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世界はやがてジャパネスクの時代を迎える(非公式)

「文脈(narrative)を創る」日本人になろう

2014-06-27 | 民間外交・論調・出張報告

海外で行われる国際会議・フォーラムに、日本人の出席者はあまりいない。これは何を意味するのか。「文脈を創る」グローバルエリートたちはどのようなことを考えているのだろうか。

2014年06月26日 08時00分 更新
[原田武夫,Business Media 誠]

 毎週1回綴っている英語の公式ブログでもその都度紹介してきたのだが、今年に入ってからさまざまな国々を訪れ、そこで行われる国際会議・フォーラムに参加してきた。ある時は基調講演を頼まれ、またある時はパネリストとして議論に加わることを求められる中、無論、気楽な「一出席者」として出席することもある。

 どんな形で出席するにせよ、こうした国際会議やフォーラムは実にたくさんの気づきを私にもたらしてくれる。まず一つ、すぐに気付くこと。日本人がそうした場に出席していることは極めて稀(まれ)ということである。我が国ではこの手の国際会議やフォーラムというとすぐに「世界経済フォーラム(ダボス会議)」について語られることが多い。実際、ダボス会議には総理大臣を筆頭に毎年大勢の日本人が詰めかけ、グローバル・エリートたちと会っている。だが、それ以外の国際会議・フォーラムに頻繁に出席している日本人はあまり見かけない。専門的な分野別の会議では違うのかもしれないが、グローバル・イシュー(地球規模で解決が必要な問題)について幅広く語り合う場には日本人はいないというのが通例だ。

(画像はイメージです)

 「国際問題は外交官が話し合えばよいもの。グローバルな課題についても最終的には外交官が話しておけばよいのではないか」

 残念なことに我が国ではいまだにそう思っている人が多い。それでもあえて出席を、ということになれば一番ブランドがありそうな場である「ダボス会議」を選択し、そこに大挙して行っては物見遊山に会議を見学して、何となく雰囲気を感じ取ってくる、というわけだ。

 政界・財界・官界・学界・メディアといった各界の種類を問わず、みんなそうなのである。そして時にはそのことだけをベースにして堂々と「グローバルとは何か」などと語る御大たちすらいるというのだから驚きだ。しかも世間はそうした人々を「グローバル人財の鑑」だともてはやしてすらいる。まったく困ったものである。

一つだけ参加しても意味がない

 なぜこれが「困ったこと」なのか。こうした国際会議・フォーラムはその一つひとつに絶対的な意味があるわけではないからだ。これらは時期を変え、地域を変えて開催されたしても、実は各会議で議論される題材は一つの連なりを成している場合が多い。これを「文脈(narrative)」と呼んでおこう。多くの場合、国際機関の研究チームやシンクタンク、それに世界的に有名なコンサルティング会社が「震源地」となるこうした文脈は、どこからともなく登場し、繰り返し繰り返しこうした場で様々な出席者によって議論される。聴衆はこれを聞き、自ら意見を述べる機会を与えられる中、それに対する理解度を徐々に深めていく。そして最終的にはこうした文脈に押し出される形で実際の行動をとるに至り、現実が少しずつ動いていくというわけだ。

 一番大切なのは、こうした「文脈」をまずは感じ取ること。1回だけの出席ではまず感じ取ることができないこの文脈も、2回、3回と繰り返し出席する中で徐々にはっきりと見えてくる。そしてある会議から、別のフォーラムへと移った際に「このテーマならばこういった論旨展開なのでは」などと思えるようになればしめたものである。

 なぜかというと、そうやって繰り返し、とりわけ我が国のような「遠く離れた国」から出席を繰り返していると、次第にこうした国際会議・フォーラムの主催者たちの目に留まるからである。そしてやがて「それでは一度、パネリストでもやってみますか」ということになってくる。こうしてグローバルな舞台におけるデビューの機会が与えられるのだ。

「文脈」を創り出す側になる──まず身に付けるべきこと

 文脈を単に聞き、与えられるだけではなく、自らこれを創り出す側へとまわっていくこと。私たち日本人が「グローバル化」を標榜するのであれば、これこそがまず身に付けるべきことだ。そうすればグローバル社会につきものの弱肉強食の競争や、その中で常套手段である奸計(かんけい)からも巧みに逃れることができる。なぜならば「仕掛けられる側」から「仕掛ける側」へと転ずることになるからである。

 無論、こうした立場になるまでにはそれなりの能力と覚悟がいる。特に論理的思考能力と外国語能力(特に英語能力)が不可欠だ。だがそれ以上にまずは「そこで何が話され、かつこれから語られようとしているのか」ということについて、リアルタイムに紡がれていく文脈を知るべきなのである。訥々(とつとつ)とではあっても、一つ一つの意見をしっかり考え抜き、発言すれば、やがて日本人を見る目も変わってくる。

photo

 ここで注意を一つ付け加えておくならば、こうした国際会議・フォーラムで直接的な利益をすぐさま得ようとしないこと。これらを活用するには、まずどっしりと構え、中長期的にコミットしていく姿勢を見せるべきだ。どのみち日本からは自分だけ、もしくは自分を含めほんの少数しかいない。それをさびしがるのではなく絶好のチャンスととらえ、「グローバルな視野」から見解を堂々と述べればよい。

 だが、これが案外多くの日本人にとっては難しいようだ。どうしても「ウィ・ジャパニーズ(We, Japanese=我々日本人は)」とやってしまう。最初のうちは面白がって聞いてくれていた他国の出席者たちも、徐々に眠そうな顔をし始める。なぜならば、いきなり「日本(Japan)」と言われてもあまりにも遠すぎ、彼らにとっては全くリアリティがないからだ。そうこうしている間に発言のために割り当てられていた時間が過ぎ、絶好のチャンスを逃してしまう。

 大切なのは文脈をとらえた上で、そこで提示されている問題(グローバル・イシュー)に対して「みんなで一致してどのように対処すればよいのか」という点に絞り、かつ誰も思いつかないようなアイデアを提示することである。そうすることで「あなたの議論はものすごく貢献した」との発言の後、大いに褒められることになり、「またぜひ、話を聞きたい」「コンタクトしてもよいか」ということになってくる。一度やってみればそれほど難しいことではないのだが、それでも多くの日本人が飛び込んではいないのが、この世界。今であればすぐに海の向こうの人々は「自分たちの仲間だ」と思ってくれ、それだけ発言力を得ることができる。

 本当の「グローバル人財」とは、こうした形で自ら創り上げていくものだ。決して「MBA」や、「CPA」、「TOEFLが何点以上だ」という世界ではない。そして何よりも、こうやってグローバル・コミュニティにおいて一個人として認められていくことほど、楽しいことはない。

 狭い国内に留まるのではなく、そこで蓄えられたエネルギーを爆発させるためにも、グローバルな大海原に出てみてはどうだろうか。世界はそれを心から待ってくれている。「あの日本人が何かを言い出したぞ」となれば、きっと皆聞く耳を持つ。さらにそうした本当の意味でのグローバル人財、すなわちグローバル・コミュニティにおいて、受け身ではなく、それを動かす力を持った文脈を創り出す日本人が一人でも多くなることで、一日でも早く「それでは日本でそうした議論の場を創ろうか」という機運が生じてほしいものだ。

 議論の土俵が我が国となれば、そこで紡がれる文脈はますます国際社会全体から注目される。そこで「国益」に基づいた主張を展開すればよい。その瞬間、我が国の国際社会における立場は見違えて輝いたものになってくるだろう。

 安倍晋三総理大臣一人が世界を漫遊し、スピーチをしてまわれば、日本が国際社会で改めて認められるわけではない。大切なのはあらゆる場面で、あらゆるセクターの様々な世代の日本人が“文脈”を創り続ける努力を国際社会において続けていくこと。それは岩を水滴で穿つことのように、最初は思われるかもしれないが、やがてその「文脈」は小川となり、大河となり、大海原を動かすに至るのである。

 積み上がる公的債務処理の問題を筆頭に、今後の日本が直面するであろう世界全体との激しいディール・交渉においても通用するこうしたグローバル人財を一人でも多く育てることこそ、急務なのではないか。

 ――私自身、国際会議・フォーラムにおいて出席するたびにその思いを強くするのである。

 (※先月、2014年5月にロシア政府に招かれて出席した「サンクト・ペテルブルク国際経済フォーラム(SPIEF)2014」において、私も加わった議論の様子はこちらをご覧ください)。

 

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1406/26/news010.html



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