今年もやってきました、クリスマス。
昨年まで住んでいた香港ですと、元イギリス植民地だったこともあり街の至る所でクリスマスを感じることができましたが、
中国だと、ショッピングモールとかにチープなクリスマスツリーがあるぐらいで、クリスマスの雰囲気をあまり感じることが無いです。
しかし、意外にも上海には教会があちこちにあります。
これは租界時代の名残で、今も現役でキリスト教信者が租界時代から残る教会に集まり、祈りを捧げています。
上海歴史散策・第二回目は、クリスマスにちなんで租界時代に建てられた教会をいくつか訪れてみました。
前回、上海歴史散歩・第一回目で、上海の租界は旧イギリス租界を中心とした「共同租界」と「フランス租界」の
主に二つのエリアに分かれると触れましたが、教会はフランス租界に多く残っています。
フランス租界は、イギリスが最初に上海で租界を設置してから遅れること7年、1849年に設置されました。
場所はイギリス租界の南側。イギリスと同じく港が置かれた黄浦江沿いのエリアを貿易の拠点としました。
しかし、最初のフランス租界は、北側のイギリス租界(共同租界)、南側の中国人居住地区(県城)に挟まれ非常に狭く、
イギリス租界に南京路や四馬路(現・福州路)など何本も道路が敷かれたのと比べ、東西に一本の道路しか敷くことができませんでした。
そのため、フランス租界は港のあった黄浦江沿いのバンド(外灘)エリアから離れ、早くから西へ西へと広がっていきました。
上海租界の地図。フランス租界は、東側は狭く、街の中心は西へ広がっている。
フランスは貿易の面でもイギリスに大きく遅れをとっていました。
そのため、貿易でイギリスに対抗することを諦め、租界でキリスト教(カトリック)の布教活動に力を入れるようになりました。
20世紀に入ると、共同租界が経済活動を重視する商業エリアとなっていったのに対して、フランス租界はカトリックの布教活動にともなって
教会が建てられ、さらにその周辺に学校や病院なども建てられ、並木道や公園なども整備されて、住環境に配慮された街づくりが行われました。
オフィスビルがひしめき合い窮屈な街となっていく共同租界に対し、フランス租界は住民の生活の質や文化・教育の普及を重視した
文教地区・住宅地として発展していきました。
租界に住む当のイギリス人やフランス人でさえも、オフィスはビジネスに便利な共同租界、
住む場所は住環境の良いフランス租界、、といった感じで使い分けをしていたようです。
現在も当時の雰囲気を残す旧フランス租界エリア。
さて、黄浦江から西へ西へと広がっていった上海の租界で、最も遅くに租界に組み込まれたフランス租界の南西地域に、
徐家匯(シュージャーフイ)と呼ばれる地区があります。
フランス租界の西の境界線であるヘイグ・アヴェニュー(現・華山路)と、南の境界線である肇嘉浜と呼ばれる運河(クリーク)が
交わる場所一帯が徐家匯(シュージャーフイ)です。
(上の地図を参照)
徐家匯は、租界時代はまばらに建物が建っているぐらいで、周囲に田畑が広がる林間地帯でしたが、
現在は上海を代表する繁華街の一つとなっていて、大型ショッピングモールやデパート、オフィスビルが集まっています。
高層ビルに囲まれた現在の徐家匯(シュージャーフイ)中心部。
手前の広い道路が、かつて運河だった肇嘉浜。現在は埋め立てられて肇嘉浜路と呼ばれる道路になっている。
その徐家匯の中心部から少し南へ歩いた繁華街の一角、大通りに面し真新しいビルに囲まれた場所に
忽然と租界時代の古い建物が現れます。
それが、上海租界最大のカトリック教会、「徐家匯天主堂」です。
徐家匯天主堂は、1851年に最初の建物が建設されました。
その後1910年(明治43年)に新たに建て直され、租界時代に建てられた最も有名な教会となりました。
1920年代に撮影された租界時代の徐家匯天主堂。
設計者はイギリス人で、高さ60mの二つの尖塔が特徴的な、赤煉瓦のフランスゴシック様式の建物です。
2500人を収容するという広い堂内に入ると、特徴的な外見とは異なり派手さは無く質素な印象を受けますが、
その静寂に包まれた厳かな雰囲気の中で、信者の中国人たちが静かに祈りを捧げていました。
堂内は現在撮影禁止。これは租界時代に撮られた堂内写真。現在もこの写真の様子と変わらない。
現在の中国を支配する中国共産党は、そもそも宗教の存在を否定する立場ですが、建前上は中国で信教の自由は認められています。
すなわち、共産党が認める範囲内である限り、中国内でも宗教活動が認められることになります。
それはキリスト教でもイスラム教でもチベット仏教でも同じです。
中国ではすべての宗教は中国共産党の指導下にあり、管理されています。
宗教を否定する共産党が各宗教を指導するというのも可笑しな話ですが、それに従うことが中国で宗教活動を行う大前提となります。
よって、中国においては、カトリックでは「中国共産党>ローマ法王」であり、チベット仏教でも「中国共産党>ダライラマ」なのです。
それに従わなければ、例えば国際問題にもなっているチベット仏教徒への弾圧など、厳しい制裁が待ち受けています。
租界当時は、徐家匯はほとんど建物も何も無い平原だったので、高い二つの尖塔は遠くからも見ることができたという。
特徴的な二つの尖塔は、1960~70年代の文化革命時代には紅衛兵によって取り壊されてしまったが、1980年代に再建された。
ちなみに、中国政府公認の教会に所属している信者は、カトリック系信者が500万人、プロテスタント系信者が1700万人とのことですが、
この他にも中国政府に従わない、非合法である「地下教会」なるものも存在しています。
特に中国政府は、ローマ法王が絶対的存在であるカトリック教会において、ローマ法王を絶対視する教会の存在を認めていません。
ローマ法王の住むバチカン市国とは国交を断絶しており、バチカンの影響下にある教会は非合法組織として取締まり対象とされています。
僕はカトリック教徒でもないので詳しくは分かりませんが、世界中のカトリック教徒が絶対視するローマ法王を排除して、
中国のカトリック教会はカトリックを名乗れるのか、、と不思議に思います。
この構図は、チベット仏教において絶対的存在のダライラマを排除する構図とまったく同じですね。
中国の宗教政策はまったく矛盾に満ちています。
夜には美しくライトアップされる徐家匯天主堂。
さて、フランス租界には、その中心部を東西に貫くアヴェニュー・ジョフレ(現・淮海中路)という目抜き通りがあります。
新しく作られた街である租界では、東西と南北に道が交わり碁盤の目のように道路が作られていますが、そんな中でも、
アヴェニュー・ジョフレから徐家匯(シュージャーフイ)に向かって南西に斜めに伸びる一本の道路があります。
それが、アヴェニュー・ペタン(現・衡山路)と呼ばれる道路です。
現在もフランス租界当時の雰囲気を残し、洒落たバーやカフェなどが建ち並ぶアヴェニュー・ペタン、すなわち現在の衡山路。
租界当時からアヴェニュー・ペタン沿いには高級住宅が建てられ、租界の高級住宅街の一つとなっていました。
徐家匯方向を望む1920年(大正9年)ごろのアヴェニュー・ペタン。
道路の先に徐家匯天主堂の二つの尖塔が見える。
現在、衡山路と名前を変えたアヴェニュー・ペタン。
租界当時に植えられた街路樹は大きく成長して道路の上を覆い、当時この先に見えていた徐家匯天主堂はビルに隠れて見えなくなった。
アヴェニュー・ペタン沿いには、租界時代の有名な建物があります。
それは、租界時代1936年(昭和11年)に建てられ、今もその姿を残す「ピカルディ・アパート」と呼ばれる高級マンション。
現在は衡山賓館というホテルとなっています。
ピカルディ・アパートは当時、外国人専用マンションとして建設され、主に金持ちヨーロッパ人が住んでいました。
現在の衝山賓館(旧ピカルディ・アパート)と衝山路(旧アヴェニュー・ペタン)
さて、徐家匯からアヴェニュー・ペタン(衡山路)を北東方向へ進み、ピカルディ・アパート(衡山賓館)を通り過ぎると、
左手にBARやブティックが並んでいるのが目に入ります。
そして、その対面に古い三角屋根の建物が見えます。
これが、次に訪れた「国際礼拝堂」と呼ばれる租界時代に建てられた教会です。
国際礼拝堂は、1925年(大正14年)に各国信徒の共同礼拝所として建造されたプロテスタント教会です。
今でも中国人牧師がいて、毎週日曜日朝にミサが行われ、熱心な信者たちが集まってきます。
1930年代当時の国際礼拝堂。手前の道路がアヴェニュー・ペタン。
国際礼拝堂の中を覗いてみると、ちょうどミサが行われていました。
教会のスタッフの方に聞くと、毎週日曜日の午前に2回、中国語と英語のミサが行われているとのことです。
さらに、イブイブの23日の夜にはこの教会でクリスマス音楽会が行われると教えてもらいました。
無料ですし、中国の教会行事とはどんなものか興味が湧いたので、国際礼拝堂で行われるクリスマス音楽会に行ってみることにしました。
12月23日の夜。
国際礼拝堂を訪れると、すでに教会内は座る場所が無いぐらいのたくさんの人たちで溢れていました。
教会の堂内は、古びた外見とは違い真新しい。
クリスマス用にクリスマスツリーやリースが至る所に飾られ、イルミネーションが美しくライトアップされていました。
夜7時。国際礼拝堂でのクリスマス音楽会が始まりました。
聖歌隊によるクリスマスソングや聖歌の合唱や女性の独唱を聴き、さらにみんなで聖歌を歌って一体感を演出します。
聖歌を歌うなんて、友達の教会結婚式に出席したときぐらい?
でも、通っていた高校がプロテスタント系で、授業で聖書の勉強をさせられたのでちょっとだけキリスト教には理解があります。
もちろん全部中国語なのでよく分からない箇所もたくさんあり、後半飽きてちょっと眠くなってしまいました。
でも、女性の独唱の時には、教会の高い天井いっぱいに響く美しい歌声に、とても心打たれました。
そして何より、熱心な中国人の信者たちがとても多いことに驚きました。
参加者は年配の人たちが多いように感じましたが、若いカップルや家族連れの人たちも目に付きました。
彼らはみな、牧師さんの話を熱心に聴き、節目節目に「阿們(アーメン)」をつぶやき、神に祈りを捧げます。
中国でも熱心なキリスト教徒がこんなにたくさんいるんだな、と目から鱗でした。
100年近く前のこの場所が租界だったころから、時代は変わり、租界が無くなっても、
この教会で祈りを捧げる信者たちの姿は、今も昔とまったく変わらないのでしょう。
教会内に飾られた巨大クリスマスツリー。
音楽会の方は1時間半ほどで終了。
クリスマスの雰囲気をどっぷり感じることができましたが、硬い椅子にずっと座っててお尻が痛くなった。。。
音楽会が終わって国際礼拝堂から衡山路に出ると、目の前にBARなどのネオンが輝いているのが目に入ります。
アヴェニュー・ペタンこと衡山路は現在、欧米人たちがたくさん集まるBARなどが並ぶ上海有数のナイトスポットになっています。
クリスマスの夜はまだまだこれからです…。
それではみなさん、
「聖誕快楽!メリークリスマス!」
(おわり)
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昨年まで住んでいた香港ですと、元イギリス植民地だったこともあり街の至る所でクリスマスを感じることができましたが、
中国だと、ショッピングモールとかにチープなクリスマスツリーがあるぐらいで、クリスマスの雰囲気をあまり感じることが無いです。
しかし、意外にも上海には教会があちこちにあります。
これは租界時代の名残で、今も現役でキリスト教信者が租界時代から残る教会に集まり、祈りを捧げています。
上海歴史散策・第二回目は、クリスマスにちなんで租界時代に建てられた教会をいくつか訪れてみました。
前回、上海歴史散歩・第一回目で、上海の租界は旧イギリス租界を中心とした「共同租界」と「フランス租界」の
主に二つのエリアに分かれると触れましたが、教会はフランス租界に多く残っています。
フランス租界は、イギリスが最初に上海で租界を設置してから遅れること7年、1849年に設置されました。
場所はイギリス租界の南側。イギリスと同じく港が置かれた黄浦江沿いのエリアを貿易の拠点としました。
しかし、最初のフランス租界は、北側のイギリス租界(共同租界)、南側の中国人居住地区(県城)に挟まれ非常に狭く、
イギリス租界に南京路や四馬路(現・福州路)など何本も道路が敷かれたのと比べ、東西に一本の道路しか敷くことができませんでした。
そのため、フランス租界は港のあった黄浦江沿いのバンド(外灘)エリアから離れ、早くから西へ西へと広がっていきました。
上海租界の地図。フランス租界は、東側は狭く、街の中心は西へ広がっている。
フランスは貿易の面でもイギリスに大きく遅れをとっていました。
そのため、貿易でイギリスに対抗することを諦め、租界でキリスト教(カトリック)の布教活動に力を入れるようになりました。
20世紀に入ると、共同租界が経済活動を重視する商業エリアとなっていったのに対して、フランス租界はカトリックの布教活動にともなって
教会が建てられ、さらにその周辺に学校や病院なども建てられ、並木道や公園なども整備されて、住環境に配慮された街づくりが行われました。
オフィスビルがひしめき合い窮屈な街となっていく共同租界に対し、フランス租界は住民の生活の質や文化・教育の普及を重視した
文教地区・住宅地として発展していきました。
租界に住む当のイギリス人やフランス人でさえも、オフィスはビジネスに便利な共同租界、
住む場所は住環境の良いフランス租界、、といった感じで使い分けをしていたようです。
現在も当時の雰囲気を残す旧フランス租界エリア。
さて、黄浦江から西へ西へと広がっていった上海の租界で、最も遅くに租界に組み込まれたフランス租界の南西地域に、
徐家匯(シュージャーフイ)と呼ばれる地区があります。
フランス租界の西の境界線であるヘイグ・アヴェニュー(現・華山路)と、南の境界線である肇嘉浜と呼ばれる運河(クリーク)が
交わる場所一帯が徐家匯(シュージャーフイ)です。
(上の地図を参照)
徐家匯は、租界時代はまばらに建物が建っているぐらいで、周囲に田畑が広がる林間地帯でしたが、
現在は上海を代表する繁華街の一つとなっていて、大型ショッピングモールやデパート、オフィスビルが集まっています。
高層ビルに囲まれた現在の徐家匯(シュージャーフイ)中心部。
手前の広い道路が、かつて運河だった肇嘉浜。現在は埋め立てられて肇嘉浜路と呼ばれる道路になっている。
その徐家匯の中心部から少し南へ歩いた繁華街の一角、大通りに面し真新しいビルに囲まれた場所に
忽然と租界時代の古い建物が現れます。
それが、上海租界最大のカトリック教会、「徐家匯天主堂」です。
徐家匯天主堂は、1851年に最初の建物が建設されました。
その後1910年(明治43年)に新たに建て直され、租界時代に建てられた最も有名な教会となりました。
1920年代に撮影された租界時代の徐家匯天主堂。
設計者はイギリス人で、高さ60mの二つの尖塔が特徴的な、赤煉瓦のフランスゴシック様式の建物です。
2500人を収容するという広い堂内に入ると、特徴的な外見とは異なり派手さは無く質素な印象を受けますが、
その静寂に包まれた厳かな雰囲気の中で、信者の中国人たちが静かに祈りを捧げていました。
堂内は現在撮影禁止。これは租界時代に撮られた堂内写真。現在もこの写真の様子と変わらない。
現在の中国を支配する中国共産党は、そもそも宗教の存在を否定する立場ですが、建前上は中国で信教の自由は認められています。
すなわち、共産党が認める範囲内である限り、中国内でも宗教活動が認められることになります。
それはキリスト教でもイスラム教でもチベット仏教でも同じです。
中国ではすべての宗教は中国共産党の指導下にあり、管理されています。
宗教を否定する共産党が各宗教を指導するというのも可笑しな話ですが、それに従うことが中国で宗教活動を行う大前提となります。
よって、中国においては、カトリックでは「中国共産党>ローマ法王」であり、チベット仏教でも「中国共産党>ダライラマ」なのです。
それに従わなければ、例えば国際問題にもなっているチベット仏教徒への弾圧など、厳しい制裁が待ち受けています。
租界当時は、徐家匯はほとんど建物も何も無い平原だったので、高い二つの尖塔は遠くからも見ることができたという。
特徴的な二つの尖塔は、1960~70年代の文化革命時代には紅衛兵によって取り壊されてしまったが、1980年代に再建された。
ちなみに、中国政府公認の教会に所属している信者は、カトリック系信者が500万人、プロテスタント系信者が1700万人とのことですが、
この他にも中国政府に従わない、非合法である「地下教会」なるものも存在しています。
特に中国政府は、ローマ法王が絶対的存在であるカトリック教会において、ローマ法王を絶対視する教会の存在を認めていません。
ローマ法王の住むバチカン市国とは国交を断絶しており、バチカンの影響下にある教会は非合法組織として取締まり対象とされています。
僕はカトリック教徒でもないので詳しくは分かりませんが、世界中のカトリック教徒が絶対視するローマ法王を排除して、
中国のカトリック教会はカトリックを名乗れるのか、、と不思議に思います。
この構図は、チベット仏教において絶対的存在のダライラマを排除する構図とまったく同じですね。
中国の宗教政策はまったく矛盾に満ちています。
夜には美しくライトアップされる徐家匯天主堂。
さて、フランス租界には、その中心部を東西に貫くアヴェニュー・ジョフレ(現・淮海中路)という目抜き通りがあります。
新しく作られた街である租界では、東西と南北に道が交わり碁盤の目のように道路が作られていますが、そんな中でも、
アヴェニュー・ジョフレから徐家匯(シュージャーフイ)に向かって南西に斜めに伸びる一本の道路があります。
それが、アヴェニュー・ペタン(現・衡山路)と呼ばれる道路です。
現在もフランス租界当時の雰囲気を残し、洒落たバーやカフェなどが建ち並ぶアヴェニュー・ペタン、すなわち現在の衡山路。
租界当時からアヴェニュー・ペタン沿いには高級住宅が建てられ、租界の高級住宅街の一つとなっていました。
徐家匯方向を望む1920年(大正9年)ごろのアヴェニュー・ペタン。
道路の先に徐家匯天主堂の二つの尖塔が見える。
現在、衡山路と名前を変えたアヴェニュー・ペタン。
租界当時に植えられた街路樹は大きく成長して道路の上を覆い、当時この先に見えていた徐家匯天主堂はビルに隠れて見えなくなった。
アヴェニュー・ペタン沿いには、租界時代の有名な建物があります。
それは、租界時代1936年(昭和11年)に建てられ、今もその姿を残す「ピカルディ・アパート」と呼ばれる高級マンション。
現在は衡山賓館というホテルとなっています。
ピカルディ・アパートは当時、外国人専用マンションとして建設され、主に金持ちヨーロッパ人が住んでいました。
現在の衝山賓館(旧ピカルディ・アパート)と衝山路(旧アヴェニュー・ペタン)
さて、徐家匯からアヴェニュー・ペタン(衡山路)を北東方向へ進み、ピカルディ・アパート(衡山賓館)を通り過ぎると、
左手にBARやブティックが並んでいるのが目に入ります。
そして、その対面に古い三角屋根の建物が見えます。
これが、次に訪れた「国際礼拝堂」と呼ばれる租界時代に建てられた教会です。
国際礼拝堂は、1925年(大正14年)に各国信徒の共同礼拝所として建造されたプロテスタント教会です。
今でも中国人牧師がいて、毎週日曜日朝にミサが行われ、熱心な信者たちが集まってきます。
1930年代当時の国際礼拝堂。手前の道路がアヴェニュー・ペタン。
国際礼拝堂の中を覗いてみると、ちょうどミサが行われていました。
教会のスタッフの方に聞くと、毎週日曜日の午前に2回、中国語と英語のミサが行われているとのことです。
さらに、イブイブの23日の夜にはこの教会でクリスマス音楽会が行われると教えてもらいました。
無料ですし、中国の教会行事とはどんなものか興味が湧いたので、国際礼拝堂で行われるクリスマス音楽会に行ってみることにしました。
12月23日の夜。
国際礼拝堂を訪れると、すでに教会内は座る場所が無いぐらいのたくさんの人たちで溢れていました。
教会の堂内は、古びた外見とは違い真新しい。
クリスマス用にクリスマスツリーやリースが至る所に飾られ、イルミネーションが美しくライトアップされていました。
夜7時。国際礼拝堂でのクリスマス音楽会が始まりました。
聖歌隊によるクリスマスソングや聖歌の合唱や女性の独唱を聴き、さらにみんなで聖歌を歌って一体感を演出します。
聖歌を歌うなんて、友達の教会結婚式に出席したときぐらい?
でも、通っていた高校がプロテスタント系で、授業で聖書の勉強をさせられたのでちょっとだけキリスト教には理解があります。
もちろん全部中国語なのでよく分からない箇所もたくさんあり、後半飽きてちょっと眠くなってしまいました。
でも、女性の独唱の時には、教会の高い天井いっぱいに響く美しい歌声に、とても心打たれました。
そして何より、熱心な中国人の信者たちがとても多いことに驚きました。
参加者は年配の人たちが多いように感じましたが、若いカップルや家族連れの人たちも目に付きました。
彼らはみな、牧師さんの話を熱心に聴き、節目節目に「阿們(アーメン)」をつぶやき、神に祈りを捧げます。
中国でも熱心なキリスト教徒がこんなにたくさんいるんだな、と目から鱗でした。
100年近く前のこの場所が租界だったころから、時代は変わり、租界が無くなっても、
この教会で祈りを捧げる信者たちの姿は、今も昔とまったく変わらないのでしょう。
教会内に飾られた巨大クリスマスツリー。
音楽会の方は1時間半ほどで終了。
クリスマスの雰囲気をどっぷり感じることができましたが、硬い椅子にずっと座っててお尻が痛くなった。。。
音楽会が終わって国際礼拝堂から衡山路に出ると、目の前にBARなどのネオンが輝いているのが目に入ります。
アヴェニュー・ペタンこと衡山路は現在、欧米人たちがたくさん集まるBARなどが並ぶ上海有数のナイトスポットになっています。
クリスマスの夜はまだまだこれからです…。
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