大物忌は 斎王の代わりに 御饌を捧げたり、祭事や神事など、もっとも重要な役割を果たしていたようです。
大物忌の制度ができたは、朱鳥(あかみとり)という年号の時に起こった事件がきっかけです。日本書紀によれば、一年だけの年号として朱鳥が表記されています。
その年(686年)は 人民の為に徳政令(借金免除)が出された年でありますが、9月9日、天武天皇が崩御(亡くなる)され、大津皇子が謀反の疑いで処刑されるという事件が起こりました。
そのとき 斎王だったのは、大津皇子(24才)の姉の大来皇女(26才)でした。大来皇女(おおくのひめみこ)は天武天皇即位の年に、13歳で斎王になりました。
天皇の葬式のあと、その姉に大津皇子は会いにきたのです。
万葉集に 大来皇女の歌があります。
我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし
(私の いとしい弟が 大和へ帰って行くのを 見送りながら 夜が更け 暁まで 夜露で体は濡れても、私は、まだ立ち尽くしていた。)
伊勢から大和に帰った弟は、10月3日に、謀反の疑いで処刑され、駆けつけた妻も遺体の傍で殉死した。
処刑したのは、息子の草壁皇子を即位させたかった大来皇女の叔母の鵜野讃良皇女(うのささらひめみこ)といわれている。そのため 大来皇女は 磯の宮の斎宮から、新しくできる予定の伊勢神宮(第一回遷宮)に 斎王として、移ることを拒否し、大和に帰った。いっぽう、鵜野讃良皇女は、草壁皇子が亡くなり 自らが即位し持統天皇ことになった。
神宮としては、斎王がいないと、機能しないので、、童女の大物忌が 斎王の代行をしたのが始まりで、大物忌は、その後も斎王の代わりに、日々の御饌から、重要な神事まで その神への奉仕をまかされ、代々度会氏の娘がその役目を継承していった。天皇の代理が斎王なら、斎王の代行の大物忌は、朝廷にとって、非常に重要な存在であった。
後の時代の859年、内宮へ、御饌をささげに行く道中、大物忌が溺れたということは 一人の娘が溺死したのとは違い、朝廷にとって、大へんなことであった。
だからお堂が建てられ、そこに、妙見地蔵が作られ安置された。
今の、妙見地蔵は1301年に再び彫られたものですが、戦前の昭和に国宝に指定され、現在は、国の重要文化財
として、東京読売ランドにある。
東京よみうりらんど?