「乱倫の女帝」というイメージは、われわれの頭の中に強烈に残っている。そこでこれから称徳の「愛人関係」を検討してみたい。
愛人とされる人物は二人、藤原仲麻呂(恵美押勝)と道鏡である。
まず仲麻呂からいこう。
仲麻呂が称徳女帝との「関係」を疑われる最大の証拠は、仲麻呂が異例の出世を遂げていることだ。
彼は、女帝によって太師(太政大臣)に引き上げられている。
生前にしかも皇族でない臣下の身で、太政大臣になったのは彼が初めてなのだ。・・・・
しかし、仲麻呂の経歴を詳細に見ていくと、実は彼の出世は称徳ではなく、その母の光明皇后の引きによるものであることがわかる。・・・・
この仲麻呂の経歴の中で、注意すべきことは四つある。
第一に紫微中台の長官となっていること。
そして第二に、聖武上皇が死去の際に指名した皇太子(称徳女帝の後継者)道祖王が757年(天平宝字元)に廃され、代わりに、大炊王が指名されたことだ。
この大炊王と仲麻呂は特別な関係にある。・・・・
早い話が、仲麻呂は大炊王に目をつけ自分の保護下に置き、ロボット天皇として擁立する機会をうかがっていたということだ。・・・・
第三にその廃太子事件の直後に、新設されたポストの紫微内相になっていることだ。
・・・・紫微中台という機関を、そもそも作らせた張本人、つまり光明太后以外の人間ではありえない。・・・
この時代は光明太后―紫微中台、孝謙(称徳)女帝―太政官という二極構造が成立している。
だから、もし、女帝が仲麻呂に対して特殊な感情を抱いているならば、いやもっと正確に言おう、仲麻呂が女帝の愛人ならば、
女帝は太政官の中で仲麻呂を右大臣なり、左大臣なりに引き上げていたはずだ。
紫微中台などという皇権の低下につながる余分な組織を作り、その長にするなどという面倒臭いことをする必要はないはずなのである。
つまり仲麻呂は女帝の愛人でも何でもなく、むしろ対立する存在であったということなのだ。・・・・
それゆえに、仲麻呂の出世は「邪魔者」の女帝が退位し、自分の保護下にあった大炊王が即位した時に、絶頂を極める。
・・・その証拠に、光明太后が死ぬと、仲麻呂の没落が始まるのである。仲麻呂の輝いている期間は「光明」に照らされている間だけだった。
光明皇太后の死は、仲麻呂にとって最も大きな痛手だったのである。
彼女は仲麻呂が実権を握り平城京から保良宮へ隠退してしばらくたった時、淳仁帝に腹を立て平城京へ戻った。その時に発した詔に、・・・・
通常この詔勅は、淳仁帝が仲麻呂の意を受けて「道鏡と別れるように」と諫言されたことに対する反論であったということになっている。
そして、海音寺も他の多くの歴史家も、この時道鏡と女帝の間には愛人関係があったと考えている。
・・・・確かにヒステリックで独りよがりなところがあるが、私は女帝は極めて潔癖な人だったのではないかと、最近は考えるようになった。
まだまだ、続きます。(第四は残念ながら、読解力のなさで文面からは読めません・・・・)
遠出による会合の翌日、調べものをしたいため、この町の中央図書館へ。
その途中にある広場、何やらイベントが。
この日は前日の雨で若干曇り模様の寒い1日だった。
とはいえ、おらっちゃ好みのいろんなものが集うフリーマーケットが開催されています!!
何かないかと目を凝らすが、好みの品は出ていません。
うちんちもいろいろ物色するが、なかなか琴線に触れるものないようです。
とはいえ、これはというもの見つけたようです。
女性好みの品物、値段は恐ろしくて聞けません。
おらっちゃから見ると、まーよくいって精巧なイミ・・・。
本人、真面目にこの作り、色具合、天然ものじゃないとだせない等とほざいています。
本人が満足すれば、それで良し、偽物、本物関係ありません。
はてさて、皆さまどう判定します、この品物?
ネットで検索しても、難しいらしいこの手の品物。
久し振りの大きな行事です。
毎年2回は近場の同窓生が集まってミニ集会はやってはいるが、節目の今年5年振りの大集会が企画、開催されました。
大体5年~10年毎に、この種の行事開催しているのかな?
特に5年前はいわゆる人生回生年で盛大に行われ、参加者も60名+と、卒業生の4人に1人が集まりました。
それから5年、今年から皆国から長生きしたご褒美の僅かな小遣い?を2ヶ月毎かに貰えます。
とはいえ、いろいろ引かれる金もあるようで、おらっちゃ宅にも来年3月までに・万円払いこめの通知が来ていました。
皆もそれに対して、いろいろ不平不満云っていたが、まーそれ以上施されるのだから仕方ないのかな?
前置き長くなりましたが、こんな行事です。
開催前からいろいろ盛り上がっていたようで、前夜祭ではゴルフ、ボーリング大会と頑張っています。
おらっちゃはちょっと遠くからの参加と、今回はこの行事のみでの参加です。
集合はPM6:00、1時間前には多くの参加者が既に集合、受付前で各々雑談。
この日は日柄も良いのか、このホテルでのいろんなイベント、20近くあっていた模様。
この時もこのフロア、我々含め3つのイベントが開催されていました。
最初に物故者への黙とう、これは前回から始まりました。前回は・名、うち1人は生きているのに物故者への仲間入りと不名誉な記録もありました。
今回は4名がその仲間入り、「えっ!あの彼が亡くなったの?」と、信じられない報告が相次ぎました。
よくよく聴くと、皆男性、すでに神さまの不公平な選別が始まっています。
先ずは、幹事の挨拶、「夢をいつまでも」とのスローガンから始まります。
今回は50名弱の参加と、先ずは唯一参加の担任の挨拶です。
「現在82歳、まだまだ元気でいろいろな地域の長をやっており、皆も健康に留意して年金をしっかり貰おう!!」とのお言葉?だったかな。
とはいえ、最近足腰痛め、椅子に座る、歩く等にもちょっと辛そうだったご様子です。
中央で立っている後ろ姿が、その先生、周辺の人間、幾人かは頭姿は先生と年齢差ありません。
後は久し振りの仲間うちの歓談です。
今回50年振りの再会が数名、遠くは関東、中部、関西の参加者もいます。
また、芸達者による催しも目白押し、こんな具合です。
リサイタル並みの声量のある歌い振り、聞くとプロ歌手?だったとか?
彼女も遠距離組で50年振りの参加だったかな?
この後、2次、3次会と夜が更けるまで大声上げて・歳を祝う日を楽しみましたとさ。
井沢元彦の逆説の日本史(3)「古代言霊編」にある道鏡と称徳女帝の章、約150ページとこの内容のみでは、今までの資料に比べ最もページ数が多い。
はたして、この中ではどんな風に二人の関係が捉えられているか、表題からも分かる様に逆説なので、まるで・・・と云う内容になるのか?
『日本三大悪人の一人とまで言われた道鏡は、戦前の教科書では・・・・
道鏡は臣下の身でありながら天皇の位を狙ったから「大悪人」なのである。
この曲解には二つの視点がある。
一つは皇位を狙った大悪人という見方であり、もう一つは女帝と道ならぬ関係を結んだ怪僧であるという見方だ。
この間の歴史は一般に次のように理解されていた。
称徳女帝は多情な「惚れっぽい」女だった。初めは藤原仲麻呂と愛人関係にあり「恵美押勝」(恵美は「見るたびに微笑ましい」という意味『水鏡』)
という名前まで与えて大師(太政大臣)に任じ重用した。しかし、そのうちに道鏡と急接近し、仲麻呂は俗にいう「振られた」形となり、反乱を起こし殺された。
そして、そのことに不満を抱いた淳仁天皇も廃位された上に抹殺された。そして女帝は「愛人」の道鏡に皇位を譲ろうとしたが果たせず、失意のうちに死去した。
・・・つまり称徳女帝の時代は、女帝の「性」というものに振り回された時代だったという視点だ。・・・・
ところが、こういう見方に対して真っ向から異を唱える人がいる。同じように歴史に関して独特の洞察力を持つ作家坂口安吾である。
・・・・・この女帝は後世の俗史に至ってミダラ千万に描かれているが、正史はそれに関して極めてかすかに暗示的なものがあるにすぎない。
ところがこの正史は押勝や道鏡を倒して天下をとった反対派の筆になるもので、自分たちの陰謀はタナに上げているし、
道鏡の出生その他についても多くの筆を偽っている。その筆法で、全てを道鏡自身の陰謀の如くに作為するとすれば、女帝と道鏡を結ぶヒモがない。
そのヒモは正史を作為した自分たちの仕業によるものだ。そこで女帝と道鏡にヒモをつけるとすれば男女の道、
恋愛というのが誰もが思いつき易くて自然なのは当然だが、事実に反してあからさまにそうも書けないので、極めてかすかに暗示的に、
そのように解釈すればそうもあろうという程度に筆を弄したのではなかろうか。
・・・実に女帝はその生ある限りというもの、彼女の威風を落としたことがない。
同様に、ミダラの相手たる道鏡も、殆ど死に至るまで威風を落としておらず、民意に於いては同情されている傾きを見ることができるのである。
私は俗書と全くアベコベに、この女帝は終生童貞(いわゆる「処女」の意)ではなかったかと近ごろ思うようになった。
当然続く