ITSELF

そのものについて

猫になる方法

2024-04-12 | 「何もしない」という瞑想

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あらゆる宗教、スピリチュアル、形而上学的な何か、それらを一旦すべて脇に置いておく。

 

本当に何もかも(出来るだけ見えないところに)置いておく。

 

 

そして、座る。

 

 

 

 

特に何もせず、何も目指さず、何かを受け流そうともせず、

思考を止めようとせず、より良い心の状態にコントロールしようとせず、

何もしないように努力していないかと心を見張らず、

ただありのままでいる。

 

 

座っている間は、例えば「3分前に心をコントロールしようとしていたかもしれない」と後悔しない。一切しない。

そして3分後のための予防もしない。対策もしない。

 

すっかりそのまんまで、ただ座る。

 

 

例えば、家の外から車の音が聞こえたとする。

でも、そこには車の音なんて存在しない。

あるのは「ブーン」だけ。

それを「音」という分類をしない。

「ブーン」

 

あっちで走っていた車の音を私の耳が聞いて、それを脳が解釈した、という物語は思考の中の出来事。

起こっているのは、ただの「ブーン」のみ。

 

 

そこまでシンプル。

極限の極限までシンプル。

 

どんなに当たり前に感じる固定観念でも、根っ子から丸ごと脇に置いておく。

 

 

でも思考は、

「いやいや、そういうことじゃない」と、すぐに慣れ親しんだ思考に戻りたくなる。

心がしっかりと立てる足場のような固定された受皿がないから、不安すぎるから。

そしてきっとすぐに「私という固定の受皿と、それ以外の世界」というシステムに戻りたいと構える。

 

それも当然のこと。

そのまんまで大丈夫。

その思考の働きについて後悔しない。

また同じような思考が起こらないように予防もしない。

頭の中に「時間という流れ」を創り出して、さっきと今を想像の中で繋げない。もっと言えば「さっき」や「今」という観念を想像の中で創らない。

どんな思考でも起こったら起こったまんま。終わり。

「そのまんま」であれば、自然と思考は出なくなる。

 

極限まで「世界丸ごとそのまんま」の無限一択で

ただ、すわる。

 

 

✳︎

 

「私」という思考と、世界が一つになるんじゃない。

「猫のように自由になりたい」という思考と、猫が一つになるんじゃない。

 

「真我」という特別な何かは無い。

「私」という特別な何かは無い。

 

✳︎

 

この文章を読んでいる。

出てくる思考。

何らかの方向を持った思考。

それも全部、自然なこと。

どんな思考も、それで終わり。

出たら終わり。

何もつながらない。

継続した全く同じ思考は無い。

 

 

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葉が揺れる。

 

その揺れに、「次」というものは無い。

その揺れ方に、「二択」は無い。

 

 

 

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オンライン個人セッション

2024-04-01 | 個人セッション
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「何もしない瞑想」についてのZoomオンライン個人セッションです。
実践されていく中での現状確認やご質問などお気軽にご予約下さい。
※音声のみでのセッションも可能です。
 
【セッション可能日時】
20:30から22:00の間でご希望に添えます
(日曜・祝日お休み)
※スケジュールを確認後、翌日までには返信しておりますのでメールが届かない場合は迷惑メールフォルダをご確認下さい。
 
【セッション料】
30分 5,000円(税込)
※お支払いはセッション後でも大丈夫です。
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ご予約はこちら
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静寂と涅槃について

2022-09-23 | そのものについて

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音がしたら

 

鼓膜や神経や脳たちが

 

この人間という生き物の構造上どおりの働き

 

(あっ音がする)という認識をする。

 

 

 

そしてその「音」も

 

それが鳴る原因たちの構造上の

 

ただその通りの音を

 

ただ発する。

 

 

 

もちろんその「音」自体に

 

主体のようなものを

 

見つけることは出来ない。

 

 

 

 

「音が鳴る働き」と

 

「音が認識される働き」

 

 

 

そして

 

これら自然の動き(働き)の間に

 

「境界線みたいなもの」を表現する働き。

 

 

その他の働きと同じ「働き」の一つである

 

「思考」という働き。

 

 

 

「音が鳴る働き」

 

「音が認識される働き」

 

 

たった今「この文字を認識するという働き」

 

「この画面が文字というものを表す働き」

 

 

 

 

人間という生き物の中で起こる様々な働きと

 

風が吹いて洗濯物が揺れる働きは

 

どちらもただの「働き」

 

 

 

境界線のない「ただの働き」だらけの世界。

 

 

 

トイレの中での

 

何気ない思考の働きも

 

浜辺のサンゴに染み入る波の音も

 

(それが聞こえるという働きも)

 

何から何まで

 

全く平等な「働きそのもの」

 

 

この単純な単純な

 

事実が

 

ただ働き、働く。

 

 

 

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鏡の前に立つ。

 

 

そこに映った生き物が「生まれたこと」

 

それだけが

 

事実。

 

 

あとのことは

 

「思考のなか」のこと。

 

 

 

静寂という言葉も

 

涅槃という言葉も

 

「思考のなか」のこと。

 

 

 

誰でもない

 

生き物が

 

わずかに動く

 

 

 

働き。

 

 

 

 

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大事なポイント

2022-04-06 | 「何もしない」という瞑想

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引き続き「何もしない瞑想」についてです。

 

 

まだいきます?感もありますが笑

 

せっかくトライしてくれている方のためにも

 

これから始める方にも

 

(※このという観念が特に引っかからないようになるためにも)

 

さらに思考の足場

 

事前に取り除いておきたいと思います。

 

一応、ここで言う思考の足場という表現も

 

もちろん方便にしかなりませんが

 

瞑想中に(気付かないうちに)

 

何かをしてしまうことを

 

防ぐためのものですので

 

その他の個別性を暗示させるような表現同様

 

サラっと流して頂ければスムーズですので

 

何卒よろしくお願いします。

 

 

それでは本題に入ります。

 

 

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何もしない瞑想は本当に何もしません。

 

(※瞑想という表現が気になる場合はシンプルに“何もしないと呼んでください)

 

ですので

 

どんな繊細な工夫も

 

どんなわずかな試みも

 

すべて余計なことになってしまいます。

 

 

思考の完全な休息です。

 

 

もちろん何かの出来事の余韻で起こる思考は

 

しょうがないので、

 

そのまんま放っておきます。

 

 

でも、完全な休息です。

 

 

完全な休みです。

 

 

 

ふぅ〜っと息をはいて

 

ぽけ〜っとリラックスして

 

完全に思考をお休みしてください。

 

 

何も構えなくて大丈夫です。

 

余韻で出る思考は次第に自然に弱まります。

 

 

「無になってください」ではなくて

 

「思考を使おうとするのを完全に休んでください」という意味です。

 

まるっきり、すっかり、隅から隅まで

 

全ての思考はお休みです。

 

 

出来ることなら30分、

 

キツイなら5分でも10分でもいいです。

 

 

じっと坐れないなら

 

公園をお散歩しながらでも

 

食器を洗いながらでも

 

掃除機をかけながらでもいいです。

 

身体の動きは身体にぜんぶ丸投げして

 

思考は完全に休息してみてください。

 

きっといつも通り上手に食器を洗います。

 

 

 

そうすると思考は

 

何かを解釈しようとする一切の仕事を

 

完全にお休みして

 

分別する理由を失います。

 

 

目や耳や鼻や皮膚が

 

自動的に認識した情報は

 

思考がお休みの時は

 

当然すべて個別性を失っていますので

 

そのものという前後の無い

 

生(なま)の事実でしかありませんが

 

まだ個別性という観念の余韻が強ければ

 

その余韻どおりの自動認識は続きます。

 

 

ですので

 

コツコツと思考を完全にお休みするという

 

クセ(逆にそういう余韻)を

 

少しでもつけていくことが

 

この何もしない瞑想

 

大事なポイントになります。

 

 

 

そして

 

その余韻の優位性が

 

ある時点でひっくり返ったとき

 

いわゆる見性と言われるような

 

現象が起こり得る状態が整います。

 

 

 

ただ

 

それが起こった後も

 

この何もしない瞑想

 

自然と続けてしまうと思います。

 

 

理由は

 

自然とそうなっちゃう

 

としか言いようがないのですが

 

何か他に上手い言い方があったら、

 

 

誰か教えてください(^^)

 

 

 

 

ではでは、ついつい久しぶりに

 

ダウンタウンの漫才を見た余韻で

 

いつもと同じようなことを

 

書いちゃいましたが笑

 

またそのうち何か書くと思いますので

 

よろしくお願いいたします。

 

 

✳︎

 

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個人セッション

現在「オンラインのみ」で行っております。

沖縄での対面セッションをご希望の方は

マスクが取れる日まで何卒ご了承ください。

 

※リピートの方はメールの方からご予約OKですので

(同じ質問でも、いや逆に同じ質問を待ってます)お気軽にどうぞ〜 ^_^

 

 

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2022-02-08 | 「何もしない」という瞑想

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「何もしない瞑想」においての

 

何もしないという言葉について、これまで

 

放っておく

 

そのまんま放ったらかしておく

 

と表現していましたが、

 

誤った解釈の固定を防ぐために

 

別の言葉でも表現してみたいと思います。

 

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世界そのものの動きに任せる。

 

 

風がそよぐこと、雨が降ること、

 

雪の結晶が出来ること、

 

音がしたら耳が勝手にそれを受取ること、

 

条件が揃うと心が勝手に反応すること。

 

 

この身体もこの思考も世界の中に含めて、

 

世界そのものの動きに任せる。

 

 

これを老子は「玄」と表現し、

 

道元は「仏性」と表現したんだと思います。

 

 

 

じっと座っているのがどうも苦手な方は

 

公園でもお散歩しながら

 

この玄(仏性)に

 

任せっぱなしにし続けてみてください。

 

 

勝手に低気圧や高気圧が出来るように

 

低気圧的な思考や高気圧的な思考も

 

条件が揃えば勝手に出来上がります。

 

そして弱まったり、台風が出来たり、

 

心地良いそよ風が吹いたり、

 

木の葉に光があたってきらめく様が

 

勝手に目に移り、

 

勝手に「きれいだな」という思考になります。

 

そして勝手に何かしらの音だけになったりします。

 

(車や鳥や話し声になるのは解釈の後です)

 

 

世界そのものは、無人で無意図で無解釈に

 

ただ反応という動きを発します。

 

 

世界そのものは

 

何かを為そうともせずに

 

自動的にただそうあります。

 

 

それを余計な図らいや解釈をせずに(当たり前だと思って無意識に解釈されていること等)

 

身体の各認識機能の反応を起こるがまんまにしてみてください。

 

そしてそれを習慣にしてみてください。

 

習慣は最強です。

 

ではではまた書きます。

 

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