作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 新説・関ヶ原の合戦始末記(歴史エッセイ128) 】

2013-01-10 17:54:26 | 05 歴史エッセイ

豊臣時代の九州の猛将といえば、加藤清正だろうと
言われそうだが、当の秀吉が自ら西国無双の者と称え
豊臣の姓まで与えられた、凄い男が居った。

その名を立花宗茂といい、1600年の関ヶ原の合戦
当時は、義兄弟毛利秀包と共に、大津城に東軍の旗を
上げた京極高次を攻めて落城させたが、僅か一日の差
で関ヶ原には姿を現さず、これが西軍が敗れた大きな
原因となった。

関ヶ原の合戦当日、九月十五日の戦いは午前中は西軍
先鋒宇喜多秀家の先陣の将明石全登が、東軍福島正則
の先陣を率いた可児才三を圧倒しており、明らかに西軍が
優勢であった。

そこに松尾山に籠もった小早川秀秋の裏切りがあった
との説があるが、現場に毛利秀包と立花宗茂の両将が
参戦していたら、戦況は大きく変わっていたに違いない。

裏切りの小早川秀秋は、秀吉が北政所の甥を名門毛利
の跡継ぎに押し込めるべく画策し、いちはやく小早川
隆景が本家毛利を救わんと、自らの跡継ぎに貰い受け
た愚鈍で有名な男だった。

秀秋が隆景の養子に成る前の小早川家の当主は、秀包
その人であったのだ。戦場に秀包の姿を見た、小早川
家臣たちは、「彼の場所にこそ我が主君はおわします
ぞ」と騒ぎ立て、徳川家目付を血祭りに斬捨てて松尾
山を我先に駆け下り参陣した筈である。

その前に徳川家康自身が、立花宗茂の登場に恐怖を抱
いて、本陣を後方に引いたと思われる。

関ヶ原の戦況は大きく西軍勝利に傾き、南宮山の前を逃げ
る家康を、山頂にいた毛利秀元自らが、家康に通じた吉川
広家の首を「裏切り者」と罵って刎ね、その勢いで家康本陣
が崩れる中から、家康を見つけ出し身柄を拘束した。

大いにありえた話である

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