34歳。
気が付いたら生きていました34年。
そして気が付いたら二児の父になっていて、家へ向かう電車の中で当たり前のように彼らの未来を思う日々。
成れているかと言われれば自信は無いのだけれど肩書きだけは一丁前に「父親」です。
初めて長男の存在を認識してから四年経ったのだけれど彼らを抱きしめたり手を握ったりすると言葉にできない気持ちになるわけです。
そんな風に思っていたら多くの友人とその思いを分かち合うようになっていました。
だらだらと酒を飲みながらだらしなく笑って子供の話をする。
ひょっとすると結構幸福な事なのかもしれないとふと思ったり。
父親になると言うのは文字にするより複雑で頭で考えるより単純。
でもそれが誰にとっても同じ意味ではないなとも思う。
ただ言えるのはどれだけ言葉にしても表現しきれない「愛おしい」という感情で明日も立っていられると、きっと多くの父親が思うわけです。
セックスボムを唄うトム・ジョーンズみたいにギラギラしたオヤジになると思っていた奴が子供の笑顔や出来事で聖者のように微笑むのを見ると子供という存在は親にとって人生を変えるものなんだと改めて痛感します。
私が34歳という事は父も母も私が産まれてから34年生きてきてお陰様で60歳、70歳を超えて沢山の孫に囲まれているのだけれどそれってなんかすげぇなと思います。
すげぇ幸せじゃんて思います。
先日会った友人は会ってなかった間に病気で父親が亡くなっていて、それは悲しい出来事なのだけれど2歳になる息子と11月に出産予定の娘がいて、ちゃんと受け継がれていっているわけです命が。
これは親になって本当に思うのだけれど、命が受け継がれるって当たり前じゃないわけですよ。
どっかで何かが違っていたらあなたも私もあいつも彼女も居なかったって言いきれてしまう当然の事象ではないとつくづく思わされます。
それほど子として生まれて親になって子を授かると言う事が申請書やスイッチで行われる事ではない事だと、そう思うわけです。
多くの友人マンが息子マンから父マンになって、きっと何十年後かに祖父マンになって・・・。
仏壇マンやお墓マンになってからも受け継がれた命が感じられたら、それはきっと生きた証なのではないかと34歳の父マンは思います。
何が言いたかったかもうわからなくなりましたがそういったことを直接じゃなくても含めながら友人であり同じ父マンと話す時間は結構生きてる証の一つです。
世の父マン、頑張れ!
頑張れる!頑張ってる!
息子マンたちはそんな父マンがちゃんと好きです。
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