~ お 衣 裳 部 屋 か ら 愛 を 込 め て・・・ ② ~
光彩(こうさい)脱目(だつもく)と言われるほどのその容姿がかすかに歪んだ。
無表情を善しとする精鋭達の中でさえ、感情を持ち合わせていないのではないだろうかと例えられる近衛連隊長の、明らかに困り果てた表情に、副官はほんの少し軍靴の先を進め、
「……隊長……」
我を失うとは珍しいと、ある意味では感心しながらもあくまでも職務に忠実な近衛兵士たらんとする。
どのような美辞麗句も霞んでしまうとさえ言われた直立不動の近衛連隊長。そのオスカルの眉間に皺が寄った。ジェローデルがさらに1歩寄り、
「……ご下問にございます……」
小声で上官に向かって呟いた。
なるほど。先日、王妃は続きはまた今度、と確かに言った。王妃がそう言った事自体はオスカルももちろん忘れるはずがない。いついかなる時にも主の言いつけは絶対だ。
だが。あの時の王妃の言いようは『この話題はもう終わった』という解釈をすれば良いと思っていたオスカルは、明らかに面食らった。
「ね、オスカル……」
周囲に仕える多くの人がこの屈託のない笑顔に“non”と言えなくなってしまうとオスカルも何度となく聞いた事があった。今、まさに自分がその境遇に置かれようとしている。
周囲の誰もが俯いたり、あるいは聞こえない振りをしている。
「何日前だったかしら……言ったでしょ? これからお衣装はあなたのダーツの腕に任せる、と……。まさか忘れたとは言わせませんよ」
確認するかのように、近衛連隊長の顔を覗き込む。
「え……。いえ……しかし……」
言い淀む。いや、明確な拒絶の意思を言えない代わりに、無言の抵抗で王妃に諦めさせようとする。
公式の場での装いを、いやしくも一国の王妃がお遊びで決めるなどオスカルにとってはこの上ない愚行だと感じられた。
「オスカル、分かってちょうだい。来る日も来る日も息吐く間もなく、やれ晩餐だ、次には謁見の時間だと、次々に着替える事を要求されて……。私は本当はもっとゆったりしたローブを纏っていたいのよ。ならば、せめて服を選ぶ苦しみから解放されても良いと思わなくて?」
今現在いわゆるシュミーズドレスを纏っている王妃の口から出てくる言葉とは到底信じがたいが王妃が本気でそう思っている様子はオスカルにも分かった。しかし、やはり、御意と言える内容ではない。
「しかし……。何もダーツで決めようなどせずとも……」
「あら、人生に余興は必要よ。投げた矢がその日の私の装いを決める。誰も何も考えなくすむ。素敵でしょ?」
どういった繋がりからの発言か見当もつかない。果たしてそれを素敵と思う人間が当の王妃の他にいるだろうかと、オスカルは頭を抱えたい気分だった。
ここまで焦る連隊長も見ものだと、ジェローデルが秘かに肩を震わせていた。オスカルはちらりと副官に視線を送ったが、
「そう、例えば、でございます」
王妃の思いつきがいかに無茶な事かを説明しようと試みる。
「このように膨大なローブの中から、場に応じたローブにダーツが当たりましたら良うございましょうが……万が一にも夜会にローブ・モンタント(主に昼会用)にでも矢が刺さりましたらいかがなさいます?」
必死ながら、理屈は通っている。
「あら、それは確かにそうね……」
残念そうに言う王妃の姿に少々気の毒さを感じながらもオスカルはほっと胸を撫で下ろす。ところが王妃はにこやかに、
「それはそれで、お告げに従ったとでも言い張りましょうか」
「とんでもございません」
即答しつつ、オスカルは本格的にめまいを覚える。
「オスカル。では、こうしましょう」
だが、敵も心得たもの。王妃は涼しい顔で微笑みながら、
「あなたが来た時にはその日のお天気や目的に合ったローブを女官長がいくつか準備しておきます。その中からあなたの投げたダーツが刺さった物を私は着ることにします」
そう言われ、オスカルは尚も食い下がり王妃に問う。それならば1着を選んで口頭で伝える方が早いのではないか、と。すると、王妃は不思議そうに答えた。
「オスカル、考えてもごらんなさい。あなたの思い描くローブに間違いなく矢が刺さるのは100パーセント?」
「……いえ……」
「でしょ? だから、面白いのよ。いくつかあるローブの中からこれと決めた物にダーツを投げる事が上手にできるかどうかという楽しみも加わるのよ」
「……で。おまえにしては珍しく、お言いつけに従うしかなかった、と……」
ふくれっ面の主の機嫌を更に悪くしてどうするのだと思いながらも、アンドレは帰路の馬車の中、幼馴染に訊いた。
「……ああ……」
斜向かいで腕組みしたまま言葉少なに答え、オスカルはつけ加えた。
「……今日は、ジェローデルを招いた」
「はぁっ? 何で……!?」
思いもしない人物の名が、思いもしない形で出て来て、アンドレは何の飾りもしないストレートな問いを間髪入れずに口にした。
「何で、だと……? 当たり前だろう、考えてもみろ。私だけが道化になるなぞ耐えられん。巻き込んでやった。王妃様に、少佐にもそのお役目をとお願い申し上げ、ご許可いただいた」
「その場で?」
「もちろん! 今日はこれから練習だ。後ろで面白がって笑っていたのだからな、奴は……。私が気づかないとでも思っていたのだろうか」
何やら思い出したたようで、表情がもう一段階険しくなった。
「まあ、客は客だ。軽い食事と……。後はおまえに任せる」
「はぁ……」
溜息を吐き、お気の毒に、と一瞬笑ったが、アンドレは思った。
ジェローデルの心の内は知っている。きっと言いつけられた瞬間には良い気持ちがしなかったであろう。だが、隊長との距離を縮める機会を与えられたと今頃はほくそ笑んでいるに違いない。抜け目ない少佐の事だ、もしかしたらダーツの練習の為の練習でもしてくるのではないだろうかと思いながら、憮然としたまま頬杖を突くオスカルをアンドレは黙って見つめていた。
遊戯室には妙な緊張感が走っていた。
ジェローデルが土産にと持って来たヴァンがアンドレの優雅な手つきで開封される。ブルゴーニュで採れた年代物の赤はそのままデキャントされた。向こう側が透けて見えるほどの淡い赤を眺めながらオスカルが、
「ピノ・ノワール、か……。そういう趣味だったか……」
形ばかりのテイスティングをすませる。
「女性にはお勧めですので……」
何食わぬ顔で答えるジェローデルに一瞬苛立ちの様子を見せたが、オスカルは静かに足を組み、まあ、良いと笑って見せた。
窓際の丸テーブルの上にはチーズやナッツ類と一緒に、グラスに注がれたヴァンが置かれた。
テーブルの後ろ、腰高の縦長の連窓は開け放たれ、カフェカーテンは風に揺れていた。風の強さや方向によってはいつでも窓を閉める事ができるよう、アンドレはそこに待機したまま、ダーツ盤を見つめていた。
ジェローデルが先にスタートラインに盤に対して体を平行、つまり真横を向いて立つ。
「クローズドスタンスとはいかにも遊びを知り尽くしている君らしいね」
意趣返しとでも言わんばかりに茶化すオスカルに、無言のまままず1本目を投げる。
シュッと風を切ったダーツは、右斜め上18点を刺した。それを高得点と見ているのかどうか疑問だが、オスカルは称賛の言葉を投げる。
とても練習やお遊びとは思えないほど淡々と双方が投げ合う。だが、
「立派な台ですね」
ジェローデルは3投目の構えに入っていた腕を一旦下ろし、ヴァンに口をつけようとしていたオスカルに言葉を掛けた。
「ん……?」
言われるままに、部屋のほぼ中央に位置するビリヤードテーブルに目をやる。
「ああ……」
そう言い、後ろのアンドレに視線を送る。説明しろと言う意味である事がアンドレにはすぐ分かった。
「先々代が取り寄せさせましたペンテリコンの大理石だそうでございます」
「ギリシャの?」
ジェローデルが聞いたところでオスカルが口を挟む。
「誠かどうかは知らんがな」
「また、そんな言い方を……」
軽く窘める従者に、はいはいと愛想笑いを返し、オスカルはジェローデルの方に向き直る。
「たまに、価値がわかる御仁にとっては良い物に見えるらしいが、私は台の価値など興味がないからな。玉突きが出来さえすればそれで良い」
「ビリヤードもなさいますか?」
「ああ。……だが、こればかりは、身長の違いもあってあれには敵わん」
アンドレの方を大仰に振り向いて見せる。その振り向かれた側はいい加減にしろと言わんばかりの表情でゆっくりと首を振った。
「そうですか……」
ジェローデルは、ダーツゲームの途中にもかかわらず、ビリヤード台とアンドレを交互に見つめ、
「ぜひ一度お手合わせ願いたいものです」
そう言い、完璧に作り上げらえた笑顔をアンドレに向けた。
「やっぱり、この方が楽だな」
ジェローデルが引き上げた後の遊戯室。
オスカルはそう言いながらやや長い丈のジレを脱ぎ捨て、椅子の背に掛かるように放り投げた。しかし、珍しく選択した黄色はカチンとボタンが背板に当たり、そのまま床に落ちた。アンドレは当然のようにそれを拾い上げると、パンパンと払ってから椅子の背に掛け直す。
「何だって、こんな色?」
本当に珍しい、とアンドレはその真意を確かめずにはいられなかった。
「ん……? おかしいか……」
アンドレはおかしくはない、と微笑んだ。
その黄色は先日トリアノンへの小径で見かけた季節を告げる花々の中にもあった。ヤマブキだ。崇高という花言葉を持つその小さな花をアンドレは思い出していた。
客人を送り出しラフなブラウス1枚になったオスカルは、手にしたバレル(※1)を磨くかのように指先でキュッキュッとこすりながら、
「王妃様の煌びやかなお衣装ばかりを見たせいかな」
少し間を空けて、アンドレの問いに答える。
「私自身、日頃はあれほど派手な色の軍服を着ているのに……。今日、帰ってから着替える時に、なんとなく衣装部屋に入ってみたくなってね」
ふふと、オスカルは思い出して笑った。
「何と! 恐れ多い事だが、王妃様と引けを取らないほどたくさんの服を私も持っているという事が判明した」
「……知らなかったのは、おまえだけだろうね」
冷たい視線を送る幼馴染に、オスカルはわざとらしくコホンと咳払いをしてみせてから、
「……となると、着てやるのもこの服達の為なのかもしれんと思ったわけだ」
「ふ~ん……」
そんな単純な事か、とアンドレはその説明に納得するような仕草を見せた。
本当は、王妃様に刺激されて、さらに奥の部屋のローブを手にしてみたかったんじゃないのか、とアンドレは尚もダーツ盤に向かって腕の素振りを繰り返すオスカルに視線だけで尋ねた。
おそらくジェローデルも気づいたはずだ。持って来たピノ・ノワール。そして、あからさまな発言。ピノ・ノワールは単一の葡萄から絞られその独特の香りはとても甘く、女性に好まれるヴァンである事はアンドレも知っている。
ジェローデルは意図的にそれを持って来た。
最早、アンドレにとって、それは確信だった。
何やら生じたもやもやを振り払うかのように、アンドレは頭を振って深呼吸した。
たかがローブ選び、たかがダーツ遊び、と言い聞かせた。
「オスカル! ひと勝負、どうだ?」
「おっ!」
常日頃なら止めさせる側であるアンドレから勝負を挑まれ、オスカルは目を輝かせる。
「……少佐は、あまり本気でなさらなかったな」
慎重にダーツを選びながら、アンドレは訊いてみた。オスカルの投げ方や得点にさえ無関心だった先ほどの様子を思い出した。むしろ関心はビリヤードの方に向いていたようだったとアンドレは思った。
「ふん」
オスカルは鼻を鳴らす。
「ローブひとつを選ぶのに、仰々しいというのが奴の本音のようだ」
「おまえも……?」
そう思っているのか、とアンドレは言いつつ、1投目の構えに入った。
「王妃様のお言いつけだ」
オスカルは、アンドレの問いにわざとやや方向違いの答えを出した。
アンドレが投げ終わると、続いてオスカルが構える。何事にも真摯に取り組む性格そのものに真正面から盤に向き合うオープンスタンスだ。アンドレは、そんなオスカルの横に寄り、
「さっき見ていて思った。おまえには、少し横を向くミドルスタンスの方が合う。余計な力を入れずに投げられるはずだ。やってみろ。構えとしては、この方がポピュラーだしな……」
「えっ?」
驚きながらも、言われた通りに構え、放る。
「おっ!!」
力まずともダーツは、綺麗な放物線を描きながら、ブルに向かって飛んで行った。
気を良くしたオスカルはルールなど無視して、そのまま2投目を投げる。
「おまえは、馬鹿馬鹿しいとは思わないのか?」
投げながら喋る。その結果、ダーツは的から大きく外れて壁に突き刺さる。
オスカルの言わんとする事は分かったが、あえてアンドレは何が、と尋ねてみた。オスカルが再度口を開く。
「おまえは……どう思う?」
「俺は……。それに関してどうこう言える立場ではない」
従者として何とも優等生な答えを出し、だが、と続けた。
「おまえがそう決めたなら、従うだけだ。……それに……」
「それに?」
「そう長くは続かないだろう? 気紛れであられる事を毎晩祈るよ」
オスカルは、両手を大きく広げ、
「では……。やはり私はダーツの稽古に勤しむしかないようだな。おまえの祈りを神が聞き入れて下さるまで……」
「……みたいだな。可能な限り、お相手仕(つかまつ)ります」
恭しく腰を曲げるアンドレの顔を見つめ、オスカルはぷっと吹き出した。
≪continuer≫
〇 〇 〇 おれんぢぺこの聞きかじりダーツ講座 〇 〇 〇
※1:ダーツの本体。投げる時にはこの部分を持つ。
ダーツは…先端、矢の部分=チップ ➡ バレル ➡ シャフト(フライトを取り部分)➡フライト=羽部分、で構成されている。