ヌチドゥタカラ「命こそ宝」

ヌチドゥタカラとは、沖縄の言葉で「命こそ宝」の意味。脱原発と反戦。命こそ守らなければならないもの。一番大切なもの。

野口健さん災害支援プロジェクト

2017-05-01 09:30:02 | 日記
4月30日 日曜日の 朝5時10分から 放映された テレビ 寺子屋 野口健さんが 熊本大地震の時の テントプロジェクトについて お話しされています。 ネパール地震の時も真っ先にテントプロジェクトを立ち上げて、 継続的な 募金活動もされている野口健さん。
現場のニーズの把握と行動力が素晴らしい!


災害や復興の支援には、人道憲章と人道対応に関する国際的に合意された最低基準「スフィア基準」と言うものがあるが、日本はそのレベルが大変低い、情けない状態であることが語られています。

http://www.risktaisaku.com/articles/-/2728
避難所の居住空間は最低限一人当たり3.5平方メートル。適切なプライバシーと安全が確保され、覆いがあり、天井までの高さは最低でも2メートルであることが条件とされるが、日本の避難所は1人当たりの面積も狭く、プライベートも確保できない。海外の専門家に「ソマリアの難民キャンプより状況が悪い」と言われても仕方がないと野口さんは語ります。
本当に恥ずかしい!
だからこそ、野口さんたちは緊急の場合のテントの活用を実行したのです。

27年9月に起きた関東・東北豪雨水害の時、つくば市が被災者を受け入れた避難所で、 私が友人達と1ヶ月に渡る炊き出しを実施した時、茨城県の災害支援基準が、決して良くないことを見に染みて感じました。

だからこそ、毎日あったかいお汁とおかずを1カ月間作り続けたのです。
寝具に関しては何度訴えても、硬い床に毛布だけで寝ている人がほとんどの状態は、改善されませんでした。
最低限度の暮らしというものに対する人権意識がまるでないのです。

普段の備えが大切と思い知りました。

以下は長文ですが野口さんの報告です。

2016年の熊本地震の時、僕は東京にいましたがネパール地震の支援から日本に帰って来たばかりでとても疲れていたので、熊本に行かない言い訳をしていました。地震から3日目にヒマラヤのシェルパの知人から電話があり、ネパール地震で日本人に助けてもらったから恩返しをしたいと言い、やがて5万円ほどのお金が振り込まれてきました。それはネパールでは大金です。そして、自分が立ち上げネパール地震の支援基金に沢山の日本人が協力してくれたのに自分が逃げようとしていたことを恥ずかしく思いました。益城町ではメインの避難所であるアリーナの天井が落ちてしまい車中泊の人たちが多いことを知りました。そして思い浮かんだのがテントでした。ネパール地震の時の経験で人間はゆっくりと足を伸ばして寝られないと精神的に持たないと言うことを知っていましたからテントを持ち込もうと考えました。そして僕がテント村を運営することにしました。

野口健 熊本地震の支援から考える(教育展望2016年9月掲載)
熊本支援の経緯
 私は、熊本地震で被災した益城町でテント村の支援を行いました。実は、最初からやろうと思っていたわけではありません。去年ネパールで大震災が起きた時に私はヒマラヤにいて、深刻な被害を目の当たりにしました。ネパールは標高も高いし雨も降るし、そんな中で被災者は住む家さえないのです。絶望する人たちに何ができるか。お金を出してもすぐ家ができるわけではないので、テントをつくって支援しようと「ヒマラヤ大震災基金」を立ち上げました。

 熊本で震災が起きた時、まだネパールの復興は途中ですし、「一つの震災プロジェクトでも大変なので、同時に二つは無理だ」と思いました。ところが、今度は支援してきたシェルパたちから連絡が来るのです。ネパールでも日本で大地震が起きたニュースが流れているので、「去年は日本人がすごく助けてくれた。テントもいっぱい運ばれて助かった。恩返しをしたい」と、中には彼らにとっては平均月収にあたる金額を振り込んでくれる人もいました。
「去年『ヒマラヤ大震災基金』を立ち上げて、日本中の人に助けてもらったのに、私は逃げようとした」と、どこかで頭を殴られた気がしました。
テント村をつくった訳
「もう逃げるわけにはいかない」と、熊本のプロジェクトを始めました。やると決めたら情報収集です。情報を集めると、熊本では車中泊が多いことがわかりました。私は東北の震災にも関わりましたが、東北では車も流されたこともあり、車中泊はあまり問題になりませんでした。

 熊本では余震が続いていて、「建物の中に入るのが怖い」「避難所が怖い」という人が多いのです。しかも避難所になっていた益城町総合体育館では、震災によって天井が落ちメインアリーナが使えませんでした。避難はしたものの、施設の廊下で生活していたのです。廊下にも入れない人が大勢いる状態で、何百人もの人たちがあたり一面に車中泊していました。車中泊はエコノミークラス症候群を引き起こしますし、精神的にもよくありません。ですから、去年ネパールでやったようなテント村をやろうと決めました。

 ネパールの人々はテントさえ渡せば自分たちで何とかなりますが、今回は「日本人はテントにあまりなじみがない。テントを渡すだけでは意味がない」と感じました。テントは僕がエベレストのベースキャンプで使っていたものと同じ大型のタイプです。長期間安心して暮らせるように建てるにはそれなりの技術が必要ですし、風も強いところなので、テントが飛ばないようにするのも一苦労でした。

テント村の実現へ
 テント村は私一人でできたわけではありません。私は岡山県総社市の環境観光大使をしています。インターネットで「熊本にテントの支援をしたい」と発信したところ、総社市の片岡市長がごらんになって連携することになりました。震災直後は民間はなかなか被災地に入れません。そこで先発隊として総社市の職員が現地に入ってくれました。そして「このグラウンドが使えないか」と益城町の町長と交渉してくれて、場所が決まったわけです。
 運搬については、まず役割分担を決めて、テント、寝袋などは野口健事務所に集めます。直接熊本には送れなかったので、集めたものを東京から総社市に送りました。それから総社市のトラックに載せて、陸路で熊本に運ぶということをやりました。
 総社市が迅速に動けたのは、片岡市長が東日本大震災の後に「市長の権限において、市とは関係ないところでも国外でも、災害支援事業に年間1000万円の予算は使っていい」という条例を通したからでした。これは南海トラフ地震を想定しています。震災が起きた時にただ国の支援を待っているわけにはいかない。そこで、瀬戸内海に面している県や市町村が中心になって、お互いに助け合うチームができています。海から離れていて津波の影響がない総社市がその司令塔です。「テント村をやる」と言ったら、そのチームごと来てくれました。日ごろから、市町村がいろいろなことを想定しながら準備していたのがよかったのではないでしょうか。
一方、熊本はあまり地震がなかったため「台風の水害の準備はずいぶんしていたけど、地震は考えていなかった」と益城町の町長もおっしゃっていました。
テント村の運営
 テントを集めることはできても、総社市のサポートがなければ、テント村の運営はできませんでした。テント村には最大で五七一名が避難していました。やってみて思ったのは、テントを張ればいいというものではないこと。どういう人がどういう条件で避難しているのか。そのあたりは総社市の職員が慣れていますので、データをとってくれました。後は健康状態、病気、通院のこと等、細かいデータをとって益城町に提出します。600人弱いると医療面でも大変です。AMDAという、アジアで活動する大きな医療ボランティア団体があります。日本では岡山県に本部があり、総社市の紹介でAMDAから医療テント・医師・看護師・鍼灸師がテント村に派遣されました。

海外の避難所との違い
 テント村にはいろいろな人が視察に訪れました。国連や医療関係者で、海外の避難所や難民キャンプを知っている人もいらっしゃいました。話を聞くと、多くの人が「世界の基準からすると日本の避難所は遅れている」と言っていました。国際的には「スフィア基準(人道憲章と人道対応に関する最低基準)」という基準があり、一人あたりのスペースに3.5㎡は確保しなくてはなりません。日本の避難所は、自治体にもよりますが、一人あたり畳一枚、2㎡を切ることがざらにあるらしいのです。

 私もケニアとスーダンの国境 の難民キャンプに行ったたことがありますが、国連が入っているところだと大型テントがきれいに 並んでいました。また、それらにはベッドが入っています。ベッドは立ったり座ったりするので適度な運動にもなるし、 床とテーブルのめりはりもつき、避難所の環境としては布団よりもいいのです。もし次にテント村を私たちがやることになったら、丈夫な段ボールベッドを入れようと思います。
 
 ヨーロッパで災害時にテント村が多いのは、日ごろからアウトドアとの距離が近いからだと思います。ヨーロッパやオーストラリアでは家族でキャンプをする機会が多く、あまり抵抗がないのでしょう。日本ではごく一部です。
 日常的にアウトドアがあるかどうかによって、すごく差があると思います。野外活動は震災の時は生きてきます。服やヘッドランプなどの物もそうだし、テント生活や火の起こし方など知識面でもいえます。ですので、日本の家庭でも最低テントを一張り置いておいたほうがいいと思いますし、冬は寒いから寝袋も必要です。
 また、日本では塾などに押されてしまってあまり盛んではありませんが、子どもたちにはボーイスカウトのような活動も大事です。ボーイスカウトでは野外活動だけではなくリーダーシップをとる訓練なども行うので、非常に意義があります。

トイレも重要です。

テント村の生活
 室内の避難所は冷房が入っていますが、テントは暑いし、雨が降ったらトイレに行くにも傘が必要です。テントはテントで不便なことはあります。にもかかわらず、避難 52所からテント村に移ってくる人もいました。行き場がないという理由でテント村に来るのはわかりますが、体育館の中で生活している人たちが「テント村に移りたい」と言ってくるので、最初は不思議に思いました。

 ひとつは、子どものいる世帯が多かったのです。体育館の中だと子どもの声を不快に思う人がいるので、親も静かにさせることに疲れたり、いづらくなったりしてしまいます。グラウンドの場合は屋外ということもあり、雰囲気が違いました。みんなドッジボールやサッカーをして遊んでいて、夜まで子どもの声がしていましたが、それを不快に思う声が一件も寄せられませんでした。同じ子どもの声でも、体育館の中で聞くのと屋外で聞くのとでは、受けとめる側の印象が変わるのでしょう。
「六月になると雨が増える」ということで、5月31日、本格的な雨季が始まる前にテント村は撤収しました。町役場からするとやむを得ない判断だと思いましたが、ただ「テント村に残りたい」という声が多数あがりました。ということは、やはりそこにニーズがあったということです。それは地元のメディアでも大きく報じられました。

これからの避難所の課題
 我々は町から許可をもらって現場に入りましたが、情報がうまく伝わっていないので、現場の人たちからすると「突然訳のわからない団体が来てテント村をつくるなんて聞いていない」となるわけです。これだけの規模のテント村は今までの震災時にはなかったのでやむを得ませんが、前もって震災時はこのグラウンドを使うなどある程度決めておかないと、今回のように現場で混乱してしまいます。 
 また、行政は公平性が大原則なので、全員に平等に同じものを渡すことができない場合は、全員に渡さないということになってしまう。そこが今回のやりづらいところでした。我々が最初にテントを張る時に「車中泊が全体で何人いるか把握していますか?」と聞かれました。皆さん転々といろいろな場所で車中泊をしていますので、わかりません。わからない中で、テント村は最大でも六〇〇人収容ということから、「どういう条件で優先的に入れるんですか?」。「それは先に手続きをした順です」「それでは公平性に反します」ということになります。

 総社市の片岡市長が日本記者クラブの記者会見でおっしゃったのは「総社市が大災害に見舞われた時には、私の心の中での方針は『ルールを破れ』になると思います。ルールにこだわり何もできないよりも、その場その場で必要なことをして欲しい。時にルールを破ってでも、人命を救って欲しい。私は市長としてそういう指示を出します」ということでした。
 リーダーが決断しないと、結局誰も決断しません。リーダーが「この選択肢をとろう」と言わないと、下の人たちは言えません。どの選択肢もリスクがあります。確かにテント村でも熱中症のリスクはありました。ただ車中泊は、もっとリスクがあります。車中泊よりテント村は「よりベター」です。「よりベター」でいくしかない。100点満点はないのです。リスクを恐れると、何もできません。私は「何もしないリスクのほうが大きい」と思います。
 テント村も全てにおいて完ぺきではないと思いますし、例えば冬の北海道で今回と全く同様にテント村ができるかいうとそれは難しいかもしれません。ですから時期にもよると思いますが、選択肢の一つとして、私はテント村というものをこれからの避難所の中に加えていきたいと思っています。
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