歌うように語ろう

観劇や観戦(主にフィギュアスケート)等について語るブログです
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東宝エリザベート 2015-2016

2015年09月20日 | 観劇関係

もう閉幕してひと月近く経過しているので遅きの感大いにありですが、ちょっと更新のリハビリ?もかねて軽く感想を書き留めてみます。

観劇関係の方が正直書き方にとても気を使うのですが(以前噛みつかれたこともありますしねw)当然のことですけどもまた改めて注意書きを冒頭に書きます。

その注意書きを無視して度を越したコメントを残された場合は削除する場合もありますのでご了承ください。

よろしいですね、ちゃんと書きましたよ?

注意書きはたったこれだけ。感想はあくまでも私の私見によるものですので押し付ける気もないですし正しいとも言いません。

ですから読まれたあなたの意見と違ったとしてもそれはそれで結構ですが、事実関係の訂正を除き意見の削除や更改の求めには応じません

世間にはたくさんのブログがありますので、ご自分の意見と合うところを探すなり、黙ってブラウザバックをすることをお勧めします。

私はこう思ったというご意見は場合によっては拝聴しますが過度に一方的かつ攻撃的なものは受け入れかねます

 

さて、始めましょう。

3年の間隔を置いて開幕した東宝エリザベート、まず特筆すべきは演出と舞台装置の大幅な変更に加えて、キャスト陣が一新されたことです。

全体的に若返ったキャスト一覧を見て期待と不安を抱きつつ帝劇に足を運んだのが6月14日。最初に観たのは花總シシィ+城田トート

(佐藤フランツ・京本ルドルフ・尾上ルキーニ)でした。

まず焦点として注目したのが「伝説のシシィ」として国内では名高い花總シシィが帝劇ではどんなシシィ像を魅せてくれるのか。また、5年前に旧演出で

トートを演じた城田さんがどう変えてくるのか、あるいは変わらないのか。ミュージカル経験が乏しい佐藤フランツは果たして皇帝に見えるのか。

ジャニーズJrであり京本二世であるルドルフは、梨園の人気役者松也はいかに?

結果として上々の滑り出しでした。特に、今までずっとタイトルロールは同じ宝塚OGとはいえ男役から迎えていたものが娘役からということで

エリザベートの強さやエゴイスト(だと本人はあまり思っていなかったのではないかと史実を紐解くに思われますがそれはさておき)ぶりをどのように

花總さんが表現するのか興味津々でしたが、少女時代から晩年までとても自然な流れで演じ続け、特に秀逸だったのが一幕ソロの「私だけに」、

今までこのソロでここまで感動したことはなかったというほど心動かされたことは忘れがたい記憶です。

また、前回5年前はどうしても歌唱に不安定さがぬぐえなかった城田さんも5年間の経験をきちんと活かし、舞台上では余裕さえ感じさせてくれました。

もっとも、ご本人いわく前回同様胃薬のお世話になっていたそうなのでプレッシャーは前回に負けないほどのしかかっていたのかもしれませんが。

後述しますが、Wキャストのもう片方である井上さんとは全く異なるトートで双方それぞれ良さを存分に享受できました。歌詞の中にある「蒼き血を流す」トートとしては

城田トートの方がより人間離れしている印象を強く受けるものでした。城田トートが青い炎ならば、井上トートが赤い炎といった具合でしょうか。

佐藤フランツはオペラ歌唱ならではの聴かせる歌で皇帝としての威厳を表現しましたが、どこか妻であるシシィに対してどう応えていいのか測りかねているフランツ像に

見えました。優しさを持て余すというか、自由を求め続ける妻を束縛しないことでのみ愛を示すかのようで。一方の田代トートは生まれながらのロイヤルイメージがにじみ出て

いるかのような皇帝らしい皇帝に映るのとはまた違って、私はどちらのフランツにも好意と同情を抱かずにはいられませんでした。

京本ルドルフは若さゆえの暴走と幼さが悲劇を招いたのだと熱演から伝わってきました。歌唱に癖があまりなく、音階を外れて歌うこともほぼなかったのは期待以上でした。

二度目の登板である古川ルドルフからは自らの意志で革命に身を投じ強く生きようとしたものの、どこかでボタンを掛け違えてしまい歯車が狂ったまま時代に翻弄され

最後は人生への絶望と疲弊で自ら命を絶った皇太子像が見えました。途中降ってくるハーケンクロイツの旗を足で踏みつける一幕には静かながら彼の激情が

伝わってきたものです。

そして、ずっと長きにわたりシングルで演じられていたルキーニがついに若手二人のWキャストで実現しました。私はこの変化をおおむね歓迎して観ました。

尾上ルキーニは前任者の狂言回しポジションをかなり踏襲する演技プランのようでしたが、良かったのはせりふ回しが非常に聞き取りやすかったことです。

6月下旬に難聴の母を伴い観劇した際にも聞き取りやすいと好評でした。

一方の山崎ルキーニはかなり独自色の強いルキーニでした。歌唱力は文句なしでしたが、好き嫌いが真っ二つに分かれるルキーニだと思いました。

良くも悪くも「山崎育三郎」が前面に出ているルキーニ像に私の目には映りました。

そして、今回はトリプルで臨んだ少年ルドルフはいずれもレベルが高く安心してみていられる良いキャスティングでした。個人的には松井月杜くんの

少年ルドルフが秀眉だったように見受けられました。

 

そして、別の日に観た井上トートは予想に反し、どちらかというと宝塚のトートに寄せてきているように私には見えました。

ミュージカル界の若きプリンスと呼ばれる彼ならば、おそらく本家ウィーン版を踏襲した王道路線で圧倒してくるかなと予想したものの、

やや違っているように私は感じました。

もちろん彼の最大の武器である歌唱力は申し分なかったですし、ウィーン版とかけ離れているというほどでもないのですが、そこかしこに宝塚の気配を感じさせる

ようなトートというべきか。非常に抽象的ですが、あえて言うなら城田トートが人間離れして見える所為かより男性的なトート(もちろんそれが間違っているとは微塵も

思いません)に見えたのです。言うなれば、人間臭さをどこかにはらむトートといった印象でした。前述のとおり、城田トートが青い炎ならば井上トートは赤い炎に

見えたのです。そして、城田トートが押したり引いたりの駆け引きをどこか楽しむかのように見える一方で、井上トートからは強いシシィへの執着と情熱をより感じました。

それゆえ赤い炎に見えたのかもしれません。

蘭乃シシィについては非常に書き方を迷うところですが…シシィの我の強さやエゴイストは存分に感じさせる芝居だったと思います。

しかし、言いにくいところですが非常に歌唱が不安定だったので(特に「私だけに」「私が躍るとき」)ちょっとはらはらする場面が多かったことは否めません。

彼女には彼女の良さもあるのでしょうし、昨年宝塚で最初で最後の観劇(「エリザベート」です)をして彼女のシシィを見たときはそれほど不安定さを感じなかったの

ですが、今回は今一つしっくりこなかったのが私の正直な感想です。蘭乃さんのファンには申し訳ないですが。

ひょっとしたら、退団後初の男女混合の舞台で男性とのデュエットなど、宝塚時代からのシフトチェンジがまだ不完全だったのかもしれませんね。

まだ若い女優さんですし、今後の頑張りに遠くから声援を送ることとしましょう。

そして、田代フランツは2010年から5年で見事に息子から父帝へと姿を変えて登場してくれました。安定した歌唱はもとより、ぴんと伸びた背筋や佇まいからも

皇帝の自負と誇り、そしてオーラがしっかりと伝わってきました。シシィへのアプローチは「溺愛しながらも自分の身分を決して逸脱しない」したがってどんどん距離は

広がるばかりなのをわかりつつも諦観の中、遠くからシシィを見守る孤独な皇帝像が悲哀を込めて演じられていたように見受けられました。

歌唱に関しては佐藤フランツと同等かもしくは佐藤フランツがやや優勢かなと思われる時もありましたが、演技で説得力のある田代フランツを見せてくれたと

思います。

古川ルドルフは前回2012年よりも少し声量が増して安心してみていられるルドルフに成長していたと思います。前回は、今年の京本ルドルフのような

若さゆえの暴走からの悲劇を演じているように見えましたが、今年は前述のような懊悩の過程が安定感を増した歌唱と演技に支えられて前回とは

異なる演技プランをもって伝えられたと思います。

二人のゾフィ―はどちらも甲乙つけがたい出来栄えでしたが、私がより冷たさを感じたのは香寿ゾフィーの方でした。彼女自身もまたハプスブルクの歴史の

歯車である矜持を持つが故の厳しさでもって容赦なく厳格な姑、祖母を演じているのに対し、どこか剣ゾフィーはシシィには厳しいものの孫のルドルフには

若干の躊躇を感じるときもありました。

ゾフィーが命尽きる前のソロで分かるように、彼女は決して息子フランツ(そしておそらく孫ルドルフも)が憎くて厳しくしてきたわけではなく、帝国を背負う

皇帝として立派たれと責任と願いをもって時には歌詞にあるように「心殺して」務めたわけです。

このソロ曲はこの作品が誕生した当初はなかった曲ですが、ゾフィーの人間像をちゃんと観る者の心に刻むためにもやはり必要な曲だと思います。

 トートとシシィの「私が躍るとき」も違う意味で重要な曲だと思いますが。

 

ところで演出と舞台装置も今回からかなり変わりました。特に舞台装置は大きく変わり、皇帝と皇后、そしてルドルフの棺が大きく強調されて終始移動しながら舞台上に

「君臨」しました。「私だけに」のような棺の高さが活きる場面もあったので全面的に否定はできないのですが、その一方でマイヤーリンクでのルドルフの懊悩から自殺へ

移るシーンなどでは少しダンスに物足りなさを感じるときもあり、もうちょっと見直してもらえると個人的には嬉しく思います。

演出では最大の変化が小池先生も語る通り、落命前のトートとのキスがシシィ・ルドルフ共に自分から(前回まではトートから)に変更になったことでしょう。

これは彼らが能動的に死(トート)を受け入れたという解釈を導入したものと推察します。

トート、つまり死は概念であり具現化でもキャラクターとしての存在を疑問視する考え方もあるかと思いますが、私はやはりシシィやトートが身近に感じ、そして

ついに受け入れたトートという存在は彼らの潜在意識や願望から来る存在ではあるものの、やはりこの作品においては死の具現化であり象徴でもあるというのが

私の解釈です。

もちろんどのように観るかは観客各々の自由であり、正解・不正解を争うのは野暮だと思うのでなんとも言えませんが。

 

 

そして、今年の前楽では早くも来年のツアーが発表されました。

東京に始まり10月の名古屋に終わるという長丁場ですが、なるべく多く今回のキャスト陣にまた「エリザベートカンパニー」の一員として再会できればと願っています。

 

短くするつもりがだらだらと長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださいました方、ありがとうございました。

 

以上


勘違いと妄想と発散の捌け口にしないでください

2015年05月07日 | フィギュアスケート

最近、残念ながらフィギュアスケートから自分の心が遠ざかりゆくのを感じます。

どうせお気に入りの選手が出てないからだろうとか揶揄されるかもしれませんが、それは違います。

家族にも笑われましたが、結局浅田真央さん休養中も私は見られる限りの試合を(TVではありますが)観戦しましたし、

情報も収集していました。

ならばなぜ心が遠ざかりゆくのかといえば、選手や関係者叩き、ひいては特定選手、特に浅田選手と羽生選手への

度を越した叩きが見受けられるからです。ことにこの二人については当人のみならずそのファンも執拗に叩かれています。

他の選手や元選手もそういった傾向はありますが、ことに酷くやられているのがこの二人とファンだと思います。

 

私は元から女子シングルが一番のお気に入りで、次に男子シングル(やアイスダンス・ペア)を見るくらいのファンでしたが

なんだか年々選手とファン叩きがエスカレートしているのを感じます。拠点が海外の羽生選手や、何をされても文句を言わない

浅田選手はいじめやすいのかもしれませんが、だからといって叩いてもいいことにはなりませんし、ファンも同様です。

 

マナーのことに絡めてファン叩きをするケースが最近とても多く見受けられますが、若い選手のファンだからマナーがなってないとは

言えません。以前にも私は書きましたが、ベテラン男子(元)選手のファンに直接迷惑をこうむったこともありますし、マナーの問題は

誰のファンかではなく、個々の問題だと以前から私は確信しています。

にもかかわらず、いまだ止むことのないファン叩き。古いケースでは「村上佳菜子選手を叩いたのは真央ファン」などと断言した

ブログも見て唖然としましたし、最近は「真央ファンの一部は安藤さんに嫉妬している。もう安藤さんは引退したのだから認めるべき」

など……。

両方とも、具体的な論拠など示されていませんし、そもそも私もそんな現象は見たこともありませんしそれぞれ被害妄想かねつ造だと

推測しています。お二方とも私のブログなど見ていないと思いますが、万一ご覧になったのならぜひとも根拠を示していただきたいものです。

 

そして上記のような選手&ファンたたきの他にもIJSおよび審判至上主義、採点に疑念を持つことすら許さない採点原理主義者と、

フェアジャッジ要望派やFPUを中心とする採点疑問派の仁義なき戦いにもほとほと見ているだけで疲れてしまったということもあります。

私なりに演技も沢山見ましたし、プロトコルなど小山ができるほど手元にあります。もちろんコミュニケーションやハンドブックも持ってますし、

異を唱える前には何度も演技もプロトコルも見てきました。その結果として、もちろんすべてではないけれど疑わしき採点はあるというのが

私のスタンスです。ただし、真っ黒だとまでは言いません。ほぼ妥当かなと理解の範疇に入る採点の方が半数以上あります。

それで私が思うのが「組織としては終わっていても、ジャッジの仕事まで全て否定することはできない」ということです。

黒ではなくグレー、それがこの一年近く私がゆるくフィギュアスケートを見てきて感じたことでした。

結局、採点競技の限界と興行志向の行き着いた現実が今のフィギュア界なのではないかと思うのです。

 

そんな中で、選手やファンを個別に叩いてみたところで何になるのでしょう?

ましてや明白な証拠や感情を退けた冷静な考察すらなく、○○は守られたのに△△は叩かれてなどと誰か別の選手が叩かれた恨みつらみを

他の選手やファンに押し付けるのは卑怯ではないですか?

報道のスタンスや環境の違いを恵まれた選手の所為にして何か変わりますか? 変わるわけないですよね?

しかし残念ながら、いまだにあらゆる方向から怨嗟の声が上がり広がっていくのを見ていると正直うんざりせざるをえません。

スポーツとしては華やかで美しい競技であるはずなのに、この醜さは一体おさまるのだろうか? 自浄作用はないのか?

 

残念ですが、まだしばらくは収まりそうもないというのが私の悲観的な考えです。

幸か不幸か、来春まで娘の受験サポートと仕事で忙しいので競技会場にもアイスショーにも出向くことはありません。

その間にもう少し、距離を保ちながらフィギュアスケートの行く先とそれを取り巻く皆さんを見守っていきたいと思います。

また戻ってくるのか来ないのか、私にもわかりません。しかし20年以上も見てきたフィギュアスケートを嫌いにはなりたくないですし、

ファンの皆様もスタンスの違いはあれど、少なくとも一人は好きなスケーターがいるでしょうし、それよりもっと多くの競技ファンも

いるはずだと信じています。

 

スケーターがフィギュア(図形)を描く氷に唾やどす黒い穢れがこれ以上まき散らかされませんように。

そして根拠なき叩きがもっと減りますように。

そう祈りつつ私はもう一歩フィギュアからしばらく遠ざかることにします。

 

 

今後も不定期亀更新になりますが、当分の間フィギュアについての記事は書かないことといたします。

次はおそらく観劇の感想記事になると思います。

 

それでは皆様お元気で。ごきげんよう。

 

 


リハビリ第一弾 日本語という国語について呟いてみる

2015年02月04日 | 雑感

大変お久しぶりでございます。

昨秋、新たな就職先で働き始めて以来、なかなかブログに記事を上げる余裕が持てませんでした。

現在も余裕があるとはあまり言えないのですが、諸々思うところはあるので少しずつ不定期にでも語ろうかと思います。

フィギュアスケートにも思うところは多々ありますが、今のフィギュア界はいろんなところに地雷が埋まっているようなので(笑)

細心の注意を払って書かねばなりません。

そんなわけで?リハビリ第一弾は軽く表題の件について語ってみたいと思います。

 

さて、最近私はいたるところで乱用されているとある言い回しが非常に気になっております。

それは「させて頂く」という言い回しです。

もちろんこれ自体は間違いではありませんし、適度に使用すれば何ら問題はありません。

しかし、マスコミから各団体、一般人に至るまでやたらと乱用されているような気がするのは私だけでしょうか?

 

日本語という言語、私たち日本人にとっては国語でありますが、この言語においては他国語以上に敬語が難解複雑であると

言われております。

確かに丁寧語・謙譲語・尊敬語と敬語だけで3種もある言語にはなかなかお目にかかれません。

それは日本における階級云々もむろんその必然性を要求したであろうことは想像できますが、それだけでなく日本人のいわゆる

「謙譲の美徳」の精神に起因するところが大きいと考えます。

我が子を「豚児」自分の妻を「愚妻」と表現する精神はなかなか他国の方々にはわかりづらいものだと思いますが、だからといって

日本人が家族を軽んじてきたわけではないことは論を待ちません。

私的環境を謙遜する、この精神が最も色濃くにじみ出ているのが謙譲語でありましょう。

 

ところで皆様、現在の教育現場では英語の方が国語よりも時間数が多い(ソースは中学生の娘)ことをご存知でしょうか?

小学校時代は比較的多めにとられていた国語の時間数は中学に入ると減ってしまいます。もちろん小学校時代にはなかった教科との兼ね合いも

ありますが、英語のコマ数の多さから考えると私としてはいろいろ思うところはあります。残念ながら思うだけであって、陳情などできようはずもないので

足りない分は自宅学習や塾などで補うしかないのですが、ここで着目すべきは「現代国語の軽視」です。

皆様もご記憶でしょうが、中学から古文や漢文も始まります。ただでさえ少ない国語のコマ数はさらに細分化され、現代国語ひいては読解や

敬語を含む正しい話し方を教育する時間はさらに削られていきます。

私個人の考えとしては、すべての基本になる国語を軽視するのは極めて危険な教育方針だと思うのですがそれは少数派なのでしょうか?

 

昨今、脱ゆとりと言われておりますが、その方向性は数学や英語の時間数を増やす方向にかなり重点を置かれているように思います。

もちろん数学も英語も十分に時間をかけるべき重要な科目ですが、国語はそれにもましてすべての基本ともいうべき国語力を育成する

極めて重要な科目です。

そもそも読解力がなければ、数学の文章題の意図を十分に理解できませんし、受験の際に面接で面接官相手に丁寧語さえ満足に話せなければ

下手すると不合格の憂き目に遭いかねません。

しかし残念ながら、この国語軽視の風潮はもう結構前から進んでいるのか、テレビや民間企業や官公署でもおかしな日本語に遭遇することは

最近珍しくないことです。その象徴的な言い回しとして私は「させていただくの乱用」を上げているのです。

それとさらに付け加えるならば、最近読書離れがかなり加速気味だということも加筆すべきかと思います。

良質な文章や日本語に触れる機会がどんどん減っている(アナウンサーの読む原稿もよく聞いてみるとおかしいことが多々あります)現状では

とりあえず「~させて頂く」とつけとけば無難だろうという考えに帰結するのかなと私は推測しています。

 

言葉は変化していくものです。何も明治大正の昔の言い回しを掘り起こせと言うわけではありません。ただ、せめて子供たちには基礎の国語を

きちんと教育し、私たち大人も良書や美しい日本語に触れる機会を惜しまず、おかしな物言いは改善すべきではないかと思うのです。

そして美しい日本語の本質を損なう、他人を罵倒したり中傷したりする文言こそ風化されればよいと願う次第です。

 


盲目信者とモラルハザード

2014年08月30日 | フィギュアスケート

ツイッターでちょこっとつぶやくだけにとどめておきたいネタだったのですが、危惧したとおりに問題の本質から目をそらし、

四方八方を攻撃しまくる困った人も出てきたのでやむなく?記事にしたいと思います。

とはいえ、渦中の人物を面白おかしく語るのが目的ではありませんので今更ですがアルファベットで伏字にしておきます。

(まあホントに無意味な気がしますが、一部のカミツキガメのような方々への対策です)

 

件の文春マターですが、私はこの事件のみならずここまで起きた様々な事件や疑惑を考察するに、日本スケート連盟(ISUもですが)は

とうにモラル崩壊でどうにもならない伽藍堂組織になっていると痛感しています。

いや、伽藍堂ならまだましかもしれませんが、各々の派閥争いや利害関係が交錯し、もはや選手のための団体とはおよそ言えないのではないでしょうか。

 

渦中のT選手ファンはひたすら話題が人々から忘れられ沈静化を望んでいる方が多いようですが、心中はお察しすれどもそれでは問題の本質は

全く解決されないままであろうと思いますし、加害者たる当事者も真の意味で反省などしないでしょう。口先だけのあるいはポーズだけの謝罪なら

サルでもできますよね。このままならいつまた被害者が出てもおかしくないでしょうし、またおそらく出るでしょう。

 

以前体罰問題の時にも思いましたが、連盟の人々もスケート関係者(選手、コーチなど)も世間の常識からはかなりかけ離れた独自の常識の中で

生きているように見えます。

現在の教育現場のように廊下に立たせただけで体罰とまで直結するのは行き過ぎかもしれませんが、体罰や暴言が当たり前であったり(しかも

他の指導者がそれを擁護したり)あげくにパワハラ・セクハラを堂々と行ったあげくに「相手は気にしていない。うちでは当たり前」と嘯くのは

少なくとも文部科学省の指導下にある団体として著しく問題があると断ぜざるを得ません。

また、私が恐れるのは加害者一人のみを処分し(まあそれすらなさそうですけど)他の見逃した面々は口をつぐんで知らんぷりで無罪放免という

意識の低さ、世間の一般常識やモラルとかけ離れた有様が続行し、深化していくのではないかということです。

 

このような記述をすると被害者とされるT選手のファンに猛抗議されるかもしれませんが、もはや彼(と加害者)だけの問題ではないと私は思うのです。

せめて上層部や役員に数名でもおかしなことはおかしいと声を上げる志を持った人材がいれば救いもありましたが、それは期待できないことが

今回の事件で明るみになりました。

 

前述のとおり、もはや事は一人の被害者だけの問題を逸しています。まだ連盟所属の若い選手が全国にたくさんいるにもかかわらず、問題の

本質――すなわち「モラル意識の著しい低下(あるいは欠損)」に着眼し、連盟の人事を刷新すべきではないかと私は考えます。

単刀直入に言うと、日本スケート連盟の解体および外部からの人材受け入れをすべきだと思います。

 

本来私は「~すべき」という強く口調は好みませんし、正直に言うならば本当は使いたくない言葉です。強硬で押しつけがましさを感じる言葉で

あるからです。しかしそれでもあえて使うのは、事態が非常に深刻かつ重大であると考えるからです。

今回はたまたま被害者が成人でしたが、次に似たような事案が未成年で起こらないとだれが断言できましょうか? また、再発しないとだれが

言えるでしょうか?

 

問題は「セクハラ・パワハラ」ではなく「モラルハラスメント」にこそあります。世間の非常識とも疑わず狭い井戸の中でぬくぬくとしている

場合ではありません。また、特定選手だけを守ればいいという問題ではもはやないのではないですか?

守られるべきは、サポートを受けるべきはすべての選手ではないでしょうか? 本来会長以下、スタッフは選手を支えるいわば黒子に徹する

志を持たずして、どうして選手にベストパフォーマンスを期待できるでしょうか?

満足なサポートもせず歪なムラ意識の中で好き勝手しても選手が勝手に育ってメダルを獲得してきてくれると思っているとしたら思い上がりも

はなはだしいですし、ましてや「スターは自分たちが作れる」に至っては噴飯ものの勘違いです。選手は鵜飼の鵜ではありません。

 

トリノ五輪からソチ五輪までのおよそ8年ほどの間、日本のスケート界はフィギュアを中心に空前の盛り上がりと実績を見せましたが、その功績は

主に選手にあるのであって、スタッフをふんぞり返らせたくて選手は健闘してきたわけではありません。また、その人気を支えてきたファンも

連盟の人々や関係者を儲けさせるために会場に足を運んだわけではありません。ひとえに選手あってのことです。

 

傷がもっと浅ければ「襟を正せ」で済んだかもしれません。しかし事ここに至っては、もはや組織の一新にしか期待できるものはないと私は考察します。

異論・反論はあるでしょうが、清濁併せ呑みながらも様々な選手が生まれ引退していった年月を思うにつけ、私は憤りとむなしさと共に上記のように

考え、ひたすら祈るのみです。

全ての選手が正当にサポートされ、守られますようにと。


勝ち馬乗りと自称良識派の欺瞞について考える

2014年07月26日 | フィギュアスケート

THE ICEなど各種アイスショーやイベントで盛り上がっている時にこんな記事もどうかと思いますが、ちょっと最近本当に妙な空気を感じるので

(特にフィギュアファン界隈で)少し思うところを書いておきたいと思います。

 

私は参加していませんが、いろんなブログを見に行くときに「ブログ村」経由で行くことが良くあります。

お気に入りのブログはブックマークしてありますので、時々見ようかなと思う頻度で見るブログはそのサイトを利用しているのですが、

いつの頃からかファンを自称しつつも特定の選手について叩きスレスレの言いたい放題ないわゆる「ファンなりすまし」なブロガーが

増えたなと感じます。

最初から〇〇は嫌いですと謳っていればその選手のファンはそのブログを避けるでしょうが、あたかもファンサイトであるかのように自己紹介しておいて

中身は自称辛口の批評ばかりでは看板に偽りありだなと感じます。

まあ、私の場合はそういったところは以降なるべく避けるようにしていますが、自覚があるのかないのか(本当は確信犯だと思いますが)

いまだに釣りよろしくファンを騙り挙句に特定選手のファン叩きをしている人は正直良識を疑います。

ところがそういうブロガーさんは自分を良識派だと思っているらしいですね。全くもって自分の姿こそ見えにくいものだと思います。

ああこれは、私を含めての一般論ですが(ただし私は自分が良識派とは主張しませんけども)

 

そして上記について更に突っ込んで書くならば、いつからか浅田真央選手を筆頭に、選手に対して好き勝手に言いたい放題で構わないと

思っている方が増えているのではないかと懸念しています。

もちろん我が国では言論の自由が(ある程度は)保障されておりますし、誰しも自分の意見や信条を主張する権利もあります。

しかしそれと同時に、常に周囲への配慮や特に個人に対して物申すときは細心の注意が必要ではないかと私は考えています。

フィギュアスケートの試合やショーがたくさん放送されるようになり、様々な人の注目を集めるようになったことはいいことでも

あるでしょうが、一方で誰彼かまわず毒をまき散らしても構わないと勘違いする人も出てきてしまったのは残念なことだと思います。

上記のキーワードで特定ブロガーを想定される方がいらっしゃるかもしれませんが、特定の方を批判しているのではなく、その

「風潮」について私は懸念を示しているのでそこは誤解無きようにお願いします。

 

昨今の露出の多さでつい失念されがちですが、トップスケーターたちのほとんどがアマチュアであり、また学生である選手も多いです。

そのような若い人たちを捕まえて、些末な一言や一挙一動をあげつらい、衣装から何からネチネチと姑根性丸出しで語ることが

彼らの応援に繋がるでしょうか? あるいは本気でアドバイスになると思うのでしょうか?

選手に直接ダメ出しをしないだけまだ害は薄いかもしれませんが(信じがたいことに選手にダメ出しの手紙を出す手合いも存在

するようです。以前やんわりと某選手が示唆していましたので)かといってさながら選手のコーチか親でもあるかのように上からの

物言いをする方には私は懐疑心を抱かずにはいられません。

疑問に思う心は自由ですが、たとえコメントに残らなくてもブログは不特定多数の方が見るものです。言いたいことを封じる必要はありませんが、

読者に不快な思いをさせない心配りは必要ですし、同時に選手たちへの敬意も忘れてはならないと私は考えます。

それこそノービスやジュニアの選手などは私の娘と同年代かそれ以下のことも多いですが、真摯に一つの事に打ち込む姿や時にその

心情を何気なく吐露した言葉にはいくつになっても学ばされることが多いです。

Webの向こうでひょっとしたら選手本人が自分の文章を読むかもしれないと考えた時、少しでも呵責を感じることのないように書こう。

これは私の信条です。まあ、他の方には押し付けられませんが、賛同して下さる方が多いといいなとは思います。

 

ところで、だいぶ前から噴飯ものだと思っているところなのですが、採点は正しくジャッジは神様のようにすばらしくて…(面倒なので以下略。

いわゆるキムチ派と呼ばれる方々のことですよ)な信仰をお持ちの皆様は一様に採点に疑問を持つ人(私もそのクチなんでしょうね)に対し

陰謀論者というレッテルを貼るのが大好きなようですね。そしてさらに言うなれば陰謀論者は特定選手のファンばかりだと思っているようです。

 

私に言わせれば、そういった方々は思考停止した盲目的採点信者ではないかと思うのですが(笑)

採点に疑問を持つのはなにも特定の選手のファンに限ったことではないですし、外国のフィギュアファンや関係者など多岐にわたります。

そういった方々がみんなそろいもそろって特定選手のファンだとしたらそりゃびっくりですよねー。事実、国籍も立場もまちまちですし、

誰が贔屓だとかそんなことを超えて、おかしなものにおかしいと主張しているだけであってそれ以外の共通点はたいてい無いです。

強いて言うならフィギュアスケートファンという当たり前の前提位ですね。ファンだからこそ、見た目と大幅に乖離した採点や複雑な

プロトコルにも向き合うわけですから。

俗に「政治と宗教と球団(野球)は話題にするな」という教訓じみた言葉もありますが、まずはキムチ派…もとい採点マンセー派の皆様も

採点に疑問を呈されたからと言っていちいちカッカして疑念を抱く人たちを攻撃したりせずに、彼らが心から納得できるような論拠を

示してみてはいかがでしょうか?

そんな義務はないと言われたらそれまでですが、信条・信仰の自由がある以上相手に片っ端からレッテルを貼って攻撃してばかりでは

ますます疑問を抱く多くの方々とは溝が開くばかりだと思いますよ。

あとついでに言わせてもらうならば、多くのメダルホルダーの選手に対してまで上から目線で物申すならばそれこそ慎重にかつ正確でなければ

全くもって信憑性がありません。ほんの数秒の荒い動画で見たことにまでダメ出ししている信者の親玉様を見ていましたら(これじゃ納得させて

もらえるはずがないわ…)とがっかりしたことも併せて綴っておきます(笑)

まあ、A選手はあれも駄目これも駄目だけどB選手に関しては全てスルーという点だけでも華麗なるダブルスタンダートすぎて問題外ですけどね。

 

あ、ちなみに最後の方はご立派な専門家様のようですので一般個人(ファンサイトやブロガー)とは別扱いで私なりに辛口で言わせて頂きました。

もっともこのようなブログなどご覧にならないでしょうし、たとえご覧になったところでレッテルを貼って終わりでしょうから痛くもかゆくもないでしょう。

ですから手加減無用と判断しましたので悪しからず。(一応お名前だけは伏せておきましたけどね^^)

 

以上