皆様、おはようございます!爽やかな週明けを迎えられていますか??原田武夫です。
いきなり安倍政権が言い出した「集団的自衛権容認」という議論。
「???」
と思われている方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか??
この議論は・・・関係者にとっては御気の毒ですが、必ず挫折します。
なぜか?
なぜならばこれからの展開は「パックス・ジャポニカ」だからです。
「え??」と思われた方。
是非、先ほどアップロードしたばかりの下記のコラムをご覧ください!!
そしていつものとおり・・・Yahoo!ニュース画面上でシェア頂くか、あるいはtweetして拡散して頂ければ幸いです。
明日の日本のために・・・・!
皆様の御力をお貸しください!!
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2014年5月19日 8時0分
「KT法」から5.15安倍総理会見を検証する
華々しくPRを繰り広げているコンサルティング・ファームたちの議論とは一線を画し、「経営コンサルティングの真髄」として知られている手法が一つある。「ケプナー・トリゴー法(KT法)」と呼ばれるものだ。社会心理学者であったチャールズ・ケプナーと社会学者であったベンジャミン・トリゴーが開発した手法であり、意思決定のための思考スキームとして知られている。
「もしスペースシャトルに非常事態が生じたら、まずはこの思考スキームにしたがって意思決定せよ」と米航空宇宙局(NASA)においても全ての宇宙飛行士たちに対して徹底した刷り込みが行われているというこのKT法。それは漠然と考えられがちな意思決定のプロセスを厳密に腑分けすることによって、クリアー・カットな意思決定を行うことを促すものである。
まずは「状況把握」を行う。どういった課題、そしてそれに関連した現実があるのかを拾い上げるのである。次にそこで炙り出される課題の中で優先順位を付けた上で、「今何が問題なのかを特定する(問題分析)」「今何をすべきかを決定する(決定分析)」「これから何があり得るのか、それを予防するために何をしておくべきなのかを特定する(潜在的問題分析)」の3つに腑分けし、決定していくのである。
15日、安倍晋三総理大臣が「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から提出された報告書を踏まえて行った記者会見を見ていて、あらためてこのKT法が我が国においては必要なことを感じた。なぜならば安倍晋三総理大臣が自信満々といった表情で行った冒頭発言を聞く限り、正にこの「問題分析」「決定分析」「潜在的問題分析」、いやそれより大前提としての「状況把握」までもが混然一体にそこでは考えられていることが明らかだったからだ。安倍晋三総理大臣はいう。
今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です。
出典:首相官邸公式ホームページ
外交実務に携わったことのある私はこれを聞いて大きな違和感を覚えた。「同盟国であり、能力を有する米国」というが、在留邦人が紛争に巻き込まれた場合、これを救出してくれるように外交ルートで依頼する相手先は決して米国だけではない。事実、私がドイツにある日本国大使館に在勤中、国家として崩壊するアルバニアで民間人である邦人が取り残され、首都ティラナにあるドイツ大使館に駆け込んだことがある。アドリア海に展開していたドイツ連邦軍はジェットヘリでその救助に向かい、地上から発砲がある中、これに応戦しつつ、10数名の邦人全員を救出してくれた。その後、これら邦人はドイツ連邦空軍の輸送機に乗ってケルンにある軍用飛行場に到着し、私たち日本国大使館がその身柄を確保したというわけなのだが、文字どおり疲労困憊し、目の前で飛び交う銃弾を見た恐怖におののき続けるこれら邦人たちを気遣いつつ、当時、ドイツ外務省アジア局次長であった人物が空港で我々に語った言葉が忘れられない。
「日本は”精神的な”同盟国だ。こうした救助活動を行うのは当然のこと。感謝の言葉は一切不要だ」
先ほどのKT法に立ち返って考えるならばこういうことだ。―――「状況分析」の段階で、邦人保護のために日米同盟ありき、と考えるのは決定的に間違っている。なぜならばそれは国際社会におけるかくも厳しい現実とは全く食い違っているからだ。まず行うべきなのは、有事となった場合に助けてくれる友邦を数多く持つこと。そしてそのための外交努力を怠らず、資源(リソース)をそのために十分割くことである。これがまず出発点なのである。
本当の問題は「個別的自衛権」なのか、それとも「集団的自衛権」なのか
そして安倍晋三総理大臣はこうも語っている。
こうした事態は机上の空論ではありません。連日、ニュースで報じられているように、南シナ海では、この瞬間も力を背景とした一方的な行為によって国家間の対立が続いています。これは人ごとではありません。東シナ海でも日本の領海への侵入が相次ぎ、海上保安庁や自衛隊の諸君が高い緊張感を持って24時間体制で警備を続けています。 北朝鮮のミサイルは、日本の大部分を射程に入れています。東京も、大阪も、皆さんの町も例外ではありません。そして、核兵器の開発を続けています。片や、サイバー攻撃など脅威は瞬時に国境を越えていきます。これは私たちに限ったことではありません。もはやどの国も一国のみで平和を守ることはできない、これは世界の共通認識であります。だからこそ私は積極的平和主義の旗を掲げて、国際社会と協調しながら世界の平和と安定、航空・航海の自由といった基本的価値を守るために、これまで以上に貢献するとの立場を明確にし、取り組んできました。 積極的平和主義の考え方は、同盟国である米国はもちろん、先週まで訪問していた欧州各国からも、そしてASEANの国々を始めとするアジアの友人たちからも高い支持をいただきました。世界が日本の役割に大きく期待をしています。いかなる事態においても、国民の命と暮らしは断固として守り抜く。本日の報告書ではそうした観点から提言が行われました。
出典:首相官邸公式ホームページ
南シナ海における地政学リスクの高まりや、北朝鮮による「核・ミサイル開発」という現実の脅威があることは事実だ。だがこれらの出来事と、先ほど掲げた「邦人が全世界に行っており、それを守ることが出来ないのはおかしい」という議論との間には大きな飛躍・違いがある。なぜならばこれら近隣諸国との関係における安全保障上の問題は、最終的には「領土・領海・領空が侵犯されたらばやり返すべき」という、至極当たり前な議論である「個別的自衛権」に関わるものとして議論されるべきだからである。そのことと、我が国固有の領土でも何でもないところにいる邦人を助けることが出来ないのはおかしい、何とかすべきだという議論とは、質的に全く異なるのである。先ほどのKT法でいうならば、「今何が問題なのか」についてのクリアー・カットな分析である「問題分析」が全くなっていないということになる。その代りに「積極的平和主義」なる実に曖昧模糊とした概念を安倍晋三総理大臣は掲げ、煙に撒こうとしている。その上で結論としてはこのように述べているのだ。
一つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動の全てを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。 もう一つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を政府は最大限尊重しなければならない。憲法前文、そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としてはこの考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。
出典:首相官邸公式ホームページ
こうした説明は実にもっともらしく聞こえる。要するに「やたらめったらと自衛のためとして武力の行使をするわけではないが、極めて限定的な事例に限って集団的自衛権を行使することは問題がない」というのであるから、「確かにそういう事態もあり得るだろうから、備えだけはしておくべきということは頷ける」となってしまいがちなのだ。だが、ここでもまた、我が国を巡る状況に関する事実関係の把握が混濁してしまっている。KT法でいうならば「状況把握」と「潜在的問題分析」が混ざってしまっているのである。
戦争の泥沼化を招く「限定的な集団的自衛権論」
なぜならば、ここでいう集団的自衛権は我が国ではなく、他国が第三国によって攻撃された時、我が国が前者と一緒になって防衛のため、反撃するかどうかという判断の問題だからだ。元来、我が国の国益そのものである「国民の生命・財産の維持」を守ることとは当然にイコールではないことは明らかである。ちなみにこの集団的自衛権は、国連憲章第51条にある次のような定めに基づいている。
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
出典:国連憲章第51条
要するに、有事となった場合、国連安保理が動くまでの間、とりあえずは当事国が防衛して良いという風に定められているのである。だが、その後に出された確定的な判決例を見る限り、まずは国連加盟国がこの権利を発動するかどうかはその自由な判断に依っているとされ、かつそもそも機能的に動いてくれるはずの国連安保理が全く機能しなくなっていることも明らかなのだ。つまり、集団的自衛権を発動したが最後、我が国が他国と第三国との間の紛争に巻き込まれ、その泥沼化から逃げ出すことが出来なくなる危険性こそ大きいと言うべきなのである。そしてその間、我が国は「自衛」を名目とした大量の資源投入を余儀なくされ、大勢の兵員を動員せざるを得なくなってくる。そもそも、この「集団的自衛権」の行使の大前提として、安倍晋三総理大臣が記者会見の冒頭でいうような、「邦人保護」が必須条件とされていないため、そうした事態が無くてもその行使は理論的には可能なのだ。その意味で、KT法でいう「状況把握」をあえて混濁させ、まずは感情論で聴く者の心情を誘導しつつ、その実、論理的な思考を中断させるという今回の総理記者会見における「冒頭発言」は実に巧みに出来ている。
デフレ縮小化の中で平和を実現する「パックス・ジャポニカ」こそが本当の潮流だ
だが、ここでその”巧みさ”が一体何のためなのかを問わなければならないのだ。今回の安倍晋三総理大臣の発言のように、「まずは同盟国である米国に対する、国外での軍事協力が先にありき」といった結論を性急に出すのではなく、唯一の被爆国でもある我が国は「そもそもなぜ戦争が起きるのか、それを抑止することは出来ないのか」ということについて、国民的な議論を始めるべきなのである。
このように言うと「書生論だ」と述べる論者は未だに多い。だが、そのような反論(にもならない「反論」)こそ、グローバル・マクロ(国際的な資金循環)を中心とした国際社会の真の潮流を知らない、無知蒙昧な議論に他ならない。
なぜならば、そもそも近現代における戦争とは、有史以来、稀に見る温暖な気候に恵まれた時代にあってインフレ拡大を基調とする経済が発展する中、どうしても繰り返し生じる「バブル」とその後に明らかとなる「供給と需要のギャップ」に伴うバブル崩壊を最終的に解消するために行われてきたものだからだ。大量の兵器・装備品を瞬時にして消費してしまう戦争ほど、効率の良い需要創出手段はないのである。いわゆる「戦争経済」であるが、結局、戦争とはそれ以上でもそれ以下のものでもないのである。
これに対して国家は、需給調整に過ぎないはずの戦争を正当化し、国民をそれに駆り立てることを目的としたものとして従来機能してきた。時の権力者はそれを通じて手にする国家権力に魅了され、自ら(とその一族郎党)は決して戦場には出向かないということを大前提としながら、いたいけな国民を扇動し、造られた「対外的脅威」に対する憎しみを増長させ、武器をその手にとらせてきたのである。
だが、今や時代は大きく変わった。太陽活動の異変を大きな意味で背景としつつ、気候変動が主に北半球において生じ、とりわけ米欧を中心に「寒冷化」が進む中で事態は逆向きに進みつつある。欧州においてデフレへと転落した諸国が続々と現れつつあることからも分かるとおり、実は「デフレ縮小化」こそがこれからの国際経済の基調なのである。その結果、それまでインフレ拡大化を前提に発展してきた金融資本主義の時代は終わりを告げ、「バブルとバブル崩壊」「需給ギャップ」「その調整としての戦争」という組み合わせも意味を失うことになる。つまり造られた大規模な戦争が終わりを告げるというわけなのである。
従来の枠組みにとらわれた我が国の統治エリートに「猛省」を促す
極めて逆説的に聞こえるかもしれないが、事ここに及んで我が国は実は自らこそが時代の最先端へと躍り出ることになるのだ。なぜならば我が国は過去20年余にもわたって強烈なデフレを経験する一方、第二次世界大戦後、日本国憲法という「平和憲法」の下、一貫して平和主義を保ってきたからだ。
「デフレ」「平和」という二つのキーワードを当てはめた時、我が国ほどこれからの時代に適合的な状況へと自らを永年にわたって整えてきた国はいないのである。そしてそのことを、米欧をはじめとする世界各国の統治エリートたちは熟知しているのである。時代は正に「日本の平和」、すなわちパックス・ジャポニカ(Pax Japonica)へと突入するのである。その意味で我が国こそが「世界史を動かす日本」だということになってくるのだ。
だが、悲しいかな、我が国の為政者たちはというと、全くもって分かっていないのである。これまでのキーワードである「インフレ」「戦争」こそが自らの権力を拡大するための魔法の言葉であると端から信じ込み、その誤った時代遅れの方向へと我が国を導こうとしている。意思決定にあたっての標準的な思考スキームであるKT法を当てはめれば一目瞭然なほどの混濁が「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」からの報告を受けてなされた安倍晋三総理大臣による発言に見られるのはそのせいである。そしてそうした様子をもまた、米欧をはじめとする世界各国の統治エリートたちはじっくりと見ているはずなのだ。
しかし、人は全てがうまくいっているように思える時こそ、自らを戒めなければならないのである。「アベノミクス」「積極的平和主義」などという美辞麗句で国民が、そして国際社会が翻弄されると考えるならば大間違いだ。「理性の狡知」によって悲劇的な最後を迎える前に、安倍晋三総理大臣とそれを取り巻く我が国の統治エリートたちには今一度、「何が本質なのか」について、猛省を促したい。
株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)代表取締役
http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140519-00035426/
「限定的な集団的自衛権論」という罠 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/af6eadd5fe9126ffec9f68c7648cac44
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