杉浦 ひとみの瞳

弁護士杉浦ひとみの視点から、出会った人やできごとについて、感じたままに。

・脳死臓器移植法案 ~  子どもの脳死は判定困難

2009-05-30 15:53:59 | 法律・法制度
このところ、新聞にも連日のように脳死臓器移植法案の話題が掲載され、A案、B案、C案、D案などが表にされたりしています。
でも、違いはなかなか分かりにくく、ただ、「移植をすれば助かる子どもの命を救いたい」「外国に臓器を買いに行くのは・・・」といったことだけが分かりやすい表現になっています。

この問題は、簡単ないい方をすると、この臓器移植は、完全に死んでしまった体からの臓器では移植しても使えないので、臓器を取られる人については「死亡した」ことにして、まだ生きている臓器を他人に移植する、という生と死の間隙をつくりだして、臓器を利用するものです。

語弊あることを覚悟で言えば、生きのいい臓器をもらうためには、臓器提供者(ドナー)を、早く死亡したことにした方がいい、という関係になります。

ですから、その間隙を認めるとしてもどこで線引きをするかは、人の命を線引きすることであって慎重にならざるをえないわけです。
そして、もう少し私の考えをいうなら、その線引きを客観的に相当なものにしておかなければ、強者によって弱者の命を奪ってしまうことになる恐れを払拭できないと考えています。

では、どこで線引きをするか。
私たち素人は、客観的な医学のデータを知ることで、判断するしかありません。


日弁連の医療に関する専門の弁護士らが調査して、データをもとにまとめた日本弁護士連合会の意見は下記に掲載します。

その中で、私が、ぜひ知ってもらいたいと思う点は次のような点です。


①子どもの脳死判定基準に疑義があるという点です。
 先の衆議院参考人質疑での小児科医師の発言からも明かなとおり、

 【小児科医の約7割が子どもの脳死判定が可能かどうかわからない】

と回答しています。かかる脳死判定基準のままで、子どもの脳死判定を実施し臓器移植を行なうことは、脳死ではない子どもから臓器を摘出してしまう可能性を残したままの強行突破と言わざるを得ません。

 とりわけ、子どもについては、脳死と診断された後も長期に生存する例が多数確認されているという点です。
 現在、ほとんど全ての方々が、脳死というのは、脳死と診断されたのち数日で心臓も停止するものだと理解しています。しかし、その認識は誤っています。子どもをドナーにするかどうかの改正にあたっては、少なくとも、脳死の判断がされた後もさらに数か月以上生存する可能性のある子どもから臓器の摘出を認めてよいのかという形で真摯な議論を行ない、社会的合意が得ることが不可欠です。ところが、現在、このような正しい情報が周知されておらず、議論は全くなされておりません。

② 我が国の小児救急医療が非常に貧困・脆弱であるという点です。

子どもが脳死状態となる原因のほとんどは、不慮の事故であります。ところが、我が国の救急医療、特に、小児救急医療は極めて脆弱です。たとえば、重篤な状態となった子どもを治療するには小児集中治療室が必要ですが、これが、我が国には、18カ所、約120床しかありません。しかも、この集中治療室は、癌や白血病の子どもだけを対象とし、事故によって受傷した子どもを受け入れていません。そのため、
 【1才から4才の子どもの死亡率は、主要13カ国中ワースト3位】

となっています。かかる現状から、本年3月、厚生労働省は、「重篤な小児患者に対する救急体制の検討会」を開き、現在、小児救急医療の改善への検討を始めたのです。このように検討を開始したばかりの時期に、適切な治療が実施されていれば救命できる子どもを、医療体制が不十分であるが為に脳死状態にし、その臓器を摘出するという法を定めることは、非倫理的との非難を免れ得ないと思います。


③ 虐待された子どもを脳死臓器移植の対象とする可能性が存する点です。
 脳死状態になった子どものなかには、親などからの虐待を原因とする場合が相当程度含まれていることが指摘されています。虐待した親の同意で、その子どもを脳死臓器移植の対象とする非倫理性は、申し上げるまでもありません。虐待の有無の判断を、現場の医療者が限られた時間で実施することは、非常に困難であることが明らかになっていますし、これに倫理委員会を関与させるだけで直ちに可能になるとは思われません。

 以前、虐待した親が、虐待によって死んだ我が子について
「せめて臓器でも使ってほしい」と自らの罪滅ぼしの発言をしたという話を聞いてぞっとしたことを覚えています。


切実な需要がある時に、周囲の有形無形の様々な圧力が、人の死を決められる余地を残すことは避けなければならないと思います。
とりわけ、脳死について未知数の多い子どもに関しては、慎重であるべきです。

******************************
日本弁護士連合会の意見

当連合会は、臓器移植法制定前から、脳死臓器移植について強い関心をもち、継続的に意見を明らかにしてまいりました。それは、申し上げるまでもなく、本法が、人の生死という人権の根幹に関わる非常に重大な法律だからです。

確かに現在の医療では、脳死臓器移植によってしか救命が困難な疾患を有する患者さんにとって、脳死臓器移植は、まさに「命の綱」でありましょう。現行法が、その救命を不当に阻止しているのであれば、それは、重大な問題であります。この点現行法では、15才未満の子どもからの脳死段階での臓器摘出が不可能ですから、現在、この部分が主たる問題となっていることは、首肯できるところです。

ただし、仮に、15歳未満の子どもに関し、法改正によって脳死臓器移植が可能となったとしても、脳死臓器移植を待つ全てのお子さんが、直ちに移植を受けることができるようにはならず、その一部のお子さんが移植を受けることができるに過ぎません。かかる重篤な疾患をもつ患者さんを広く救命する為に真に求められることは、脳死臓器移植に依存しない治療法の確立であることは、議論の前提として忘れてはならないことです。
他方で、当連合会が最も懸念しておりますことは、ドナーとなる可能性のある全ての方の人権です。今回の改正の焦点は15才未満の子どもでありますから、とりわけ、15才未満の子どもの人権が侵害されることがないのか、という点について重大な関心を有しており、また、その視点から、今回の改正に関する動きについて強い懸念を抱いているところです。

懸念する点の第1は、子どもの自己決定がないがしろにされるという点です。
現行法では、脳死を死と判断し脳死段階での臓器摘出を許容するかどうかについて各自が自分自身で決定するという定めになっております。しかし、今回新たに提出されたD案は、子どもについては、家族の同意のみで脳死段階での臓器摘出を認めるのであり、かつ、その場合に、当該子どもは死んだものとするというのです。
D案が、子ども自身の自己決定を完全に否定するものであることは明らかであり、A案にも同様の問題が存します。

第2に、子どもの脳死判定基準に疑義があるという点です。
 先の衆議院参考人質疑での小児科医師の発言からも明かなとおり、小児科医の約7割が子どもの脳死判定が可能かどうかわからないと回答しています。かかる脳死判定基準のままで、子どもの脳死判定を実施し臓器移植を行なうことは、脳死ではない子どもから臓器を摘出してしまう可能性を残したままの強行突破と言わざるを得ません。
第3に、とりわけ、子どもについては、脳死と診断された後も長期に生存する例が多数確認されているという点です。
現在、ほとんど全ての方々が、脳死というのは、脳死と診断されたのち数日で心臓も停止するものだと理解しています。しかし、その認識は誤っています。子どもをドナーにするかどうかの改正にあたっては、少なくとも、脳死の判断がされた後もさらに数か月以上生存する可能性のある子どもから臓器の摘出を認めてよいのかという形で真摯な議論を行ない、社会的合意が得ることが不可欠です。ところが、現在、このような正しい情報が周知されておらず、議論は全くなされておりません。

第4に、我が国の小児救急医療が非常に貧困・脆弱であるという点です。
子どもが脳死状態となる原因のほとんどは、不慮の事故であります。ところが、我が国の救急医療、特に、小児救急医療は極めて脆弱です。たとえば、重篤な状態となった子どもを治療するには小児集中治療室が必要ですが、これが、我が国には、18カ所、約120床しかありません。しかも、この集中治療室は、癌や白血病の子どもだけを対象とし、事故によって受傷した子どもを受け入れていません。そのため、1才から4才の子どもの死亡率は、主要13カ国中ワースト3位となっています。かかる現状から、本年3月、厚生労働省は、「重篤な小児患者に対する救急体制の検討会」を開き、現在、小児救急医療の改善への検討を始めたのです。このように検討を開始したばかりの時期に、適切な治療が実施されていれば救命できる子どもを、医療体制が不十分であるが為に脳死状態にし、その臓器を摘出するという法を定めることは、非倫理的との非難を免れ得ないと思います。

 第5に、虐待された子どもを脳死臓器移植の対象とする可能性が存する点です。
 脳死状態になった子どものなかには、親などからの虐待を原因とする場合が相当程度含まれていることが指摘されています。虐待した親の同意で、その子どもを脳死臓器移植の対象とする非倫理性は、申し上げるまでもありません。虐待の有無の判断を、現場の医療者が限られた時間で実施することは、非常に困難であることが明らかになっていますし、これに倫理委員会を関与させるだけで直ちに可能になるとは思われません。

当連合会は、脳死臓器移植法の改正の是非を検討するには、脳死臓器移植をめぐる正しい医学的知見と小児医療の現状を明らかにして、社会全体で議論を尽くすことが不可欠であると考えています。特に、自分自身で権利を擁護できない子どもを対象とするか否かについては、より慎重に検討しなくてはならないと思います。
重篤な疾患に悩む子どもとともに、ドナーになる可能性のあるすべての子どもの為に、法律がどうあるべきかについて、慎重な審議をお願いいたします。

         

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4 コメント

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人の死亡率は100% (Bird)
2009-05-31 21:10:54
私は、臓器移植そのものに反対です。

まず、人は(というか、生きとし生けるものは)、必ず死ななければなりません。命あるものの死亡率は100%です。

次に、臓器を提供する人は、その臓器を提供することによって死を迎えます。脳死は生、即ちまだ生きていると考えます。

そして、臓器の提供を受けなければ助からない命は、助からなくていいと考えます。他者を殺してまで自分が生きようとする行為は、人間のエゴそのものだと思います。

そして最初に戻ります。生きとし生けるものの死亡率は100%です。遅かれ早かれ、いつか必ず死ななければなりません。

いつ死ぬかはその人の運命です。その運命を受け入れるならば、他者を殺してまで自分が生きようとは思わないはずです。

生きとし生けるものの死亡率は100%です。遅かれ早かれ、いつか必ず死ななければならない。この生きとし生けるものの背負っている運命を素直に受け入れたならば、臓器の提供、臓器の移植という考えは起こってこないと思います。

臓器移植と言う考え方は、人間独自のエゴによって、生きとし生けるものの運命に逆らっている・・・そうして一時的に逆らってはみても、やはり臓器の提供を受けた人は、いつかは死ななければなりません。それが10年後か、30年後か、50年後か、100年後かはわかりませんが、必ず死ななければなりません。

よって、臓器の移植などということは、人間(というか、生きとし生けるもの)にとって無意味であり、それは人間独自の、他者を殺してまで自分が生きようとするエゴイズムそのものだと考えます。

少々宗教的ですが、私の考えは以上のようなものです。杉浦先生のお考えをお聞かせいただければ幸いです。
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それが「神の摂理」かと思います ()
2009-06-02 09:08:22
Birdさん、コメントありがとうございます。

私の考えは、記事の中にも少し触れたのですが、人の命を科学で引き延ばすということについて、それ自体は「自然の摂理に反する」「神を冒涜する」とかという意味合いの限界を超えたものかどうかは、よくわかりません。
科学が進んでいない時に、科学の限界を超えた事象をそう呼んでいたに過ぎないのではないか、という気がします。
ちょうど、「あのブドウは酸っぱいから」というイソップ童話のようなものではないかと。

気になるのは、そのことによって他人の権利、特にその生命身体に関わる権利が侵害される恐れのある時です。

「脳死」という人の判断で一方の人の命が完全に失われるということを認めた時に、この判断に予断がはいらないか、何らかの力が加わらないか、ということを懸念します。

強者弱者の存在が厳然としてあって、そのことで社会が平等でないことも垣間見える中で、人の命は絶対にその影響の及ばないところにおきたいということです。

自分の子どもが、臓器移植ができれば助かる、という状況にあるときに、移植を切望するかも知れません。
でも、そのことをあきらめる不利益と、社会全体の人の命、特に、弱者の命の終期が左右される可能性があるとしたら、それは、やはり手をつけてはいけない部分ではないか、それこそがおかしては行けない「神の摂理」ではないか、と思います。

それよりも、救えば救える子どもの命を日本は救いきっていないということに目を向けるべきだと思います。
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科学(医学)の行き過ぎ? (Bird)
2009-06-02 21:11:03
杉浦先生
私のコメントへのレスをありがとうございます。

私は、命あるすべての存在の、その命の価値は等しく認められなければならないと思っています。

だが、現実には、先生のおっしゃる「強者VS弱者」の論理があり、生命の価値は等しいとは必ずしも言えませんね。

医学が発達していない昔は(ほんの50~60年ほど前までは)、他人の臓器を自分に移植するということは考えられなかったことです。

その頃は、人は、心臓が停止し、呼吸が停止し、瞳孔が開けば「ご臨終」とされていました。みながそれで納得していました。そのうえで、万が一の(生き返る)ことを考えて、荼毘に付する前の1晩だけは、お通夜として、ご遺体をそのまま安置しておいたのでしょう。

それが、今や、延命治療、臓器移植などの科学(医学)が発達したために、人が「自然な状態」で死を迎えられなくなっていると思うのです。それは、科学(医学)の生命の存在に対する冒涜ではないかと思うのです・・・冒涜とまではいかなくても、傲慢だと思うのです。

私の大学時代の恩師が亡くなったとき、その最後の言葉は、「みんな、ありがとう。もう(自分の死は)自然に任せるよ」でした。
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再生医療の進歩に期待 (ken)
2009-06-06 11:35:59
 医学によって長生きできるようになったことはよいことだと思います。新型インフルエンザが騒がれていますが、以前だったらすでに大量の死者が出ていたかもしれません。

 人が死ぬのは一瞬ではなくてある程度時間がかかります。だから、ご臨終になっても、普通は丸一日おいて、全体が死んでから荼毘に付します。心臓が止まっても、体のほとんどの細胞は生きています。ただ、もう生き続ける見込みがないというのはどこかで判断する必要はあります。臓器移植のために早めにその判断をする是非はよくわかりません。
 脳死というのは本当に回復不可能なのか、まだ100%信じていいのか私にはわかりません。

 長く生きたり快復する可能性すらあるという小児の脳死というのは、臓器移植の脳死とは基準が異なると説明されていますが、そういう二重基準はわかりにくいです。

 万能細胞が見つかり、原理的には臓器の再生が可能とのこと。すでに一部では成功しており、心臓移植が必要な患者がそれで助かったという例もあります。
 これなら脳死の問題を避けられます。人的資源、資金を再生医療の研究の方に振り向ければそう遠くない将来、移植が不要になるということも考えられるのではないでしょうか。
 脳死の基準を緩めたとしても、必要な患者全員に臓器が行き渡るわけではありません。助かるのは一部の人だけです。
 景気対策の補正予算といって、必要性のよくわからない資金がばらまかれていますが、再生医療研究に思いきった研究費をかければ、開発が進むのではないでしょうか。
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