皇国史観真っ盛りの中で始まった歴史好き人間
だから、当然のように後醍醐を英明の君子と
崇め奉った。
戦後のマルクス史観に染まったわけじゃないが、
歴史の本をいろいろと読むにつけ、後醍醐ほど
自己中で、かつ政治が出来んしょうもないのは、
他にあんまり居らんと、コペルニクス的な変化が、
ボクの中に生じてきた。
楠木正成とその一族は、尽くすに値しない後醍醐
のために、あたら生命を捧げたことになり、それ
は幼い正成(幼名は多聞丸)が、観心寺で宋学を
学んだことに起因する。宋学との出会いが無かった
ら、一族は湊川でまた四条畷で、勝つ見込みのない
大軍との戦いの中、生命を落とす必要はなかったのだ。
宋学(南宋学というのが本当だろう)は、所詮、
北方民族金の圧迫に耐えかねて、南へ逃れて
「尊王攘夷」を唱え、最後には元に屈するに到る
亡国の拠り所となった一種の信仰で、なぜ奥河内
の土豪、楠木家がこんなものを学ぶ必要があった
のか。単なる偶然であるに違いなく、その偶然が
一族をあげての後醍醐と、その子後村上への奉仕
となった。
18名居た後醍醐のハーレムの中から、阿野廉子と
いうのが選ばれて隠岐の島まで付いて行く。
このオンナが悪女で、こともあろうに足利尊氏と
通じてまで、護良親王を排除する。自分が産んだ
義良親王に天皇位を譲らせたいがためである。
鎌倉幕府を倒すのに、護良親王の存在がどれ程
大きかったか、勲功第一といっても良い。
後醍醐は悪女の囁く言葉に目がくらみ高氏を尊氏
とし、尊氏なんかよりも遥かに功績のあった赤松
則村・則祐親子をないがしろにした。
赤松の離反が、その他の武将連が足利方につく
流れを作った。
南北朝時代を語りだすと、ボクは熱くなる。
パパゲーノ