もったいない・ご恩返しの心を!太田清蔵の世界世直し運動

地位と名誉と資産と収入を一番大切にする自己中心主義を替えて、戦争とテロと貧乏と病気と麻薬撲滅に全力集中

磯村英一氏が見抜いたヒトラーの真意

2009年11月07日 01時26分34秒 | 君子ならずや
 30年くらい前にNHKの朝の連続テレビ小説『はね駒』というドラマが放映されましたが、このドラマは東洋大学長・磯村英一さんのお母様がモデルになっています。磯村春子さんは、小さな赤ん坊を背中におぶって、浅草界隈を、いろいろなニュースをとりに取材してまわっておられました。日本で一番古い女性新聞記者ではないでしょうか。
 そしてその彼女の背中に背負われておられたのが、磯村英一さんです。磯村さんは、昭和3年に東大の法学部をトップで卒業されました。
当然、新聞記者になるだろうと思いきや、内務省と東京市の両方から、「君は二度と再び出ない逸材だから、是非とも私どもへ来なさい」と言ってきたそうです。
昭和十一年(一九三六年)にドイツのヒトラー政権のもとオリンピックが開催されております。当時、私は世田谷小学校の五年生でした。我々小学生並びに中学生はみんな、ドイツがつくったオリンピック映像を観ました。思わず「ハイル・ヒトラー!」と言わせるような、実に素晴らしいものでしたが、あれを観たらみんな「ハイル・ヒトラー!」になってしまう。日本中の青年がそうなってしまうものでした。
 当時、東京市の職員となっていた磯村英一さんは、内務省からの命令で視察官として、第九回オリンピック大会が開かれようとしていたドイツの首都ベルリンへ派遣されます。目的は、次期オリンピック開催を日本に招致するため、ベルリン大会の主催国の元首であったアドルフ・ヒトラーへ「貢物」を届けることが使命でした。東京市長の名代として磯村さんは「第十一回のオリンピックは東京へ」というメッセージを添えて「貢物」をてヒトラーに手渡し握手を交わしたといいます。
しかし、ここで磯村先生は、見抜きます。ヒトラーは世界中のユダヤ人を皆殺しにするために、第二次世界大戦を計画しているのではないか。これからそれをさせないためにはどうしたらいいかと。
 ちなみに、磯村英一先生はヒトラーとの握手についてご自身の著書に次のように書き記しておられます。

その時痛感したのは、握手したヒトラー自身の“手の冷たさ”である。正直言って、これが生きている人間かと思われたほどであり、私の生涯で“冷血”といえばすぐ彼を思い出す。(『昭和五十年の秘史』)

 磯村先生は終戦当時、東京都渋谷区長(当時の区長は任命制)を務められておられましたが、英語が堪能なことからGHQとの交渉役として渉外部長を命じられて担当を命じられ、今度は最高司令官のマッカーサーとも握手しておられます。そのときの手の感触について、「ヒトラーと違いマッカーサーの手は温かった」と周辺の人たちに語られています。
 さて、磯村英一先生はその後、「これからは戦争や原子爆弾に頼る時代をやめて、みんなが楽しく一緒にやっていく世の中にしようじゃないか」との思いから、国連大学をつくるのにご尽力されました。
(太田清蔵勉強会『もったいないご恩返しの会』2009年9月17日スピーチより)