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先日、私の職場で退職の挨拶メールを出したところ、何人かの方から激励やお礼の返答をいただいた。ありがたいことである。そして昨日、以前に研究所長をされていたH先生が私の部屋を訪れ、雑談をする機会があった。本来であれば、こちらから伺わなければならないところだが、私のことである、如何ともしがたい。第一声が、随分と違った方向ですね、であった。1年程前には今の研究をずーっと続けたいということをお話していたためだ。そこで、まずどういう経緯でこういうことになったのかを説明する。それから日本の現状、科学の現状、日本とヨーロッパの状況、フランスという面白いところについて話し込んだ。現状の認識はかなり共通するところがあった。その中で若い人に直接語り掛けなければならないということ。若い感受性に向けて抽象的な、概念的なことについて語ることにより、深く思索する人間を育てることにつながらないだろうか。このような接触から誘発される効果はそれほど大きなものには見えないが、長い目で見た時にこれがより深く成熟した社会を創るためには有効かもしれないという点で意見は一致した。
長い人生経験をしてきた人は若い人に語りかけること。これはある意味で、義務でもあるだろう。社会の酷さを託っているだけでは、いつまで経っても何も変わらず、ますます劣化の一途を辿るだろう。自らの経験に照らして語っておくべきことは残らず語るという姿勢こそが、今皆に求められているような気がしていた。一方、小中高のみならず、大の方でも広く経験者の話を聞こうとする真に開かれた姿勢を取ることが重要になるだろう。さらに重要なことは、狭い専門の範囲に閉じこもったお話ではなく (これは特に大学においては今でもある程度は行われている)、そこから進んで人間の精神に関わるところまで広がるテーマについて語ることのできる人を呼んでくること。この対話をしながら自らに引き付けて考えている時、これからの生活の大きな方向性が示されたように感じていた。
ポールさんが、整理の時間に入られ、それをパリの舞台に求められたことは、水の流れに逆らうものではないのでしょう。経験の義務化は健康のこともあり、誰にでも出来る行為ではありませんが、どうぞ豊富な「社会資源」とも言うべきものを、若い世代に存分にお使い下さいますように。
「ぽるとがる文」を再読しました。
リルケ置きアイスティー淹れリルケ読む
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En déposant le Rilke
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et relis le Rilke