東京都立川市(たちかわし)にある立川駅は、JR中央線の駅であり青梅線と南武線のターミナル駅でもある。更に、南北に多摩都市モノレールが走るビッグステーションだ。
昭和42年頃だったと思う、、、
立川駅北口を出て目に入ってきた光景は、シロ目がやけに目立つ汚れた顔でボロをまとい両足膝から下がない人がガタガタと震えながら切断された足でひざまずき、行きかう人々に物を乞う姿だった。立川駅前のところどころにそんな人たちがいた。
足が無い人は戦争で失ったらしい。ほかの人たちも戦争に行った人たちだと聞いた。
私はその尋常ではない姿の人たちに憐れみを感じると同時に怖かった。記憶に焼きつき今でもその人たちの姿が想い浮かぶ。
めざましい発展を遂げ、今も発展し続ける立川駅周辺は、多数の飲食店や娯楽施設、大型商業施設が建ち並び今や多摩地域の中心的な賑やかで華やかな街だ。近年は、アニメの町として話題にのぼることも多くなった。
そんな立川市の歴史の一部の話です。
立川駅から少し西よりに南の方へ、多摩川に近い所に臨済宗建長寺派の古刹 普済寺(ふさいじ)という寺がある。普済寺(立川城址)は、中世に武蔵七党と呼ばれた武士団 西党の立川氏が文和2年(1353)に菩提寺として創建したと伝えられています。
また立川氏の居館跡とも云われ本堂東側と墓地の西側に土塁が一部残る。
その城館跡で土塁見物ができるので紹介します
現在ある寺の本堂は、平成7年に焼失したあとに再建されたものということ。
早速ですが、これがその土塁跡(寺の内側から)。史跡としての説明がある。
土塁を見ての印象は、「想像していたより規模が大きい」。
それにしても、、、ちょっとセメントで固めすぎやないか。
外側から見る土塁跡
”新編武蔵風土記稿 柴崎村 ”には、
總門ノ左右ヨリ南ヘ掛テ土居并ニ堀跡アリ とある。
現在は残念ながら堀の痕跡は見当たりません。
深い堀だったことでしょう。。。
普済寺今昔
戦前絵葉書 普済寺「立川居城址」
見る角度は違うが上の門と同じところ。たいていそうだが昔はよかった。
外側は空き地のようになっているが、江戸名所図会には建造物が描かれている。
寺内には「国宝 六面石幢」がある。国宝ですよ、一見の価値あり!
1361年 道円の作。塔身各面に四天王及び金剛力士(仁王)像が薄肉彫りされている。
ガラス越しにぐるっと周囲から六面を見学できます。
普済寺の南側は"残堀川"が流れる切り立った断崖。
以前紹介しましたが、「蛇堀じゃぼり」がなまって「ざんぼりがわ」。
他の方角は平坦な地形なので堀や土塁に囲まれていたと推測するが、今は住宅街の中にその痕跡はない。
桜の季節
川沿いに歩道が続く。お花見の穴場ですよ、ここは。
紅葉の頃
普済寺から見る景色。
遠望が利くのは城館を構えるには好都合の立地条件か?
近くにJR中央線が走る。この先、多摩川に架かる鉄橋を走る列車の姿を撮影する人たちをよく見かける。
普済寺今昔
「新奥多摩街道の歩道橋上から普済寺を望む」
戦前絵葉書「多摩川より普済寺を望む」
普済寺から多摩川河川敷堤までの距離は直線で約500m。
現在は、普済寺と多摩川のあいだに新奥多摩街道が通り激しい交通の往来がある。
田園が広がる風景は立川氏が居住していた頃の面影をまだ残しているのかもしれない。
武蔵七党 西党について詳しく知りたいが史料がない・・・
昭和42年頃だったと思う、、、
立川駅北口を出て目に入ってきた光景は、シロ目がやけに目立つ汚れた顔でボロをまとい両足膝から下がない人がガタガタと震えながら切断された足でひざまずき、行きかう人々に物を乞う姿だった。立川駅前のところどころにそんな人たちがいた。
足が無い人は戦争で失ったらしい。ほかの人たちも戦争に行った人たちだと聞いた。
私はその尋常ではない姿の人たちに憐れみを感じると同時に怖かった。記憶に焼きつき今でもその人たちの姿が想い浮かぶ。
めざましい発展を遂げ、今も発展し続ける立川駅周辺は、多数の飲食店や娯楽施設、大型商業施設が建ち並び今や多摩地域の中心的な賑やかで華やかな街だ。近年は、アニメの町として話題にのぼることも多くなった。
そんな立川市の歴史の一部の話です。
立川駅から少し西よりに南の方へ、多摩川に近い所に臨済宗建長寺派の古刹 普済寺(ふさいじ)という寺がある。普済寺(立川城址)は、中世に武蔵七党と呼ばれた武士団 西党の立川氏が文和2年(1353)に菩提寺として創建したと伝えられています。
また立川氏の居館跡とも云われ本堂東側と墓地の西側に土塁が一部残る。
その城館跡で土塁見物ができるので紹介します
現在ある寺の本堂は、平成7年に焼失したあとに再建されたものということ。
早速ですが、これがその土塁跡(寺の内側から)。史跡としての説明がある。
土塁を見ての印象は、「想像していたより規模が大きい」。
それにしても、、、ちょっとセメントで固めすぎやないか。
外側から見る土塁跡
”新編武蔵風土記稿 柴崎村 ”には、
總門ノ左右ヨリ南ヘ掛テ土居并ニ堀跡アリ とある。
現在は残念ながら堀の痕跡は見当たりません。
深い堀だったことでしょう。。。
普済寺今昔
戦前絵葉書 普済寺「立川居城址」
見る角度は違うが上の門と同じところ。たいていそうだが昔はよかった。
外側は空き地のようになっているが、江戸名所図会には建造物が描かれている。
寺内には「国宝 六面石幢」がある。国宝ですよ、一見の価値あり!
1361年 道円の作。塔身各面に四天王及び金剛力士(仁王)像が薄肉彫りされている。
ガラス越しにぐるっと周囲から六面を見学できます。
普済寺の南側は"残堀川"が流れる切り立った断崖。
以前紹介しましたが、「蛇堀じゃぼり」がなまって「ざんぼりがわ」。
他の方角は平坦な地形なので堀や土塁に囲まれていたと推測するが、今は住宅街の中にその痕跡はない。
桜の季節
川沿いに歩道が続く。お花見の穴場ですよ、ここは。
紅葉の頃
普済寺から見る景色。
遠望が利くのは城館を構えるには好都合の立地条件か?
近くにJR中央線が走る。この先、多摩川に架かる鉄橋を走る列車の姿を撮影する人たちをよく見かける。
普済寺今昔
「新奥多摩街道の歩道橋上から普済寺を望む」
戦前絵葉書「多摩川より普済寺を望む」
普済寺から多摩川河川敷堤までの距離は直線で約500m。
現在は、普済寺と多摩川のあいだに新奥多摩街道が通り激しい交通の往来がある。
田園が広がる風景は立川氏が居住していた頃の面影をまだ残しているのかもしれない。
武蔵七党 西党について詳しく知りたいが史料がない・・・