長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

福島正則 ~デジタル思考のサディスト~

2013年07月31日 | 戦国逸話
福島正則。


見るからに豪傑、という感じ。

豊臣秀吉の数少ない股肱の臣で、加藤清正と並び称されることが多く、清正が関羽で正則が張飛に例えられることも多い。
とにかく猛将で知られております。なんせ、13歳くらいで人殺しをしてしまい、一旦逃げます。その後豊臣秀吉に召抱えられて、賤ヶ岳の七本鑓の筆頭となってから数々の戦で活躍し、豊臣家思いながらも石田三成と折り合いが悪く、三成と結託していた淀殿と対立する秀吉の正妻おね(北政所)派だったことから、関ヶ原の戦いでは東軍についてしまいます。

上杉討伐で小山まで進出していた家康軍でしたが、石田三成の挙兵で率いていた軍の内部に秀吉子飼い部隊が多かったことから動揺します。
その動揺を鎮め、一挙に徳川陣営に皆が走るきっかけを作ったのが、この正則です。

「秀頼公が軍勢を集めろと言ったらしいが、まだ八歳。そんなことを自分で考え付くだろうか。これは、石田三成の仕業に違いない。奴が天下が欲しいから秀頼公を唆したのだ。皆がどう思おうと、儂は家康公の味方として奴らを中罰してくれるわぁ!」

と、啖呵をきったことから一斉に皆が「そうだ、そうだ。」となって、三成と戦うことになります。

で、関ヶ原の前哨戦で岐阜城を攻略します。
このとき、岐阜城主は織田信長の直系の孫、秀信。
清須会議で秀吉が擁立した三法師がこの人です。

ちなみに、その昔、私達が歴史の講演会を聞きにいき、本能寺の変のあたりの話が主題だったのですが、最後の質問時間で、やおら老人が立ち上がり「三法師はどういう名前だったんですか?この三法師はその後どうなったんですか?」と、講演の本筋と全く違う質問をしつこく繰り返して、我々が呆れたことがありました。そして、我々の間では長く伝説の質問として語り継がれているのです。

ああいう講演会って、定年後の人がほぼ9割を占めるが、なぜ、いつもいつも筋違いの質問をしたり、自分の知識の披露がしたいだけで散々会場に居る皆が知っていることを、さぞ自分だけが知っているかのように誇らしげに語った挙句、それでは質問になってないことに最後に気づいて「で、どうでしょう?」で締めて講師を困らせてばかりいるのだろうね、と、私の城仲間達と話しております。そういう老人にはならないようにしよう、と、皆で誓っております。

いや、そんなことはどうでもいいのです。


で、この正則。
三成が嫌いすぎて、その感情に従ってしまい、豊臣家にとって本当に危険な存在に手を貸してしまうことをやってしまったのです。

そして関ヶ原の戦いでは、強情すぎておかしくなります。

○敵に後ろを見せず
 関ヶ原の戦いで、西軍(三成方)がことごとく敗れて、皆伊吹山中に逃げ込んだにもかかわらず、島津義弘だけは勝ちに誇る東軍(家康方)数万のど真ん中を突破しようとして、無二無三に突入してきた。このとき、東軍の先手はなんとなく色めき立ったが、正則は「儂一人でも島津と戦う!」と言い出して馬を進ませようとしたので、周りの家来達が必死に押し留めた。
 正則は余計に猛り、
「お前らは知らんのか!侍の墓は戦場にあるんだ!」と駆け出そうとするので、
周りの家来は
「私達は臆病なのでは無いのです。攻めるときは攻め、引くときは引く。進退応変が良い武将です。これほど勝った戦いで、死を覚悟して突入してきた死兵相手に命を捨てても意味が無いではないですか!」
と、無理やり正則を退かせた。

「くっそーーーーーーーー!」
と歯軋りしながら引き戻されたが、それでも

「敵に後ろを見せられるか!」

と、叫んで、馬上で体をねじって後ろ向きに座って退きのいた。

まぁ、彼なりのプライドと言うか美学で敵に後ろを見せない、というのがあったのでしょう。

三成が嫌いだから反三成側に付いた。
敵に後ろを見せるのが嫌だから馬に反対側に座った。 

同じ思考回路上にあると言ってよいでしょう。
0か100か。
きわめてデジタルな思考の持ち主です。

関ヶ原で活躍して調子に乗ったのか、もともとの粗暴さに拍車がかかります。

○報恩の茶坊主
 正則の近習の某が、ちょっとしたミスをしたので、広島城の櫓に押し込めて食べ物を与えず餓死させようとした。
 しかし、この近習に昔恩義を受けた茶坊主は、恩人がささいなことでこんな酷い目に遭っていることに心を痛め、こっそりと焼き飯を持っていった。
 近習は
「私は罪があるからこうなったのです。あなたの好意は嬉しいが、こんなことをすると殿に聞かれたら、あなたも無事ではすみませんよ。あなたの方が罪がおもくなってしまう。飯を食べたところで命が助かるわけでも無し。早く帰れ。」
と、言ったが、茶坊主は
「私は先に殺されるところを、あなたに助けられたのです。恩を受けて返さないのは人ではない。弱気になって私の志を無にされるのは残念です。」
と、言ったので、近習は喜んで、では、と、焼き飯を食べた。

この後、茶坊主は飯を毎晩届けた。

しばらくしてから、
「そろそろ死んだか。」
と、正則が櫓にいってみると、全く顔色が変わらず衰えても居ない。

正則は
「誰がこいつに飯をやったんだ!」
と、怒ると、茶坊主がやってきて「私です。」という。

正則は、はったと睨み、
「貴様、なぜこんなことをしたぁっ!真っ二つに頭を斬ってくれるわ!」
と、斬ろうとすると、茶坊主は少しも騒がず、
「私は昔罪を得て水責めにされて殺されそうになりましたが、近習の方が申し開きをしてくださったお陰で今まで生きていました。その恩を返すため、毎晩密かに飯を運んでおりました。」
と、言う。

正則、怒った目に涙を流し、
「お前の気持ちはよくわかった。そうでなくてはいかん。近習も許そう。」
と、いって、櫓の扉を開けて罪を許し、茶坊主も大変褒められた。

とのことです。

なんか、良い話っぽくしてるんですけど、よくよく考えても見れば、ささいなことで立腹して、水責めにして殺そうとしたり、餓死させようとしたり、かなり無茶苦茶なことをやってます。頭真っ二つにしたる、とか言ってますし。
単に首を刎ねるのではなく、苦しませてから殺そうとするあたり、かなりのサディストの傾向があります。

あらくれ気質に時代が拍車をかけてしまった、という感じです。
さしずめ、今ならブラック企業でブラック度がどんどん増していく経営者みたいなもんです。

でも、酷い目にあわせておきながら、突然の涙。
0か100か。
ここでもデジタル正則の面目躍如と言ったところか。

まぁ、往々にして、こういう人は、一面で親分肌で信奉者も居るわけでして、こんなエピソードもあります。

○江戸へ訴えた百姓
 正則の部下の領地で課税が重い、と、広島の百姓六人が江戸へ来て正則に直訴した。
 正則は之を聞いて、台所役人に「遠くからわざわざやってきたのだ。ご馳走してやれ。」という。
 百姓達は大喜びしたが、部下は固唾を飲んで見守っていた。
 4~5日過ぎた頃、百姓を白洲に呼び出して、全員の首を刎ねた。
 正則が言うには、
 「たかが銀500目だか600目のことで、ワシのために妻子を捨てて従っている部下どもへ迷惑を掛けようなど、ありえん。むかつく百姓共だわ。」
と、言ったので、部下は皆涙を流した。

これまた、評価に困る話が・・・。
部下からすれば感涙するような話かもしれませんが、百姓にすれば取立ての酷い武士にたまりかねて申し出たら、首を刎ねられた、という話です。
「たかが銀500目だか600目で」と、言ってますが、この金を捻出するのに、どれほど百姓が苦労するか、という点は全く考慮されていません。
部下の視点で見るのか、百姓の視点で見るのかで、大きく評価が異なる話です。

まぁ、いきなり首を刎ね、なおかつ捨て台詞。
ここまでダークだと、ある種の爽快感すら感じますが、ひきます。

こんな統治や考え方なので、結果的に徳川家に取り潰されてしまいます。
ただ、福祉負けの家臣達は、諸藩が争って召抱えて一人も残らなかった、といいますから、福島家中ならば強かろう、という評価はあったのでしょう。

ひょっとすると、
「福島家並のブラック度に耐えられる人材だから、うちでもよく働くだろう。」
と、思ったのかもしれませんが。。。

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