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2007-02-27 | IT

「集合知」の限界

昨今の「編集合戦」報道について、チームメンバーに聞いた
石川達夫
飾り 石川 達夫(2007-02-27 11:50)

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 伽藍(がらん)の崩壊とバザールの盛況、つまり一部の専権による一方的な情報提示から、多数知による情報集積と選別への移行は、情報化社会である現代の一大特徴です。
 その象徴ともいえるものはインターネット上の百科事典であるWikipedia(ウィキペディア)でしょう。ネット上のウィキペディアを執筆・編集をするのは一般の人々、つまりあなたを含むわたしたちすべてなのです。

 しかし、そうした集合知は、最近報じられているウィキペディア内の「編集合戦」を考えたとき、わたしたちが望む、満足のいく知となっているのでしょうか。 

 そこでウィキペディアの実情を知るため、ウィキペディア日本語版info-jaチームの一員である岸野貴光氏に、メーリングリストを使ってインタビューをしてみました。

* * * * * *

――ウィキペディアは集合知の殿堂として広く認知されながら、そのユニークな特性ゆえに、ともすると自分自身の「正論」を書き込もうとするユーザー同士の編集合戦のような様相を呈してしまうのは避けられないようにも思います。あまりに編集合戦が激しいと、結局はその項目は載せられないことになるのもまた残念なことです。何か打開策はあるのでしょうか?

 編集合戦や論争を解決するテクニックについて、「ひとつの帰結:敵のために書く」の2.5などいくつかの例示はありますが、決定的なものはありません。あればこんなかっこわるいことになっていないだろうなあと思います。そもそも百科事典とは何であるか、という認識が共通していない以上、落としどころを見出すのは至難といえるでしょう。

――百科事典とは何かの共通認識がない……。なんだか致命的ですね。なかには人形遣いよろしく、複数のアカウントを取ってウィキペディア上で情報操作しようとする人もいると聞いています。こうした手法を見抜くことも大変でしょうし、膨大なエントリーを監視するのも大変です。実際ある項目はそれら人形遣いのユーザーの手によって、まんまと都合よく編集されているのかもしれない、という危惧があります。現実はどうですか?

岸野貴光氏(本人提供)
 実際その通りだと思います。「記事の内容が100%正しいかどうか」わからないという新聞記事も出ましたが、「100%間違っているとは限らない」というのが実状ではないか、と思います。

 具体例をあげれば、日本古代史は特に記事破壊が進んでいる分野だと聞いたことがあります。ほかにも、いわゆる「アンチ」がいる芸能人、野党の著名な政治家、中国・韓国に関する項目、このあたりは好餌になっているようです。何らかの対処をすべきとも思いますが、時間とエネルギーと専門知識を併せ持ったウィキペディアンはそうそういないようです。

――そのことと関連しているかもしれませんが、政治や宗教といった項目はもとより、最近では、教育による歴史認識の違いや、疑似科学など、そもそも論争になりやすいエントリーをウィキペディアに載せる場合、すべての意見を載せるわけにはいかず、結局は当たり障りのない一般論――わざわざウィキペディアに来るまでもなく、多くの人がすでに知っていること――に終始してしまうことも多いように思います。こうした点で解決策はありますか?

 解決策はウィキペディアができたときにすでにありますが、機能していない、というのが実状だろうと思います。検証可能性がそれにあたります。

 検証可能性によって本来、典拠は厳しく制限されています。ところが、この検証可能性は骨抜きになりつつあります。これを厳密に満たす書籍である専門書や論文雑誌まで読んで投稿しようという人は限られています。たとえば、秀逸な記事の選考にかけられている項目「第2次世界大戦」にあげられている参考文献のうち、文献として問題ナシといえるのは、油井大三郎、古井元夫、および堀口松城の著書のみです。けれども結果的に、印刷物ならなんでもよいという方向に傾きつつあります。また、厳格に検証可能性を適用して正確さを求めるよりも、ウィキペディア内で民主的な運営がなされることのほうに衆目が集まっているように感じます。民主的な運営は、誰かがどこかで指摘していましたが、ともすれば「集団愚」になりかねないなあと思っています。

 Larry Sanger(ラリー・サンガー、ウィキペディア創設者のひとり)がCitizendiumという“派生プロジェクト”を始めています。博士号取得者のみを書き手として認定する点、編集を制限している点などで、ウィキペディアとは大きく異なります。この手法には賛否あると思いますが、ともかくも対抗プロジェクトが出てきた、その1点だけでも評価できると思います。もっとも、Citizendiumと「集団愚」のどちらが優れているかについて、私としては判断を留保したいと思うのです。いうなればこれは、おでんの厚揚げと湯豆腐のどっちが美味いかという問題のように思います。共通点はありながらも異質のもの、というのが私の考えです。

――集団愚を取るか博士号取得者のみの執筆と編集の制限を取るか。悩まし過ぎます。その一方で、書き手がいないために抜けているエントリーや、書き手が十分な情報を持ち合わせていないために書きかけになっているエントリーが少なからずあり、商業ベースで編集され、完成品としてリリースされる他の百科事典と比べてどうしても見劣りしてしまう部分がでてしまうことは避けられないようにも思います。素人的に考えれば、何かベースに中立的で権威ある百科事典のデータを敷いて、その上にさらに積み重ねていく方がいいのではとも思うのですが、どうでしょうか?

 面白いアイデアだと思います。そして、そういうプロジェクトはウィキペディア内でやる必要はかならずしもないと思います。ウィキペディアに競争相手がいないのは、問題を深刻にしているのではないかと考えます。同様のプロジェクトはもっとたくさんあってもよさそうなものですが、ほとんど出てこないところから察するに、価値の高い知や情報はクローズドにする、タダで提供するのはごく一部の奇特な人に限られている、そういった人間社会総体の知に対する姿勢が問われているような印象を受けます。

――人間社会総体の知に対する姿勢が問われていると。資本主義社会の宿命を感じます。ところでウィキペディアが財政難のために閉鎖される恐れがあると聞いて心配しています。今でもそうなのですか? もしそうであれば、わたしたちにできることは何かありますか?

 ときどき重くなったり、ウィキペディア内での検索がGoogleになったりすることがありますが、そうした多少の機能制限によってかなりの節約が可能で、そういう方法によって調節しているようです。ウォッチリストを1秒止めるだけで相当な金額が節約できるとか聞いたことがあります。3カ月で、という話がどこかで出たらしいですが、あれは当座の運転資金残高としてそれだけの額があるということで、この数字は常に増減しています。あえて具体的な数字を出すところから推測するに、比較的好調な財政状況なのではないかと思っています。

 いずれにせよ、十分な寄付が集まれば解決できる問題、泥沼論争による信頼度低下にくらべればどうということのない問題と認識しています。

――そうですよね。最近報じられている編集合戦の話はひど過ぎます。最後に、ウィキペディアを参照したり、引用したり、編集したりするユーザーの皆さんに対して、管理者のおひとりとしてひと言、お願いします。

 まずレポートや作文・卒業論文などで丸写しする方が少なからずいらっしゃるようですが、検索してトップに近いところに出てくるものをコピー&ペーストするのは、極めて危険なことです。大学教員の方と話す機会が幾度かありましたが、バレてます。先方はコピー元を発見するプロフェッショナルであることを頭の隅にでも入れておくことをお勧めします。

 編集・投稿するにあたっては、みなさんの中立性が維持できる項目に限ることをおすすめします。私自身、専門分野から飛び出したこともありますが、大抵ろくな目に遭っていません。誤りや偏った主張と思われるものを見つけたら、まずノートで問題提起をするところから始めてみる方がいいかと思います。さらに、自分の主張が100%通るケースは稀である──知識量に圧倒的な差があれば不可能ではないと思いますが──ことを念頭に入れておくのがよいと思います。

 最後に、ウィキペディア以外の百科事典、もしくは知を結集するプロジェクトが出現することを、わりと本気で期待しています。私はウィキペディアが改革前のローマ・カトリックたることを望んでいません。プロテスタントの登場は、短期的にはともかく、長い目で見ればカトリックにとっても人間社会にとっても、きわめて有意義であると考えます。

* * * * * *

 「事務所があるわけでもなく、みんなが自分の部屋で、チョコミントをなめながらキーボードを叩いているのみ」と説明する岸野氏は、「(自分は)悲観論寄り」だといいます。「Wikipedia管理者やinfo-jaチーム内の統一見解というものはありません」とも、お断りになっていました。実際、今回のやり取りをメーリングリストで目にしているウィキペディアのチームメンバーにとって、岸野氏のこれらコメントはウィキペディアの見解の範囲内のようです。

 それにしても、知の結集が、じつは資本主義社会そのものによって妨げられているということは、昨今の著作権問題などとともに、編集合戦以上に頭の痛い問題です。集合知の次に来るものとは一体何なのでしょうか。答えが待たれます。


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2 コメント

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よくいる独善的強権的(修正)削除自警管理者 (包摂主義者)
2009-10-22 10:00:45
http://ja.wikipedia.org/wiki/利用者:S_kitahashi/修正削除主義
この人

http://meta.wikimedia.org/wiki/包摂主義
における反論

修正削除主義なるものへの批判

一部の利用者は修正削除主義[2]なるものを標榜しているが、本質的にはなんら削除主義と変わることはない。
『包摂主義への批判 』なるものについての批判
>削除主義の「継承的側面」の強権的な立場
実際の運用においては、このような[3]
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:削除依頼/佐々木健介
独善的な理由を吐き捨てて管理者独断で「対処」するのみであり、その後、有志によって二年の歳月を経て復帰依頼され復帰させられるという、その独善的思想主張、行為により、コミュニティ、プロジェクトへの疲弊を発生させているだけ。 「集団愚」[4]という単純多数決の結果を回避するのは、コミュニティの少数意見を重視しながらの議論の結果のコンセンサスを得るのが大前提。修正だろうが削除主義だろうが、コミュニティの議論を軽視し、その思想の管理者が独善で対処してそれを良しとすることからもこの主義主張の異常さが垣間見える。
>記事を作成するのみで十分な記述がなく、衛星記事として作られたものでもないとなれば、これは屁のこき逃げに似ている。記事を立てる以上、執筆者は記事に対して、執筆能力に応じて一定の責任をもつべきである。すかし屁を公衆の面前で放ってしまったら、その場から立ち去らずに、自らが震源地であることを受容すべきである。同様に、立てた記事に対し、他人任せの姿勢を容認していては、スタブが林立するのみならず、当該ウィキペディアンの成長も望めない。
これはプロジェクトの不特定多数による非同期的な編集というWPの原則、理念に反するもの。だいたい、記事の存続削除基準と、それぞれの多様な利用者の参加姿勢、あるいは各利用者への対処、あるいは各執筆者の成長は別次元の話であり、そんなものを混同して論じている時点で論外。
返信する
よくいる独善的強権的(修正)削除自警管理者の主張 (包摂主義者の反論)
2009-10-22 10:05:40
http://ja.wikipedia.org/wiki/利用者:S_kitahashi/修正削除主義
この人

http://meta.wikimedia.org/wiki/包摂主義
より
 
修正削除主義なるものへの批判

一部の利用者は修正削除主義[2]なるものを標榜しているが、本質的にはなんら削除主義と変わることはない。

『包摂主義への批判 』なるものについての批判

>削除主義の「継承的側面」の強権的な立場

実際の運用においては、このような[3]
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:削除依頼/佐々木健介

独善的な理由を吐き捨てて管理者独断で「対処」するのみであり、その後、有志によって二年の歳月を経て復帰依頼され復帰させられるという、その独善的思想主張、行為により、コミュニティ、プロジェクトへの疲弊を発生させているだけ。 「集団愚」[4]という単純多数決の結果を回避するのは、コミュニティの少数意見を重視しながらの議論の結果のコンセンサスを得るのが大前提。修正だろうが削除主義だろうが、コミュニティの議論を軽視し、その思想の管理者が独善で対処してそれを良しとすることからもこの主義主張の異常さが垣間見える。

>記事を作成するのみで十分な記述がなく、衛星記事として作られたものでもないとなれば、これは屁のこき逃げに似ている。記事を立てる以上、執筆者は記事に対して、執筆能力に応じて一定の責任をもつべきである。すかし屁を公衆の面前で放ってしまったら、その場から立ち去らずに、自らが震源地であることを受容すべきである。同様に、立てた記事に対し、他人任せの姿勢を容認していては、スタブが林立するのみならず、当該ウィキペディアンの成長も望めない。

これはプロジェクトの不特定多数による非同期的な編集というWPの原則、理念に反するもの。だいたい、記事の存続削除基準と、それぞれの多様な利用者の参加姿勢、あるいは各利用者への対処、あるいは各執筆者の成長は別次元の話であり、そんなものを混同して論じている時点で論外。
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