置)を失うことを恐れたのです。

出来るだけ遠くへ矢を飛ばす必要性がある弓は、威力を発揮させるための構えや狙う方向など、長い期間、相当な鍛錬を積んで、技術を身につけたと思われますが、新兵器の鉄砲を実践で使えるようになるのに、弓ほどに長い期間の鍛錬が必要ではなかったことは、想像に難くありません。

つまり、弓や刀、槍などの(伝統的な)武器を、大して使いこなせない下級兵士(足軽)たちに、鉄砲の使い方を教えて、鉄砲隊に編入させて戦(戦争)で戦わせれば、これまで、戦で、大きな成果を出していた、弓や槍、刀の達人たちの活躍の場が失われることを意味します。

鉄砲は ‥‥
・雨が降れば(火縄の火が消えてしまうので)使えない
・暴発(火薬が破裂)する危険がある
・威力はあっても一丁が高価で財政を圧迫する

など ‥‥ 、鉄砲のマイナスばかりを挙げて、反対するのです。

隣国が大規模な鉄砲隊を組織して攻めてくれば、自分の国は滅んでしまう危険性よりも、自分の所属する家(戦国大名家)の中での、自分のポジション(保身)を大切 にして、鉄砲に反対したのです。

トップである戦国大名は、現代で言うビジネスでのトップと同じで、マネージメントを重要視せざるを得なかったのでしょう。

主だった部下たちが反対しているのだから、我が軍の主力を一気に鉄砲隊に切り替えることは出来ない ‥‥ と考え、結果として、全軍比率からすれば、10%程度規模の少数の鉄砲隊を組織させた戦国大名が殆どだったようです。

近視眼的な自分の現在のポジションを優先して、自分が所属する組織の存亡に関わる将来の見通しが出来ない場合がある ‥‥ という 人間の弱点が表れた典型的な事例 だと言えます。

弓隊を率いていたトップの家臣ですが、その豊富な経験を活かして、鉄砲隊の隊長になれば、まだ誰も効果的な戦術を模索中だった鉄砲を効果的に用いて、大きな戦果を挙げることが出来た筈ですが、多くの武士たちは、そのような発想の転換を行って新境地へ踏み込みませんでした。

生きるか死ぬかの戦国時代の話をしましたが、この話、現代のビジネスの話と多くの部分で重なります。

ライバル企業と食うか食われるかの戦いが日々、繰り広げられています。

現代の転職やヘッドハンティングのように所属する企業を変える人がいるように、戦国時代の武士たちの中にも、仕える主君を必要に応じて変えていった者もいました。

しかし、全員ではありません。大多数は、運命共同体的に、自分の家(戦国大名家)や自分の企業(会社)の中で、必死に働いています。

しかし、自分の所属する企業が倒産に追い込まれてしまえば、昨日まで、その企業の中で、それなりのポジションにいたとしても、何の意味もありません。

だからこそ、近視眼的な保身の呪縛から解放された柔軟な発想力を磨いておく必要性があります。

多くの戦国大名たちが、部下(家臣)たちの反対もあり、大々的な鉄砲隊の編成を行わなかった中、唯一、軍隊の主流を鉄砲隊に変えた戦国大名がいませい。


あの有名な織田信長です。信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか領土を持っていなかった弱小な戦国大名でした。


現在の愛知県は、昔の尾張国と三河国の2国からなりますが、尾張と三河の面積比は、約 1対2 で、領有していたのは、尾張(地図上の赤色)の半分しかなかった織田信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか支配していなかった弱小戦国大名でした。

歴史が物語る事実として、名だたる有力な戦国大名たちは、次々と織田信長に滅ぼされていき、信長は天下統一目前にまで辿りつきました。

現在の日本の企業の中でも、多かれ少なかれ、汗を流して一生懸命に働いている社員が頑張っている人間だという高い評価を得る傾向があります。

日々、相当な鍛錬(訓練)を行い、敵の矢が降り注ぐ危険の中で、矢を放つ弓の使い手の方が、腰を屈めて鉄砲を撃つ足軽(下級部下)よりも、立派に映る(見える)のと似ています。

経験上、私の得意なExcel(エクセル)の複合関数や簡易マクロ(VBA)を使ったプログラミングによる効率化に対して、斜に構える人がいない訳ではありません。

全員ではありませんが、それぞれの年齢層や地位で、自他ともに、それなりの高い評価を得てる人ほど、Excelプログラミングによる効率化計画に距離を置きたがる傾向があるのは、戦国時代の鉄砲の話と共通する部分を感じます。




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消えてしまったの?

2017年03月10日 | BLOG総合

鍵付きの所へ引っ越している最中かもしれませんよ。


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【拡散希望】 「お待たせしました!」という一言で世の中を良い方向に変えていける筈です

2017年02月26日 | 日本を思う

車同士で譲ってもらった時にハザードランプを点滅させて挨拶する日本人の気配りの文化に外国の方たちは感心・感激するようです。

教習所では教えない正式なルールではないので、一部には、これに反対している人もいるようですが、ちょっとした気配りでお互いの心が温かくなる素敵な習慣が(年数には諸説あるようですが)たった数年の短い期間で一気に日本全国に拡がり、すっかり文化と呼べるまでに根付いたと言われます。

何気ない思い遣りの心を拡散させて 日本特有の素晴らしい文化 にまで押し上げる凄い能力が日本人にはあると思います。

ハザードランプを使った気遣いのように、やり始める人が増えることで、一つの文化が形成できる可能性を思い、ネット上でも拡散してくれる方がいるかもしれないという期待を込めて、微力ながらBLOG化して掲載させて頂きます。

取り上げた題材が綺麗なものでないのが、恐縮ですが、「お待たせしました!」 と声に出して言える文化を拡げたいです。


我慢の限界を感じて飛び込んだ駅などの公共トイレには 既に長い列が出来ていた ‥‥ という辛い経験をされたことのある方も多いかと思います。

かく言う、生まれてから一度も便秘をしたことのない緩い体質の私も、このような経験を何度もしています。

他の人も同じ辛さで並んでいるのでしょうだから、自分の順番が来るまで、じっと我慢するしかありませんが 1秒でも早く自分の順番が回ってくること を願わずにはいられません。

トイレの個室に入っている人の中には、酷い下痢により排便が断続的に繰り返され、なかなか落ち着かずに悪戦苦闘が長時間に及んでしまっている場合もあると思います。

しかし、最近、多くの人が指摘していますが、不必要に長い時間、公共のトイレに居座る人間が増えてきた のではないかと思うケースが、しばしば見受けられます。

排便ではなく、トイレに座ってスマホやゲームに興じているのでしょうか? 扉は閉まっていても、何となく中の気配は伝わってくるもので、酷い下痢で苦しんでいる人の気配とは明らかに異なります。

日本人の国民性は、とても温厚なのでしょうか?

「グズグズしないで早く出てこい!」 などといった罵声が、トイレの順番待ちしている人たちから飛んでくるケースは殆どありません。

辛くても、じっと我慢して順番を待っています。

一部の心無い人たちのトイレの長時間滞在が、これ以上、拡がらないために出来ることは何かないだろうか?

反発を招く逆効果とならない良い方法は ‥‥ と、少ない知恵を絞って思いついたことでした。

(自分に出来ることは、なるべく早く用を済ませてトイレから出ることなので)トイレを出た時に、「お待たせしました!」 と待っている人たちに聞こえるように声を発するようにしました。

「お待たせしました」 という一言が、皆が辛い状況下で公共のトイレを使わせてもらっている同じ立場なのだということを自覚するキッカケになれば ‥‥ と。

この一言を言うひとが、1人ずてでも増えていき、次第に畝り(うねり)となって拡がり、日本人の文化の一つになるように拡散 してもらえれば、とても素晴らしいことだと思います。





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綿密に計画された作戦を実行して勝利した桶狭間の戦い

2017年02月26日 | 歴史あれこれ
私の子供時代には迂回して少数の兵で背後から急襲して今川義元の首をとって織田信長が勝利したとされた桶狭間の戦いも、最近では正面攻撃を行い勝利したとの説が有力になってきましたが、織田信長は(本人も驚くような偶然の)幸運で勝利できた戦いであったように依然として評されていることが多いです。

しかし、私は、そのようには思いません。

歴史学者でもなく、何かの(歴史的な)証拠をもっての主張ではありませんが、後に天下統一の目前まで行きついた織田信長ほどの男が、本人さえもが驚くような幸運が転がり込んで勝利できたに過ぎないとは私には思えません。

(大名ではなく)守護代に仕える3人の有力家臣の一人であった父親の死後、守護代であった織田本家や実の弟との争い(内戦)を経て、織田信長が尾張の国の約半分の支配を達成できたのは、彼が26歳の時、桶狭間の戦いの前年の1559年でした。

織田信長が尾張の国の西半分を支配下に置いた翌年の1560年、既に駿河・遠江・三河の三国に加え、尾張の東部も支配下に収めていた戦国大名の今川義元が2万人とも4万5千人とも言われる大兵力で尾張に攻め込んできました。

以前は今川義元が目指していたのは京で、その通り道に当たる織田信長のいる尾張をまずは蹂躙しようと攻めてきたと言われていましたが、最近の研究では、今川義元が京を目指していた痕跡は見つからず、大軍を擁して尾張を征服することが狙いだったという説が一般的になりました。

織田軍が動員可能だった兵力は最大でも5000人ほどだったと言われ、兵士の数の上では圧倒的に不利な状況にあったことは間違いありません。

相模の大大名の北条氏、甲斐の大大名の武田氏と同盟を結び、背後に心配がなくなった今川義元が狙ってくるのが織田信長が支配していた尾張だったことを織田信長は当然、解かっていた筈です。

大軍を擁して攻めてくるであろう今川義元に対して、織田信長は、いかに劣勢の兵力で戦い勝利するかを綿密に何通りものパターンを想定して、作戦をたてていたと思われます。

以前の有力だった、半ば破れかぶれで、少数の兵力で山道を進んでいった所、眼下に今川義元の軍を発見して急襲したことろ(偶然にも)今川義元の首をあげることに成功したのでもなければ、現在は有力となっている今川軍に正面攻撃を仕掛けたところ、偶然にも今川義元の本隊が近くにいて勝利できたのでもなく、言われているような 偶然に ‥‥ というような幸運的な要素 は、なかったと私は思います。

松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊と本隊が離れていたために、今川義元の本隊の兵力は6000名程度で、織田信長が率いて攻撃した3000名ほどの兵力と、兵力的な開きは、それほどなかったと言われていますが、ここが綿密に検討を重ねた上での、最大のポイント だったのだと思います。

予め、想定しておいた今川軍の本隊が前衛部隊との距離が離れて織田軍との兵力差が最も縮じまり、劣勢の度合が少なくなる 時間と場所が合致するポイント を狙って攻撃を仕掛けたと思われます。

それでも、数字上の強さは劣勢な織田信長が、絶対的な勝利の自信などはなかったとは思いますが、勝利できる可能性の最も高いであろうポイントに全てを賭けたのでしょう。


結果は、見事に今川義元の首を取り、総大将を失った今川軍は撤退を始め、更に奥地に攻め込んでいた大兵力を擁していた松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊が撤退してくる際にも、(ある意味で)素通りさせることで、自軍の損害を最小限に留める大勝利を収めることに成功しました。

引き揚げてくる松平元康(後の徳川家康)とは交戦しない(交戦すれば劣勢な織田軍は壊滅してしまう危険があった)ことも計算の範囲内だったのでしょう。

丁寧に綿密に様々なパターンを想定して、その対策を準備していたとしても、全てが計画通りに運んで成功することなどは、寧ろ稀で、その意味では、桶狭間の戦いでの勝利は、幸運だった と言えますが、広く言われているような、織田信長が、全くの無策に近い形で戦いを挑んで幸運にも処理したのではないだろうと私は思っています。

余談ですが、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役の柴咲コウさんが演じる直虎の父親の杉本哲太さんが演じる井伊直盛も桶狭間の戦いで今川方として参戦して戦死しています。





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