origenesの日記

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木田元『ハイデガーの思想』(岩波新書)

2008-01-31 23:04:46 | Weblog
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二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、<生きた自然>の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうとするその意図を、「血と大地」に根ざした精神的共同体の建設というナチズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを領導しておのれの文化理念に近づけうると夢想した、その心理は理解できるように思うのである。
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第7章「ハイデガーとナチズム」より引用。
ハイデガーにとってのギリシア哲学がどのようなものか、簡潔に説明がなされていて勉強になった。ニーチェもハイデガーも(ラヴジョイも)、プラトン・アリストテレス以降の西洋の形而上学を総体的に捉え、その形而上学の本質について批判的に考察した。
形而上学批判ということでは、ハイデガーはニーチェから影響を受けているのだろうが、彼はニーチェを形而上学の批判者というよりも完成者として考えている。アリストテレス以降の哲学においては「本質存在」(何であるか)と「事実存在」(いかにあるか)の区別が自明のものとして見なされてきた。ニーチェもこの「本質存在」と「事実存在」の区別にとらわれていた。彼の「力への意志」は存在者が「何であるか」「本質的に何なのか」ということに対する思考であるし、「等しきものの永劫回帰」は存在者が「いかにあるか」「いかにあらねばならないか」ということに対する思考であった。
ハイデガーは形而上学を克服するためにはこの「本質存在」と「事実存在」との区別を乗り越えなければならないと考えた。ハイデガーがサルトルを批判したのは、彼が「本質存在」と「事実存在」との優劣を逆転させただけで依然としてこの区別に拘泥しているからだという。「存在は本質に先立つ」というサルトルの言葉はハイデガー風に言えば「『事実存在』は『本質存在』よりも先立つ」ということだろうが、優劣を逆転させるだけではダメでこの区別そのものを撤廃しなければならないのだ。
そこで彼が模範として見出したのはヘラクレイトスやパルメニデスの哲学である。ヘラクレイトスの「ヘン・パンタ」とは「万物は一つである」という意味であり、ハイデガーはこれを一なるものが全てを存在者としてあらしめるというように解釈する。視野のうちに集められるもの全てが存在者として「在るとされるあらゆるもの」として見なされるものとなる。ヘラクレイトスにおいては存在の本質は、自然(ピュトス)であり、彼の哲学には形而上学的な人間中心主義はなかった。この哲学の思考法こそをハイデガーは重視した。
ヘラクレイトスには「存在とは何か」という問いはなかった。この問いを始めてしまったのはソフィストたちであり、プラトンやアリストテレスによってやがては定式化された。ここにハイデガーは偉大な時代の終焉を見て取る。アリストテレスにおいては「存在=被制作性」となった。存在するということは、超越者によって存在させられていることという形而上学的な解釈が生まれたのである。形而上学を打ち破り、「存在=生成」を取り戻すこと。そこにハイデガーの狙いがあった。
冒頭の引用に戻ろう。著者によると、ハイデガーのナチズム礼賛の一因は、彼がプラトンやアリストテレス以前にまで遡り、イオニア自然哲学的な「生きた自然」を取り戻そうとするということにあったという。ナチズムの起源を遡っていけばギリシア的理性に行き着くというのがアドルノ・ホルクハイマーの見解だったが(レヴィナスも近いことを言っているが)、どうもこの「ヘレニズム的なるもの」と全体主義というものはやはり何らかの相関性のあるものらしい。もっとハイデガー哲学にはギリシア的理性への礼賛はなく、理性批判という点ではニーチェの後を継いでいるのだが…。
後期のハイデガーは特に難解であることで知られるが、著者は後期の思想に対しても短いながらも的確な解釈を行っている。
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この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉になって現れるということにほかならない。存在こそ言葉の住居である。
(202)
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人間のとってすべてのものが「言葉」のうちに現れる。言葉は存在の住まいであり、ゆえに私たちは言葉を通ってこそ存在者に到達することができる。森に行くときは「森」という言葉を通って森へと行くし、泉に行くときは「泉」という言葉を通って泉へと行く。仮に「森」「泉」という言葉を思い浮かべなかったとしても、視点は「森」「泉」という文節によって「森」や「泉」の存在を見出す。
人間は存在の住処である言葉を通ってこそ、初めて存在へと行き着くことができるのである。言葉が分節を行うことで、「私」は個々の存在に触れるのである。言葉は人間のコミュニケーションの手段でもなければ、人間が専ら主体的に用いるものでもない。ここに西洋の形而上学や主体哲学への批判の響きを聞くことができる。また、ここでハイデガーが「言葉」というものを話し言葉や書き言葉ではなく、ある種の思考のカテゴリーのようなものだと考えているということは注目に値する。
思索する者も詩作するものも存在を追想する。「思索は言葉を集めて単純に語る」という。思索する者と詩人はまったく違った方法ではあるが、両者とも言葉に畝をつける。
「星は星と名づけると遠ざかっていってしまう」という「名言」が後期のハイデガーにはあるが、「星」という一般名詞的なものと「星」という存在の間にある溝に注視することが求められているのではないか。

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