白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記ー「十一面観音巡礼」編-再開07

2015-11-27 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編

 

再開-007 

 

 

 

円空・木食について-004

 

歓喜天

    

 

 先回もご紹介した仏像の「歓喜天」である。別名・聖天とか抱二天などと呼ぶこともある。関西方面では「聖天」が通りが良いであろうか。円空佛にも歓喜天がある。単純な造形美といっても良い。無駄を省いて単純化した究極の形に、著者は引き付けられたのであろう。手前がガネーシャで、背後が十一面観音菩薩であろう。額の削り込みがそれを表している。とても美しいフォルムである。著者は性の歓喜を基本にした書き方をしているが、筆者はそれは違うと思う。

ガネーシャは元々異教の荒ぶる神である。十一面観音自身も同じ出自を持つ。何とかしてこの異教の神を仏教に帰依させるため、抱きしめ且つ足の指を踏んでいる。興福寺旧蔵とされいる歓喜天の足はそれをハッキリ示している。セックスとは全く関係ないことである。後世民衆が何時の間にか勝手に、そのように解釈したのではあるまいか。<決して元には戻さない。仏教に帰依せよ>という強い意志表示であろう。それがこの形となった。本当に単純な形ではあるが美しい像である。その意味でもこの円空佛は素晴らしい。

神像

            

 

実際に具体的な名称も内容である。単純な線が入っているのみであるが、温かい感じがほんのり伝わってくる。木地師出身の木に対する生まれながら備わった技術がそうさせるのであろう。信仰心と天才的な技術力の賜物である。素人には簡単そうで出せないレベルである。

十万体ほどの仏像を彫り続けている内に勝手に手が動いて、知らず知らずの無意識で彫り上げた仏像もあろう。神仏が乗り移って彫らせたに違いない。能面を打つと自分の顔に最初は似るという。鏡で前からの顔の表情は知っているが、何時の間にかその顔が立体的に現れはしない。無意識の世界は我々には解らない世界である。これらの神像は信仰が造形させたものであろう。儀軌は最早関係がない。

 

立ち木佛

 

筆者も実際に「立木佛」は見た経験がない。以前住んでいた近江の山中でも眼には止まらなかった。昔は沢山有ったのであろう。木は成長するから自然に仏は木に飲み込まれるか、朽ち果ててしまうのかもしれぬ。この形態が円空の原点かも知れぬ。

 

鉈彫り

 

日向薬師、宝城坊薬師三尊像

 

           

 

 

「鉈彫り」という仏像彫刻形式がある。一見円空や次に紹介する木食佛に似ているが、歴史は平安時代に遡る。一見明らかに彫刻が半端で途中で放り出したような感じにも見える。専門家の間でも完成佛か未完成佛かの議論はあったようである。 

 

弘明寺・十一面観音

 

神奈川県・弘明寺の十一面観音像の仏頭の横顔は、見ようによってはそのように見える。化佛も簡素に掘り出してある。能面の面打ちではこのようなことはあり得ない。コナシといってヒノキを大まかに削り、小刀や鑿で細かに掘り進んで、大体の骨格を形作る。これを「小作り」という。仏像彫刻でも棟梁が大木から切り取った材料を、大まかに切り取り削って、基本的な骨格を形作る。運慶などの仏像集団は、運慶が骨格を掘り出し(こなし)、弟子が小造りをして、最後に仕上げをして完成に近づけていく手法をとる。コナシは棟梁の技量に頼る大事な工程である。

 

天台寺聖観音立像

 

天台寺の聖観音立像は仕上げ堀り前の仏像に見える。小作りの後は小刀で「縮緬堀り」という手法で、凸凹を削り取りなめらかな曲面に仕上げる。しかし、この仏像は途中で終わっている。途中で止めたのであろうか。結論を先にいうとこの仏像は「完成品」である。その理由については次回に譲るが、この彫刻方法が円空佛に利用されたと考えてよいと思う。円空の頭の中に平安時代の鉈彫り佛が存在していたと思う。円空はそれをさらにデフォルメして完成佛とさせたに違いない。 

 

 喫茶店でちょっと一服  

 

   Goo blog character     

 

     

 

市松人形答礼人形

 

(3)

 

Miss 三重

  

 

1927年にアメリカ本土で高まった日本人移民へのアメリカ人の反感から、排日気運がアメリカ西海岸に急速に高まりつつあった。

1941年の日米開戦の際は、移民していた日本人を収容所に隔離するという悲惨な現実があったことはご承知の通りである。

日本とアメリカの草の根運動によって、アメリカから関東大震災の惨禍の中の子供達を慰める意味も込めて、

青い目の人形が12.739体も日本に贈られた来たのである。

 

Miss 福島

 

それに対して58体の市松人形が、答礼としてアメリカに贈られたのは先回紹介の通りである。

詳細については先回ご紹介した 高岡美智子著「もう一つの日米現代史 人形大使」をご覧願いたい。

ここでは、資料が限られるのでこの本を底本として、WEBなどから検索した資料も付け加えたい。

 

 

日本からアメリカに58体の人形が渡ったが、日米戦争の大混乱で戦後は当初26体の答礼人形の存在が確認されていた。

アメリカからの青い目の人形は戦後は日本に252体が当初確認されている。

これで見てもわかるように、答礼人形の残存率が極めて多いことが分かる。

答礼人形が48.8%、青い目の人形は1.97%である。驚きの格差が出ている。

結論を言うと「文化の違いと人形の品質の違い」から来るものである。

 

青い目の人形

   

 

根本的な原因は人形の価値が大きく影響している。現在の邦貨で2~3.000.000円もの価格の人形と3~5.000円程度では、

何方が良く保存されるかはすぐ理解できる。特に欧米人は骨董的な美術品に対しては、

特別な感情があるのでこのような結果になったのであろう。これが文化の違いである。

それに反して日本では敵性的な品物として、憎しみの対象になったことも原因の一つであろう。

 

 

しかし、それは国からの強制的な命令が大きく影響している。 

それでも、それを無視して大事に保管した人たちもたくさん存在する。

現在残っている人形はそのような人形である。

地方によってはゼロもあるかと思えば比較的残っている地方もある。

これは文化的意識である。とても残念なことであった。

 

 

 

姉妹ブログ 

 

  「Newサワラちゃんの加計呂麻島日記」

http://blog.goo.ne.jp/sawarachan/e/19df17b97eba9bae0faf1ecc6d608848