作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 幼き日々のこと (9) 完 】

2007-03-26 12:34:00 | 12 幼き日々のこと


2年生になった。平安国民学校に行ったのは1学期
だけで、夏休みの間に、父の転勤に伴い新京に移動
して、学校も桜木国民学校へと転校になった。

転校先には楽しい事が何もなく、お定まりの転校生
イジメにも合い、ロクな想い出が無い。

たった1学期だけの平安での2年生の想い出が多い
のは担任の先生の印象が強く残っているからだ。
得本先生という、まだ女学生みたいな、事実その年
に先生に成り立ての若い先生だった。55年も経った
今でも、先生を囲む同期の会があることで、如何に
先生の存在が大きかったが分かるというもの。

大連(ボクが生まれた町だ)海辺に、星ヶ浦という
綺麗な海岸があって、そこで拾ったと、たくさんの
貝殻を見せて頂いた事がある。その中に桜貝が
あった。「桜貝の歌」を耳にする度に、得本先生の
ことを思い出していた。

ある日、先生に耳打ちされて、放課後クラスに残され
た。ドキドキしていた。何で叱られるんだろう。いっ
たん職員室に引き上げられた先生が、同期入校の、
同じく若い女先生とクラスに戻って来られた。二人の
若い先生は、まるで女学生に戻ったみたいにキャッ
キャと騒ぎ、箱からケーキを取り出して、その一つ
をボクに下さった。それがボクが居残りさせれた理由
だった。

一度だけ級友数名と共に、先生のご自宅をお邪魔し
たことがある。お母様が居られ、もてなしを受けた。
中にダイズをふやかして、それにコロモをつけて
天麩羅みたいに揚げた一品があり、ボクには初めて
の、その食べ物がやたらと美味しかった。

1学期だけだったが、平安国民学校は懐かしい学校
で、その点、新京の桜木国民学校には、これという
強い印象が残っていない。

2年生の思いでも3年生の思いでも、殆ど残っていな
い。友達も出来ず、こんどの家にもあった、応接間
に篭る日々だった。

戦局が不利になっていき、内地での食糧難が伝えら
れた。満州には物資が豊富だったが、校長が朝礼で
「内地では麦飯を食べている。我々も見習うべきだ」
と言った。

だけど満州には麦がなく、代わりにダイズをコメに
混ぜて食べることが奨励された。元々えんどう飯が
好きだったから塩味の利いたダイズご飯は、一向に
苦にはならなかった。

母はもう一人の子を産んだ。妹だった。ボクは4年生
だったと思う。その妹も生後一年にも充たずに亡く
なった。母はすごく落ち込んだ。父に向って何度も
「すみません」と謝っていたが、ボクにはなぜ母が
謝らねばならんのか理解できなかった。それが母の
最期の子だったが、6人を産み4人を夭折させた
母は辛かっただろうと思う。

ボクの記憶の中で、満州時代に父がボクに見せた
笑顔を知らない。「華麗なる一族」の中で万俵家の
長男鉄平に、父大介が冷たい。本当に自分の子かと
怪しんでいる。それに極似したことがボクにもあっ
た。父は本当はB型だったが、戦時中のいい加減な
検査で、自らAB型と信じ込んでいた。
ボクはO型で、後にAB型の父親からO型の子供は
生まれないことを知り、謎が解けた思いと共に、
更なる複雑な思いに悩まされた。

こんな事もあった上に、終戦の年の5月、父にも赤紙
が来る。母は満州赤十字で受けた手術が失敗し、
その夜亡くなる。看取ったのは5年生のボクだけ。
それが8月1日で、9日にはソ連軍が攻め込んで
来た。弟と二人で北朝鮮に逃げる列車に乗せられ
る。ボクの判断で奉天で強行下車、それで助かった。

年末、父は早くも再婚する。相手には母親が付いて
おり、可愛くないボクは、この二人に徹底的にイジメ
られた。父はまったくボクに手を差し伸べることは
無かった。普通なら考えられない早すぎる再婚。それ
が祟って、引揚げ後も父は元の会社に復帰できず、
一家は極貧生活を強いられた。家の周りは田んぼだ
らけなのに、我が家にはコメが無かった。

ボクの生活は満州時代と一変し、編み上げの革靴
だった身分が手製の藁草履に代った。

書き漏らしたことも多々あるでしょうが、記憶を
呼びさまし我が幼少の日々を書き記した。これで
我が生涯の殆どがブログに書き残されることになり
ました。有難うございます。

                          パパゲーノ



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【 幼き日々のこと (8) 】

2007-03-26 11:57:42 | 12 幼き日々のこと


歴史を一年繰り上げることにする。

当時日本が使っていた皇紀2600年の祝典で
沸いた年である。昭和なら15年だ。

ボクはまだ国民学校に行っていない。ドイツの
フォルクスシューレをそのまま直訳した国民学校
という名前も知らず、近所の家から貰った小学校
一年生の教科書で、懸命に勉強していた。
弟もまだ生まれちゃいない。

父がバンコックへの転勤の内示を受け、一家は南
の国への思いをはせながら荷物の片付けに着手
していた。

ボクは幼年倶楽部で山田長政の活躍した国として
タイ、往年のシャムに行くことを楽しみにしていた。
あのまま、父がバンコックに転勤していたら、ボク
の家の運命は大きく変わった。

父が急遽徴兵される事態も起きなかったろうし、
母が不急の手術を受けて、その失敗で急逝すること
もなかった。
4才児で病弱な弟を連れての、奉天への逃避行も
なく、親なしの身での難民生活もなかった。
タイは二次大戦を通じて、親日政策を変えることの
なかった友好国家で、アジアで日本と共に僅か
二ヶ国しかなかった独立国家の一つであったから、
日本の敗戦で、難民として追い返される不幸にも
逢わずに済んだだろう。
一家は見知らぬ淡路島じゃなく、ある程度まで復興
した大阪に帰ったはずである。

満州国政府が発した一通の辞令が、すべての運命を
変えてしまった。不幸な転換だった。

商工大臣だった岸信介の指示により、在満州の商社
が統合されて、満州繊維公社が発足し、父にはその
奉天支社長に任ずる辞令が下りたのだった。準備中
の荷物は、またほどく破目になった。ボクはまだ見ぬ
タイ国に憧れて居り、大きく落胆した。そのころは
すでに少年倶楽部を読んでいたと思うのだが、掲載
する小説に、南洋一郎という作家の「アジアの曙」
があって、南洋に活路を見出そうとする日本の進路
をボクも持っていたから。

隣近所の同業商社マンの多くが、公社への一種の
徴用を免れ、後に名社長となる伊藤忠の越後正一
さんをはじめ、東洋棉花で後に専務クラスになる
人々、森山、森本、戸田さんたちも、出身会社に
戻った。

そして年が変わり、ボクは国民学校一年生となり、
金のボタンだ帽章だ、と歌の文句の通りの制服姿で
登校をはじめた。その4月、弟が生まれるのだ。

日米開戦の日の興奮を覚えている。ハワイ奇襲作戦
の成功に続き、マニラ陥落、香港陥落、シンガポール
陥落と旗行列や提灯行列が次々と行われた。

開戦が12月8日だから、これらのことに記憶がある
のは、ジフテリヤによる病欠は夏から秋にかけての
ことで、12月にはもう退院していたんだろう。

前にも書いたが、運動会も学芸会も記憶が無いの
に、遠足の記憶がある。あれは入学間もなしに春の
遠足があったのだと思う。

                          パパゲーノ



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