作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 脊柱管狭窄症 】

2010-11-09 11:46:14 | 09 透析生活15年目

ボクが当事者であり、かつ人工透析患者を
14年も続けているからなのか、高齢者で
腰に痛みを抱え、足を引きずりながら歩行
する人を多く見る。

整形外科も多いし、整骨院の類もまた多い。

ボクは五十代から腰部にヘルニヤの症状が
あったのだが、相談した医者がスポーツジム
に通って背筋を鍛えれば、こんな所に来るより
マシだと言ったので、それに従ってジムに行き
そこのトレーナーから背筋にはテニスが良い。

で、透析に入ったばかりで、落ち込みそうな
精神とそれを支える肉体の鍛錬にとテニスに
打ち込んだ。
真夏に連続38日、真冬の強風の中での連続
43日の記録は未だ破られていない。

無茶のし過ぎである。分かっちゃいたけど止め
られなかった。

あれはもう五年半も昔のこと。
突如尾てい骨の辺りに激痛が来て
歩けなくなった。

整形外科を何ヶ所も訪れた。
不要なはずのレントゲン、CT、MRIを随分撮った。
他所で撮った写真は、総合病院では無視され、
そこで新たに撮られた。何故? 点数稼ぎだろう。

一本打たれただけで二度と御免と言われる
神経ブロック注射を三年半にわたり毎週一回受け
当初は痛みのあまりにベッドでくたばっていた。

透析患者は、手術がタイヘンだ。
手術に関係なく透析は続けないといけない。
透析中に注入するヘパリンが血液の流れを
良くする。
つまり手術には要注意となる。
凝固が遅くなるから。

殆どの整形外科医が、手術に反対だった。
たぶん痛い思いをするだけで完治はしませんよ。

インターネットで必死に探した。
その苦労があって、名医にめぐり合えた。
手術が行われたのが、去年の5月13日。

一番注意を受けたのが転倒しないこと。
それを、いったい何度転んだことやら。

耳の速い介護業者が飛んできて介護タクシー
なるものに乗せられる破目に。
それで人工透析を毎週三度だ。

介護タクシーの実体は、荷物用のバンに
車椅子ごと乗せられる代物だ。

運転が荒いことはないが、本来荷物車だから
手術したての患部に響くことおびただしい。

こんなモノに乗れるか。
怒ったボクは介護業者を追い返し、地元の
タクシー業者と交渉。乗り心地が全く違う。

リハビリも強制されていた。
だが、あんなものより、水中ウオークの方が
はるかに効果的だ。第一水中では転倒しない。
どちらに傾いても水が支えてくれる。

10月に入って、念願のテニス・レッスン開始。
思った通り、これが最高のリハビリである。
週に二回だけ、日と火である。各一時間だけ。

全盛期に七時間やっていたボクには物足りない。
だが、プロコーチの命令だ。従わなくちゃ。

テニスとは言ったが、まだコートを半分だけ使い、
その中でコーチがボールを出すのを打つだけの
こと。まだ腰の安定と足を引きずる状態のまま。
それでもテニスが最高のリハビリに違いない。

実は今日も午後四時から一時間レッスンがある。
ボクは毎日会社には来るが、透析とテニスで
サボってばかりである。


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【 織田信長の死後(2)(歴史エッセイ94) 】

2010-11-09 11:11:43 | 05 歴史エッセイ

日本の政治がマトモじゃなくなって一年が
経過、昨夜テレビタックルに出ていた安倍
と麻生の二人の元総理のほうがはるかに
シッカリと自分の言葉で語っている。

当時は発言がブレると非難轟々だった麻生
だって、ハト・カンのことを考えれば、そんな
にブレては居なかった。まあ福田には難儀
しましたけれど。

さて、今の政治を見ちゃ居れんから、頭を
活性化させるため、400年の時空を越えて
時を1582年6月に飛ばしてみましょう。

本能寺で織田信長が明智光秀の謀反で
生涯を終えた時、すでに織田家の当主には
嫡男信忠(26歳)が就き、その後見者として
信長の実母弟信包が任じられていた。

本能寺に小姓・近習など僅かの手勢で居た
信長に対し、織田家の棟梁、信忠の方には
少なくも一千名(三千との説もあり)が妙覚寺
に居た。

信忠の方には明智の兵は来ていなかった。
本能寺の変を知って時点で、信忠はすでに
間に合わず、あの場面では織田家の棟梁と
して大阪へ馬を飛ばすべきであった。

秀吉の行動に照らし合わせて見れば、淀川沿い
に大阪までの逃亡は充分に可能であった。

後見人に任じられた信包は、どこに居たか。
それを詳らかにする文を見たことがない。
おそらくは信忠の軍勢の中に居たと見て良かろう。

父信長には、朝倉攻めに際し、浅井長政の謀反
を知って、ひたすら朽木谷を走って京都まで落ち
のびた実績があった。

決戦の場所を二条館に定め、誠仁親王を内裏に
移させるだけの時間的猶予が、明智勢をして
信忠を十重二十重に囲ませる愚を取ったことで、
到底まだ信長の後継者として若すぎた。

信忠もしくは信包が、逃亡し大阪で四国攻撃の
時を待っていた丹羽長秀・神戸信孝の陣に辿り
ついていたなら、信長の仇を討ったのは、秀吉の
出る幕はなく、信忠または信包が柴田勝家以下の
諸将の反対もなく、織田政権は続いたことになる。

信忠は史実に示すように父に殉じる道を選んだ
と見るから、生き延びた可能性は信包にある。
現に秀吉政権下で、信包は丹波柏原で大名に
取り立てられて居り、大阪城にも入城し姪に当たる
淀の相談相手になっている。

信長が嫌いぬいた実母土田御前を最後まで面倒
を見たり、小谷落城後のお市とその三姉妹の保護
をしたりの信包は、信長ほどの狂気もなく、武将連
をよく束ねたと見てよいと思われる。

すなわち信長亡き後の織田家は、信包の
指揮の下結束を続けるのである。
そこにサルの出番はない。

大坂城建築の図面は、生前に信長が
書いてあった。
織田信包が亡兄の意志を継ぎ、
大阪城の主となる。

柴田・滝川・佐々・前田・池田などの織田家中の
将がみんな従うところに、成り上がりの秀吉が
天下人になる道なんかない。

織田家が安定すれば、家康がいかに狡猾な
ヤツだとしても、天下を狙うスキも無かった。

当時日本に来ていた宣教師たちが驚いたほどの、
アイディアに優れた信長の遺志を、実弟信包は
実直に受け継いだであろうし、巨船を用いた
南アジア進出も果たしたものと思う。

ボクは徳川二百六十年を、日本衰退の時期と
断じるし、秀吉特に晩年の色ザルを大いに嫌う。

織田家安泰があれば、羽柴・徳川の時代はない。

三法師、後の秀信も立派に成人し、織田家の
家督を次いだことになる。

要するに信長暗死の後も、信包がその遺志を
継ぎ、織田政権が安定したと思いたいのである。


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