Tapestry あの日からのこと

あの地震と津波が起きてからの出来事。
閖上と、そこに暮らしていた人達の今のこと。

閖上の赤貝

2012年06月25日 | Weblog

昨日は午前中は実家跡で、午後は叔父宅跡で花の手入れをするためにほぼ終日閖上に帰っていました。

私のFacebookにも写真を載せておきましたが、Facebookを利用していない方もいらっしゃると思うので、今回のエントリーは写真を中心に載せておきます。

 

 

お昼頃、愛島東部団地仮設住宅の自治会会長の遠藤さんと漁港で待ち合わせをして赤貝漁から戻って来る船を待ちました。

漁港付近は釣り人でいっぱい。

お話を伺うと、現在はハゼやカレイが釣れると言っていましたが私が見ている間に釣り上げている人はおらず。

 

ほどなくして沢山の赤貝とつぶ貝を積んだ漁船が港に戻ってきました。

 

かなり立派な赤貝です。写真を撮り忘れましたが大きなつぶ貝も大漁でした。

 

先月完成したばかりの仮設の漁港に次々に水揚げされます。

漁港の中では機械による選別も行われていました。

 

今回は、愛島東部団地仮設住宅にご支援いただいている方への御礼として赤貝を購入するのが目的でしたので、事前にお願いしていた赤貝をその場で購入。

これ、首都圏だったらビックリするような値段になるんでしょうね。

 

漁港を出たら、売り物にならない殻が割れてしまった赤貝をその場でむき始める漁師さんの姿が。

釣りをしていた方々も羨ましそうに見つめています。

 

日曜日の閖上漁港は、こんな感じで賑やかです。

因みに、漁港に行って直接赤貝を購入することは基本的に出来ないと思いますので、お土産などは美田園に開設されている「閖上さいかい市場」をご利用ください。

 

 

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログへ

 


何も求めない

2012年06月23日 | Weblog

最近は休日というと早起きしてしまいます。

本日も5時前には目が覚めてしまい、愛犬の散歩の後に何故かパンを焼いたり愛島東部団地仮設住宅の自治会用の資料を作成したりしておりました。

早起きすると、一日が長くていいですね。

 

 

朝食後、先日から従姉妹(今回の震災で亡くなった叔父夫婦の娘)に「叔父や祖父母の写真が欲しい」と頼まれていたので届けに行ってきました。

震災後は両親を亡くした心労で、やや精神的に参っていた従姉妹も少しずつではありますが従来の明るさが戻ってきたようです。

 

写真を見ながら祖父母の話題になったのですが、従姉妹の旦那さんが数日前に名取市内の理髪店(閖上の方が結構来ている店らしい)に行った時に、「閖上の“いなりや”ってところがあったの知ってる?“いなりや”の人が閖上の発展の為に凄く尽力してたんだよ」「“いなりや”が無かったら貞山堀より東側はあんなに発展しなかったよね」という内容の会話を聞いたらしい。

理髪店の方は従姉妹の旦那さんがその“いなりや”の関係者だとは知らなかったそうですし、旦那さんも名乗らなかったそうですが凄い嬉しいです。

 

以前にもこのブログで何度か書いていますが、現在でも祖父のことでいろんな方から声をかけていただけます。

祖父は私が小学校に入る前に他界しており、母や叔父や叔母などから聞かされた祖父のエピソードは面白可笑しいものばかりですが、祖父がどんな人物で何をしていたのかは後々になってから知りました。

私の市議会議員選挙の際、「あなたのお爺さんには本当にお世話になったんだ」「“いなりや”さんのおかげで閖上も発展したんだよ」と涙を流しながら私のもとへ駆け寄って来るお年寄りが沢山いました。

 

最近も閖上で花の手入れをしていて出会う人達から「もしかして、“いなりや”の孫さんですか!?」と声をかけて頂き、祖父の話を聞かされます。

そして、皆一様に「あんたの爺ちゃんは立派な男だったな。欲が無かったのが残念だけどな」と言うのです。

 

祖父は福島県いわき市の出身で、地元では名家の長男だったのに自由に生きる道を選択して全国の港町を転々としていたという。

おそらくその過程で訪れた鹿児島県で祖母と出会ったのだと思うのですが、最終的に閖上に辿り着いて居を構えたようです。

何故、閖上を選んだのかについては「こんなに魚がとれる場所は珍しい。なのに全く活用していないのでこれは商売になりそうだ」という動機だったらしい。

全国の港を放浪していた際のツテで全国から漁船を閖上に寄港するようにして海鮮問屋を開業したのが“いなりや”の始まりで、売り切れない程水揚げのあった魚を「もったいない」ということで、祖母の実家に伝わる「さつま揚げ」と祖父の実家があるいわき市の特産品だった「板かまぼこ」などに加工して販売をはじめたそうです。

 

その当時、閖上には蒲鉾を作るところは無く(というか、宮城県で「さつま揚げ」自体無かったらしい)かなり繁盛していたそうですが、欲の無い祖父は請われるままに蒲鉾の作り方を無償で教えて歩った(「佐々直」「佐々圭」などへも伝授したらしい)という。

その他にもお金に執着が無かったのか、自分のことはそっちのけで人の世話ばかり焼いているうちに、自分の商売を潰すというお人好しだったようです。

 

以前、私の母が食品関連の会社で営業をしていた際、福島県から宮城県の沿岸部を営業してまわる度に「宮城県の名取市ってところに面白い男がいたんだが知っているか?」「人の世話ばっかりしている変わった男がいた」と言われたんだ、と涙ながらに話してくれたことがありました。

本当に偉大な祖父です。

 

今日、初めて知ったのですが日和山の桜の木を最初に植えたのは、その祖父だったそうです。

まだ貞山堀より東側には殆ど人が住んでいない時代から“いなりや”をスタートした祖父にとって、街のシンボルである日和山への愛着が人一倍強かったのかも知れません。

春になる度に母の兄弟達は、「自分が植えた日和山の桜の木の成長を見る事は殆ど出来なかったけど、父はきっと喜んでいるだろう」と思っていたそうです。

 

 

今はたった一本になってしまった、祖父の植えた日和山の桜の木。

これからもずっと元気で咲き続けて欲しいと願っています。

 

 

 

最後に、本日の活動の様子の写真を載せておきます。

 

本日の愛島東部団地仮設住宅の様子。

住民で育てている畑では野菜が順調に生育中。

 

そして午後からは東北大学の皆さんによる「フラワーアレンジメント講座」が行われていました。

結構楽しそうですね。

 

その後は閖上へ花の手入れに向かいました。

叔父宅跡のお向かいさんの葱畑、立派です(笑)

 

最後に実家の“いなりや”跡へ。

 

また自生している花を発見。かなり広範囲で咲いていますね。

 

 

水門付近では先日から行われている工事が段々大規模なものになってきています。

もしかして、水門も取り壊すのかな?

 

 

さて、明日の日曜日はまた閖上に行きます。

花への水やりも行いますが、漁港へ赤貝の水揚げの様子を覗いてくる予定です。

ちょっと楽しみです!

 

 

 

(6/25追記)

このブログを書いた後に写真の整理をしていて、2006年に祖父の実家に遊びに行った際のものが出てきました。

場所は福島県いわき市碓磯地区です。

ここに写っている「金倉稲荷」という神社は、閖上で「いなりや」の商売を始めた祖父が鳥居などを寄進して作られたものだそうですが昨年の津波で全て流されたと聞いています。

今回、津波で犠牲になった叔父が我々家族を連れて行ってくれました。

(叔父の葬儀で遺影に使った写真はこの時のもの)

 

そして祖父の実家も、墓参りをしたお寺も全て津波で流されてしまい跡形もないそうです。

 

 

 

Father and Son (lyrics) - Cat Stevens

 

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログへ

 

 

 


花を咲かそうよ

2012年06月19日 | Weblog

このエントリーを書いている現在、台風4号が日本に上陸しており、全国に深刻な被害が出はじめています。

 

読売新聞:14万7500人に避難指示・勧告…台風4号

昨年の秋に台風12号による大きな被害があった和歌山県新宮市は名取市の姉妹都市ですが、今回も土砂災害の危険が迫っているとのことで住民の方々が避難しているようで心配です。

 

宮城県内でも石巻市や気仙沼市などで避難勧告が出ていますので、皆様も気をつけて。

 

 

さて、先週初頭から閖上の復興計画について、いくつかの話題が出ていましたので、下記の通りまとめてみました。

 

名取市HP:閖上地区土地区画整理事業の地区別説明会が開催されました

名取市HP:第12回閖上復興まちづくり推進協議会が開催されました

朝日新聞:閖上の現地再建を名取市が「微修正」

河北新報:現地再建、曲がり角 市、地権者に個別説明へ 名取・閖上

読売新聞:名取市、閖上地権者と個別面談へ

 

「現地復興」案に対する住民からの反発は予想以上だったようで、名取市としても計画案の見直しを検討しているらしいです。

 

その第一歩となるのが、住民への個別説明になる様子。

まあ予想通りというか、この個別の説明が現在までされていなかったことが問題だったんじゃないかな。

他の市町村では既に個別説明が完了しているところもあって、そういうところの話を聞く限りでは問題点や一部の住民からの不満はあるものの、今後の街の復興計画や住民の生活再建に向けて動き出していると聞いています。

 

先月名取市が主催した「地区別説明会」でもそうでしたが、「100人会議」などの閖上の今後を話し合う場所で意見を出し合うと、絶対的に「危険な街へなんか戻らない!」「集団移転をすべきだ」「東部道路より西側へ新しい街をつくるべきだ」という意見が多数を占めているのは事実です。

実際に津波を体験した方々の言葉はとても重いし、恐怖心と子供達の未来を考える時、それは間違ってはいないと思います。

 

でも、そういった住民の中には会議の後などに様々な場所で私が個別にお話を伺うと、「悩んでいるけど、やっぱり閖上に帰りたいんだよな」「津波は心配だけど、一刻も早く元の場所に戻りたい」とこっそり打ち明けてくれる方々もいます。

 

気持ちが揺れているということもあるだろうし、群衆心理的な作用もあって全体的な話し合いの場では本心を明かしてくれない住民も多いと思われますから、やはり個別に説明をすること、そしてなにより出来るだけ複数の選択肢を提示するしかないのでは?

 

復興計画が遅れてしまうことでの弊害はありますが、もう少し真剣かつ住民目線で考え直しても遅くないと思いますよ。

と言うより、軌道修正するなら今しかないかもしれません。

 

 

さて、先週末の様子を少し載せておきます。

恒例の閖上での花の手入れですが、土曜日は雨だったので雑草採りのみ。

少しあたりを見回してみると、いろんな花が自生していることに気づきました。

この小さな黄色い花は沢山咲いていましたが、これは何なのかな?

 

朝からの小雨が途中から本降りになってしまったので、日曜日に行う予定だった閖上小学校体育館での位牌清掃をしてきました。

 

時折気になって簡単な清掃はしていたのですが、今回は久しぶりに全部の位牌を一つ一つ洗浄して並べ替えすることが出来ました。

それにしても昨年から何度も清掃しているので殆どの位牌は憶えてしまったのですが、4月当初から未だに引き取られていない位牌が多くて心が痛みます。

また、あの日から1年3ヶ月が経過して既に位牌の引き取り手も殆ど現れませんので数は減っていませんし、一部の位牌には虫も湧いてきたり腐食が進行して破損が酷くなっています。

 

写真についてはもう少し展示を続けて欲しいのですが、位牌についてはそろそろ東禅寺さんと観音寺さんなどが合同で供養するとかして欲しいです。

 

 

日曜日は所用につき閖上には行けなかったので、自宅で今後の為に花の種を蒔きました。

 

自己満足とはわかっているのですが、もっともっと閖上中を花でいっぱいにしたいと思っていますし、私と同様に閖上で花や野菜などを植えている方々が増えてきています。

 

 

今、東日本大震災の被災地では閖上に限らず、いろんな場所で沢山の人達が花を植える活動をしている方々がいるようです。

 

河北新報:被災地に再び花を 山元・山下中教諭らハマボウフウ栽培再開

 

この記事は山元町ですが、その他にも仙台市や石巻市などでも津波被害があった街の自宅跡に花を植える住民(ここが重要)が増えているそうです。

 

きっと

「何をしたらいいかわからない。だけど何かしたい」

「いつか故郷を再生させたい」

「ここに人の営みがあったことを忘れないで欲しい」

という想いがそうさせるのかなぁ。

 

少なくとも、私自身はそういう想いに駆られているのだと思っています。

 

 

the rose 日本語訳

 

 

 

PS:

昨年の11月と今年の2月に衣料品や日用品などのご支援を頂いたTBSの篠田さんはじめ全国の皆様より、またもご支援いただけることになりました。

いつも気にかけていただいて本当にありがとうございます。

 

愛島東部団地の自治会より6/30に支援物資の搬入について私にも招集指令(笑)がありましたので、おそらく配布会は翌日の7/1(日)に行うと思います。

(訂正:遠藤会長に確認したところ、7/8(日)になったとのことです)

 

東部団地仮設住宅にお住まいの方は勿論、他の仮設住宅にお住まいの方、そして民間賃貸住宅など仮設以外にお住まいになっている閖上の皆様も自由に参加出来ますのでお気軽におこし下さい。

(遠藤会長に確認済みですから大丈夫ですよ!)

 

 

 

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログへ

 

 

 

 

 

 

 


突き動かすもの

2012年06月11日 | Weblog

土曜日に東北南部も梅雨入りし、天候がすぐれない週末。

 

このBlogの過去ログを見返してみると、ちょうど一年前はあの震災から3ヶ月目という時期だったのですね。

あの頃は行方不明のままだった従兄弟の死亡届を出すべきなのか悩みつつ皆で相談して、3ヶ月目の6月11日に手続きしたのでした。

 

遺体が見つからないままで「死んだ」という事実を受け入れることがこんなに難しいとは思いませんでしたし、最終的には11月にDNA鑑定の末に我々の元へ還ってきてくれたことは哀しいけれど嬉しいことだった。

 

しかし、1年3ヶ月が経過しようとしている今でもまだ還らない家族や大切な人を待ち続けている方々がいるのも事実です。

私の同級生や知人にもまだ行方不明のままの人たちがいます。

 

産経ニュース:身元不明者の似顔絵公開 7月末までに順次70人分 宮城県警

 

毎日新聞:東日本大震災:気仙沼の菅原さん、似顔絵で身元分かる 1年3カ月、遺族の元へ

 

先月末、宮城県警による身元不明者の似顔絵が新聞や県警のHPで公開され、実際に身元特定につながったというニュース。

どんな方法でもいから、一人でも多くの方が還りを待つ家族の元へ帰れるといいですね。

そして昨年、従兄弟の還りを待つ私たちへ「最後の一人まで探し出しますから待っていてください」と言ってくれた県警の皆さんが、今も頑張ってくれていることを忘れないでいたいと思います。

 

 

さて、この2日間の写真を貼っておきます。

土曜日は結構強い雨が降ったことや愛島東部仮設住宅自治会の会長さん宅の法事に参加したり、集会所のイベントなどで閖上には行かずじまいでした。

 

この日、愛島の仮設住宅の集会所で行われていたのは東北文化学園大学の皆さんにより「サンドウィッチを作ろう」と、東北大学の「縁側でこんにちは」プロジェクトの皆さんによるインドネシアの楽器“アンクルン”の演奏会です。

アンクルンという楽器、見た事はありましたが触るのは初めて。

簡単そうですが、良い音で鳴らすのは難しい楽器です。

 

 

本日は、金曜日から泊まりがけで我が家に遊びに来ていた叔母を美田園第一仮設住宅まで送っていった帰り道に閖上へ。

霧雨が降っていたので、花への水やりはせずに雑草採りだけしてきました。

 

日和山付近の叔父宅で雑草採りの最中、突然防災無線が流れました。

殆ど聞き取れない程の音量なので詳しい内容は判りませんが避難訓練についてのお知らせだったようです。

でもこの状態では仮に今、津波警報が来ても誰も聞こえないんじゃないの?

防災無線については現在も議論の対象になっていますし、現在の閖上には観光客も多いのでもう少しちゃんと整備しないといけないと感じました。

 

少し時間があったので「佐々直」さんの近くまで行ってみました。

ここの近くに住んでいた父方の叔母も今回の震災で亡くなっています。

「佐々直」さんは美田園に新しい工場を建設して再出発していますが、この工場は最後まで取り壊さないと聞いています。

 

その足で日和山へ。

風が吹いていることもあって、海の方を見渡すと高い浪が打ち付けています。

名取川の対岸の荒浜の方角では激しい波しぶきがあがっていました。

震災で海岸線の地形が変わっていることもあって、遠目からみても少し怖いですね。

 

 

その後は閖上小学校の体育館へ。

急遽、予定が入ってしまった為に今回も位牌清掃は出来ずじまいでしたので来週こそは!

この日も体育館の中には誰もいない(私が帰ろうとしたところでボランティアらしき方が1名来ましたが)ので、ちょっと寂しい感じでしたが、その分じっくり写真などを探すことが出来ました。

 

静かな体育館の中で、小鳥の鳴き声だけが響いています。

何処からか探してみたところ、天井付近に1羽。

まるで何かを言いたげな感じで私が体育館を後にするまで、しきりにさえずっていました。

(ちょっと見え難いですが、中央付近に小鳥がいます)

 

全国のボランティアの方々からの寄せ書きも少し増えていました。

ご協力ありがとうございます。

 

 

仕事を再開したこともあり、平日は閖上に関わることが出来ない為にブログの更新は週1回となっております。

 

現在の閖上がどうなっているのか、そしてこれからどうなっていくのかが気になるものの、個人で出来ることは限られているので私の現状としてはこんな日々です。

 

近頃、「なんでそんなこと(仮設の手伝いや選挙への出馬、閖上での花を育てていることなど)をしているの?」という質問をやたらされます。

それと同時に、「今後の閖上についてあなたはどう考えているの?」とも聞かれます。

 

故郷への想いは誰でも同じだと思うので、私が特殊なのではなくそれを行動や声に出せるかどうかなんじゃないかな。

それに、私以上に想いを持っていてもいろんな事情があって本当は言いたいのに言えない、行動出来ないという人達もいるはず。

 

福島の原発で故郷を追われた知人がいるのですが、彼らは故郷へ戻ることが出来そうも無いという現実を聞く度に、私達の街は消えてしまったけど何時か戻ることや創造することが出来るという意味では幸せなんだなと思うのです。

だからこそ私としては、大好きだった閖上がこれから再生する過程で後々悔いを残したくないという気持ちが行動する上での原動力です。

 

そして、海と共存してきたこの街を育み築いてきた方々への感謝と、未来を担い新しい街を創っていくはずの子供達が「ここが自分の原点なんだ」と思ってもらえるような街になって欲しいということだけです。

 

安全へのリスクについていろいろな意見もあるし、出来るだけ生命に危機が及ばないような対策も必要ですが、何故ここに人が集って営みが生まれたのかということに対してももう少し考えてみたいとも考えています。

(勿論、「あんな危険な目にあった場所には帰りたくない」という方々へは、いろんな選択肢を用意する必要性も感じています)

 

まあ、難しいことを抜きにして単純に気候も風景も人情もある港町が好きだってことなのかもしれないですけども。

 

 

最後にこのニュースを貼っておきます。

 

産経新聞:閖上の区画整理、住民反対でずれ込み濃厚 宮城・名取市

河北新報:名取・閖上区画整理 居住区域「内陸へ拡大を」 陳情書提出

 

 

 

 

人気ブログランキングへ

 

にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログへ

 


怒りと絶望

2012年06月03日 | Weblog

土日恒例の閖上での作業ですが、昨日も予定の合間をぬっての短時間、そして本日は朝から来客や仮設住宅での作業などで満足出来る作業が出来ませんでした(本当は閖上小学校体育館で位牌清掃する予定だったのですが。残念です)。

花の世話は明日、母と叔母で行ってくれることになったので少し安心したものの、楽しみにしていた閖上での時間がとれずやや不本意な休日となってしまいましたね。

 

仕事をしている平日、勤務先のビルから太平洋側を見ると遠く荒浜に僅かに残った松林が見えるので「あぁ、せっかく天気がいいんだから閖上に帰りたい」とぼんやり考えてしまいます。

新しい職場は可も無く不可も無くなので大きな不満はありませんが、心はいつも「このままでいいのか」「自分には何が出来るんだろう」という疑問が湧いて来て押さえられなくなる瞬間があります。

だから、本当に週末が来るのが待ち遠しいんです。

(でも、生活の為だから今は感情を押し込めて最低限の生活費を稼がねば、ね)

 

 

時間が無く、写真は少ないのですが土曜日の作業の様子を。

花たちは相変わらず順調。

花に気がついた道行く人や車がわざわざ減速して見ていってくれています。

多分、「は?ここで何やっているんだ??」という感じだとは思うのですが。

4月初旬に植えたパンジーもやや元気が無くなってきましたが、その代わりに向日葵の芽が元気に育っています。

向日葵はもう少し増やす予定です。

 

水門付近の実家の付近に目をやると、自生した花が多数咲いていることに気がつきました。

よくわかりませんが、「ハマナス」の花でしょうか?

水門から春日館の方まで結構な数の花が咲いていました。

旧消防署付近(私が暮らしていた自宅のあった辺り)は、工事が始まっていて立ち入り禁止になっていました。先々週に見に行っておいてよかった。

 

貞山堀の東側の非居住地域になるゾーンでは至る所で土地の測量が行われています。

この日は特に人数も多く、もの凄い早さで淡々と測量していました。

話し声を聞いていると、どうやら作業している方々は関西方面から来ているようです。

 

この日も叔母が同行。

震災以降、「閖上の海が憎い」「出来れば行きたくない」と言っていたのに、最近は「今度閖上に行くときは必ず私も連れて行って」と言うようになったので一緒に行くのですが、自宅のあった場所で花の手入れをしながら叔父と従兄弟の思い出話を語るので少々辛いです。

でも、きっといつも一人でいるから、寂しいんだろうし話をすることで少しは気持ちが楽になるのかな。

 

この日も作業の途中で閖上の方(女性)に声をかけられました。

日和山付近に住んでいたそうで、震災直後から仙台市の四郎丸の娘さんのところに現在まで避難しているという。

旦那さんは津波で犠牲になったそうで、当日の話を聞かせてくれました。

 

旦那さんは勤務先から自宅に戻りそのまま犠牲になったそうで、「警察から遺体の発見場所を聞いたら、“漁港付近の丘の上でした”と言われたけど、閖上には丘なんてないから多分日和山だと思う」という話で、震災から数日後に日和山で発見されたという。

当日の津波襲来直前、日和山の頂上には結構な人数が避難していたという目撃談もあります。

約6メートル程しかない日和山。

震災後に閖上に初めて行って日和山に登った時、石碑は流され家の屋根や瓦礫が多数頂上にあったので「ここも駄目だったんだ」とは思いましたが、想像するだけで涙が出そうです。

 

また、その方の知人で同様に旦那さんを亡くされた方は、二人で手を繋いで逃げている途中で津波にのまれたものの最後まで手を離さずに流されたという。しかも、流されている途中で旦那さんが亡くなっている事に気づいて亡骸を引っ張って流れ着いた建物に逃げたという悲しい話も聞かせてくれました。

 

話を聞かせてくれる方々は本当に辛い現実を、ただ淡々と話をしてくれるのですがどんなに悲しいのだろう。

悲しみの度合いが大き過ぎると、ある意味で冷静に語れるのだろうか。

 

夫と一人息子を亡くした叔母と、旦那さんを亡くされたその方で暫く話をしていたのですが、別れ際に「あの、とても聞き辛いんですけど」と前置きした上で、「遺族に支払われた義援金は幾らでしたか?」と質問をして来たので、少し驚きつつ訳を伺うと、その方は満額支給されていないことで悩んでいたようです。

私も不勉強で知らなかったのですが、遺族の収入などによって義援金が減額されているんですね。

扶養範囲以上の収入がある場合は通常の半分しか支払われていないとは!

金額がどうだということよりも、「義援金」の意味がおかしいと思うのですが。

一定の収入があるとは言え、一家の大黒柱を亡くしていることに変わりはなく、まして大事な家族を失った上での生活再建への支援の為のはず。

なのに、どういうことなんだろう。

 

被災した全ての方々が金銭的に困窮しており、家族を亡くして義援金の支給がある世帯へ「おたくは亡くなった人の分の支給があるからいいね」「死んだ家族の義援金で新しい家を建てられるから羨ましい」なんて寒気がするような言葉が口に出てしまう現状を目の当たりにして(事実、実際には被災していない私ですら何度か言われたので)います。

 

今回、お会いした女性も度々そのように言われるそうで、「皆が思う程私は義援金は貰えていないし、そもそもお金なんかいらないから主人を返して欲しい」と涙を流されていました。

マスコミなどでは殆ど報道されていない、震災後の現実の一つ。

このような人達を救えるのは一体誰なのか、しっかりと考えて欲しい方々が多過ぎます。

国政も地方の行政も政局に目を奪われ、自分の利権や地位を守るのに精一杯な小者ばかりでうんざりです。

名取市の議会も、復興案に今更全員一致で反対って、何?

じゃあ、以前の復興案が議決されたのは何だったの?

身近な問題に真摯に耳を傾ければ、もっと違った展開になっていたはず。

 

 

近頃の「生活保護」問題もそうですが、大切な税金を不正に使って平気な顔をしていたり、「大変な想いをしている人の役に立ちたい」という気持ちの結晶である大切な義援金が使途不明だったりという話には心底腹が立ちます。

 

今日、知人からある情報を聞きました。

閖上の公民館跡の「嵩上げのイメージ」の嵩上げ費用なんですが、あの土盛りだけで費用が約1000万円弱かかっているそうです。

それを聞いた私の姉(数年前まで土木資材の卸や工事施工などを行う会社に勤務していた)が、

「えー!?それボッタクリすぎじゃない!」

と呆れていました。

ここでは詳しく書けないですが、震災直後から聞こえていた一部の人や団体だけが利権を貪り良い思いをするような話は、今後はもっともっと出てくるでしょう。

 

明日の道筋が見えず孤独の中で苦しむ人と、震災太りをする人。

許せない想いと絶望が募るばかりです。

 

 

 

中村由利子「えがおの日まで」

 今夜は、久しぶりにこの曲を聴きたくなりました。

 

 

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログへ