1960年代生まれの音楽メモ。

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ダンケルク。

2017-09-16 16:42:58 | 映画
映画「ダンケルク(Dunkirk)」を観た。

ダンケルク (2017年の映画)
ダンケルクの戦い
Dunkirk

自分個人の感想では、キーワードは、 現実/生活のなかにおける、個人の勇気 だった。前に進む勇気、撤退する勇気、受け入れる勇気。

言葉としては、日本語字幕では、たしか1回だけ、「あいつは腰抜けか?」というセリフが出てくる。ヨーロッパ大陸のフランスから、海を越えて母国へ撤退しようとしているイギリス軍の兵隊たち、撤退を支援するために国から飛ぶ空軍の戦闘機のパイロット、兵士を迎えに戦場へ行く艦船に乗り組んだ兵士ではない女性男性たち、艦船が足りなくて徴用されてフランスへ向かう民間船の乗組員たちが、それぞれ各々の持ち場ポジション立ち位置立場でする瞬間瞬間の判断、ケガや命を奪われるのは当然恐い、そのなかで己が役割(?)、自分に与えられた(?)使命(?)仕事(?)を遂行するために、前に進むか、引き返すか、自身の命安全を維持したまま出来るかもしれないけどダメかもしれないことに直面したときの個々の判断/姿様が描かれる。ハナから完全に不可能な(つまり無謀な)行為に及ぶ話ではない(たとえば軍が撤退作戦を遂行するのは進軍が不可能になったからだろう。その時点で進軍をする/続けるのは無謀であると(政府が?国民が?)判断したからだろう)。こうすることが今あなたの役割である・生活である・仕事であると置かれたそれぞれの立場において、行けるか行けないか、個人個人の判断のシーン、局面が描かれる。

テルモピュライの戦いに擬えるシーンがあるラストサムライや、やはり戦場の兵士を救出に行く物語のプライベートライアン、怪物の出現にあたって対応する人々を描いたシンゴジラと通じるところがある映画。人間を描くなかで、描いている部分、描こうとするものが同じ映画。小説では、たとえば永遠の0 がある。
自分の生活のなかで、文字や情報で得られる部分にまで広げた範囲でではなくて、自分が実際に見聞き出来る範囲の実際の生活のなかで、自分の現実の行動(範囲)のなかで、瞬間瞬間に物事をどう判断し、どう向かうか、というところを、第三者(映画の観客)が冷静に観ている映画。命がかかっている「舞台設定」だと、その判断が際立ちますよね。


上に挙げたすべての映画に共通するのは、「観た人の評価が分かれる」 ところですね。胸にきたという評価と、どこが見どころなのか意味がわからないという評価と。
自分の思うところでは、たぶん、日々の自分の現実の実際の個々の行動について、「(人間として)恥ずかしくないのか?」と問われたときに、ドキッとする ないしは ふと自問してみる人は高い評価を付け、その問いからは逃げたい ないしは かわしたい または その部分はしかと(無視)していたいという人は低い評価を付ける、というところだと感じる。「『恥ずかしくないか?』『勇気?』何それ?」という人は、「嫌い」だろう。またあるいは、あの場面に居るのがもし自分だったら、という想像力を働かせないタイプの人、日常生活のなかで、(他)人の立場に立ってものを考えてみることを全然しない人は、まったく「ピンと来ない」だろう。吹き出しのなかに「?」という感じになるだろう。
ダンケルク、楽しいか楽しくないかといわれたら、楽しいわけじゃない。面白いか面白くないかといわれたら、面白いわけでもない。だからたとえば、今日は楽しい気分になってリフレッシュしたい、という状況の人(気分の時)にはお薦めしない。でも、映画として評価するし、見ごたえはあった。機会をみて観てみたら?とは薦められる。人間の感情や価値感や世界観を表現する1つの映画として。
ダンケルク 評価 - Google 検索


最後に。

戦争は、してはいけない。たとえば日常生活でもわかるように、何かをしてきて、それを 「やめてくれ」 と言ってもやめない人は現実には居る。国と国の話でもそうで、世の中、「話せばわかる」人や国ばかりではない。だから、準備は必要(※)。でも、国と国が戦争することになったら、戦場へ行くことになる生きている個々の生身の人間たちは、またそれだけでなく、「敵」は「戦線」を飛び越えて相手の国をちょくせつ爆撃攻撃しにかかるかもしれないから、戦争をしている国のすべての人が、あの状況に置かれるのだ。それは、嫌だ。

もうひとつ。

映画では、あの困難から生還した人に、「HOME」の人たちは暖かく迎え入れた。「迎:あなたはよくやった」「兵:生きて帰って来ただけだ」「迎:充分だ(It's enough)」といって毛布を差し出す人、食べ物を手渡す人、笑顔でビールを差し出す人。あのシーンはよかったなあ。あのシーンは、ちょっと、涙が出た。
たとえばかつてのベトナム戦争では、アメリカの世論が戦争を始めたときは「正義の戦争」だったのが途中から「でっちあげた戦争」に変わっていたので、帰還兵に「人殺し」呼ばわりを投げつける人も居て、それが理由で精神を病んだ人もいたそうですよね。国の振る舞いとしては、でっちあげてウソをついて戦争をするなんて「悪」だ。「極悪」だ。でも、愛する国が起こす戦争が「正しい」ものと信じて戦場に行くことを決めた者に、あるいは国や社会の全体の動きのなかで戦場に行くことになっ(てしまっ)た個々の生身の人間に、国が起こした戦争の正当性の是非を、それも途中から変わった世論の声を投げつけるなんて酷い。そのときのアメリカの世論は、彼らが出発したときには、「正しい戦争」として送り出したんじゃないのか。じゃあ、暖かく迎えないと。政府のことは、開戦を決めた判断は、判断をした人のことは、途中からでもあとからでもいくらでも極悪だ非道だと非難したとしても。

※武力は必要。意思表示が通じなかったら、使うしかない。でないと、一方的に搾取される(自分は得るものがないのに、相手は得るものがある状態)。「人間の尊厳」とは、「搾取を拒否すること」だ。「尊厳を守る」とは、具体的な何か行為そのものを1つ1つ「いい」とか「悪い」とか決めていくことではない。物理的には同じ行為行動でも、関わる人が受け入れていれば、それは悪くない。悪くないどころか、喜びであったりする。誰かが搾取されていることが、「悪い」ことだ。何かを提供して何かを得る。関わる者が、その交換に同意していることが、「悪くない」ことだ(※※)。
※※人と人のやり取りは、いちばんベースの部分では、ギブ&テイクだ。誰かのいいものを、同意なく誰かが手に入れる、誰かの価値あるものを、同意なく誰かが勝手に味わってしまう食べてしまうことは、「悪」だ。何か(※※※)を手に入れたい、欲しい、味わいたい、食べたいと思ったら、コミュニケーションを図って、それを持っている者の同意を得なければならない。
※※※何か:注がれる愛情、払われる敬意、向けられる関心、優越、体、物、売り上げ、お金、etc、「人が欲するもの」全般。所有物も人の気持ちも含まれる。物理的なものか精神的なものかは問わない。全て。



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