ということを昨日(おととい?)彼女とのやりとりで気づかされて、自分をどう捉えればいいのかもう一度考えてみることにしました。
その日はバイト前に2時間半しか寝れなくなった上に俺が耐えかねて怒りだすという悪夢のような状況に陥りましたが、別にバイトも問題なく行えたし、和解も出来たし、この考えも浮かんだわけで、彼女には感謝です。マジですよ。そのあと何事もなくデートしたんですから。リア充死ね?もう十分死にかけたから許せ。
先に言い訳しておきますが、考えが浮かんだとか言っても、ここに書かれていることのオリジナリティは一切保証しません。俺がわかっているだけでも、かなりの部分はパクりか論理の利用をしています。むしろ、今回の話題である「自分探しの否定」なんかすっごく行われてるから、もしかしたら同じものを蒸し返してるんじゃないかと思うわけで。まぁ、気にせずどうぞ。
そもそもこういう考え方に陥るのは、本来の自分像なるものを持っているからだと思うんです。「今いる自分は、自分の力によって、将来目指す自分、正しい自分へと至ることが出来る」という自分探しの考えですね。ところで、僕が想起する「本当の自分」とは一体どういうものなのでしょうか。僕は「思い通りに動く自分」を想起していました。それは確かにカッコいいでしょう。だって、僕の望み通りの行動をしている自分なんですから。求めたくなりますよ。本当の自分なんかいないとか言われたって、絶対いてほしいじゃないですか。
でも、どうあがいたところで僕の身体は僕の身体であり、僕の感覚は僕の感覚でしかないわけです。はっきり言っちゃえば、自分は「ここにいる自分」でしかない。だから将来の自分が正しいとか今の自分が間違ってるとか、そういうことはないはず。だけど、前述の考え方を保持している以上、必ず今の自分は何らかの誤りを抱えているということになるんです。じゃなきゃ将来のより良い自分は定義されない。誤りや欠点があるが故に、それらを無くすことで本来あるべき素晴らしい自分へ至ることが出来るのですから。
そうすると、「ここにいる自分」と「本当の自分」にスゴく大きなズレが生じてきます。というより、本当の自分がいると思った時点で、そのズレを”生み出さなければならなくなる”んです。だって、本当の自分がここにいる自分より素晴らしいのなら、本当の自分とここにいる自分との違いが、どこかには必ずあるでしょう?むしろなきゃおかしい。そうすると、まずはここにいる自分を僕は否定しなければならない。僕が想起する本当の自分を良いもの、ここにいる自分を悪いものとしなければ、僕の自分探しストーリーが進まなくなりますからね。
だけど、ここにいる自分を非とするためには、僕自身がここにいる自分をしっかり分析しなければならないわけです。僕はこれをさらっと書いたし、多分同意も得られるものだと思うんですが、個人的にはこの「分析」が一番の落とし穴だと思います。
ここでしばし寄り道。さっき自分を分析すると書きましたが、分析をするってことは、何かの枠組みが必要です。もっと簡単に秤と言ってもいい。しかもその秤がどういう秤で何を測定することが出来るか、僕が正確に理解しているものでなければなりません。そして、測定したいものと測定するものが一致していなければ、どんなに優れた秤でも何も出来ません。身長を測るために、体脂肪も一緒に測定できる体重計を使う人はいませんよね。
そうすると、ここにいる自分を分析するという行為の中には「僕はここにいる自分のことを正確に理解している」という暗黙の了解が生まれていることになります。分析したから正確に理解できるのではありません。「僕は自分がどういう存在か完全に把握できているし、僕の持つ秤の正確さも保証しているから、僕による分析が可能である」のです。「身長とはどういう概念であるかわかっているから、僕はその精度が保証された身長計を使って自分の身長が何センチであるか測定します」って言えるのと同じです。もっと平たく言っちゃえば、自分を分析するってことは「俺は自分のことわかってるよ。この秤を使えばわからない部分なんて何一つないよ」と宣言するってことです。
それは本当の自分にも当てはまります。僕の思い通りの自分、つまり本当の自分というものは、既に僕自身という秤によって計られているわけです。だから僕の思い通りの自分を描くことが出来る。けれど、それを逆に言えば、僕が「本当の自分」を想起したとき、既にある種の枠組みの中でしか「本当の自分」を捉えていないということでもあります。
それはさておき、より正確な本当の自分に近づくためには、僕が想起した本当の自分がとても正確である必要があります。しかし、その正確さを保証するものは一体なんでしょうか。身長であればその身長計の目盛りの細かさが考えられます。測り方も正確でなければならない。そうすると、僕自身の自己分析の目盛りの細かさを上げたり、分析方法を見直したりすることで、より正確な「本当の自分」が浮かび上がってくるはずです。僕は「ここにいる自分」と「本当の自分」を僕自身の秤で正確に測定する。そして分析によって差を生み出し、それを埋めようと努力する。それが自分探しだと思います。けれど、そんな簡単に自分なんてわかるものなのでしょうか。
人間を表すパラメータは身長だけではありません。体重は身長計では測定できませんが、とても重要なパラメータです。いくら身長の正確な測定が出来たとしても、僕は体重について語ることが出来ません。というより、ぶっちゃけて言えば、心とか何考えて生きてるかとかは、秤じゃ測定することができません。生きていれば、自分が想定し得なかったことがいくらでも起こりますよね。つまり、当たり前のように「本当の自分にはあり得ないこと」が起こるんです。そこを勘定に入れた上での正確な分析は、どう考えても無理です。きっと宝くじの1等の”番号を”当てるより無理臭い。しかしタチの悪いことに、想定し得ない事態に対しても、僕は「まだ本当の自分にはほど遠い」という言明を選択することを強要される。だって本当の自分にはそんなの起こらないということを前提にしているわけですから。あくまで「僕は自分の全てを把握している」という前提の元に分析は行われているのです。しかも一旦想定し得なかったことが起これば、そういうことも全て分析しなければならなくなる。「本当の自分」が揺るがないよう、枠組みを強化していかなければならない。そうしてますます自分を分析するための秤の正確さを磨いていくんです。
けど、枠組みの確固さを磨けば磨くほど、その枠組みの中での差異は目立つようになります。だからどんどん「今ここにいる自分」を否定する。また想定し得なかったことが起きたときも、ますます枠組みを強化する。これを繰り返すうちに、自分はどんどん疲弊していくし、戦いに「敗れて」絶望することになる。それが自分探しの本質だと思います。
じゃあ、そこから抜け出すためにはどうすればいいのか。僕が出した答えは「自分ってよくわからない」という”自分の理解の仕方”を取ることです。結局僕は「今ここにいる自分」でしかないのですから、自分でもわからない部分、未知の部分が自分の中に存在していることくらい認めても全く問題ありません。そうすると、枠組みは恐ろしく大雑把なものになります。しかしこれを言い換えるならば、自分の理解の枠組みを無限遠(っぽいところ)まで運ぶことが出来るということです。
無限遠(っぽいところ)と書いたのには2つ理由があります。まず、枠組み自体は絶対有限です。その有限性はなぜ生じるかと言うと、自分には身体があるからです。どんなに枠が広いと言えど、自分の感覚、クオリアから逃れることだけは出来ませんからね。そして、必ず他の人によって規定されるものがあることも考慮に入れなければなりません。これも枠組みの有限性を規定するものです。でもこれら以外は全く考慮されないくらいなので、無限遠と言っても差し支えないくらいにに大きな枠組みです。
だから「ここにいる自分」は本当の自分である(かもしれない)と自信を持って言えるわけです。かもしれないってのは、「自分は自分を正確に規定することは出来ない」という自己規定方法を取っているからです。でも、こう考えれば自分を相当正確に捉えることが出来る。だって自分を規定できないがために、有るべき自分はないんですから。
というわけのわからないことを考えていました。ぷう。
その日はバイト前に2時間半しか寝れなくなった上に俺が耐えかねて怒りだすという悪夢のような状況に陥りましたが、別にバイトも問題なく行えたし、和解も出来たし、この考えも浮かんだわけで、彼女には感謝です。マジですよ。そのあと何事もなくデートしたんですから。リア充死ね?もう十分死にかけたから許せ。
先に言い訳しておきますが、考えが浮かんだとか言っても、ここに書かれていることのオリジナリティは一切保証しません。俺がわかっているだけでも、かなりの部分はパクりか論理の利用をしています。むしろ、今回の話題である「自分探しの否定」なんかすっごく行われてるから、もしかしたら同じものを蒸し返してるんじゃないかと思うわけで。まぁ、気にせずどうぞ。
そもそもこういう考え方に陥るのは、本来の自分像なるものを持っているからだと思うんです。「今いる自分は、自分の力によって、将来目指す自分、正しい自分へと至ることが出来る」という自分探しの考えですね。ところで、僕が想起する「本当の自分」とは一体どういうものなのでしょうか。僕は「思い通りに動く自分」を想起していました。それは確かにカッコいいでしょう。だって、僕の望み通りの行動をしている自分なんですから。求めたくなりますよ。本当の自分なんかいないとか言われたって、絶対いてほしいじゃないですか。
でも、どうあがいたところで僕の身体は僕の身体であり、僕の感覚は僕の感覚でしかないわけです。はっきり言っちゃえば、自分は「ここにいる自分」でしかない。だから将来の自分が正しいとか今の自分が間違ってるとか、そういうことはないはず。だけど、前述の考え方を保持している以上、必ず今の自分は何らかの誤りを抱えているということになるんです。じゃなきゃ将来のより良い自分は定義されない。誤りや欠点があるが故に、それらを無くすことで本来あるべき素晴らしい自分へ至ることが出来るのですから。
そうすると、「ここにいる自分」と「本当の自分」にスゴく大きなズレが生じてきます。というより、本当の自分がいると思った時点で、そのズレを”生み出さなければならなくなる”んです。だって、本当の自分がここにいる自分より素晴らしいのなら、本当の自分とここにいる自分との違いが、どこかには必ずあるでしょう?むしろなきゃおかしい。そうすると、まずはここにいる自分を僕は否定しなければならない。僕が想起する本当の自分を良いもの、ここにいる自分を悪いものとしなければ、僕の自分探しストーリーが進まなくなりますからね。
だけど、ここにいる自分を非とするためには、僕自身がここにいる自分をしっかり分析しなければならないわけです。僕はこれをさらっと書いたし、多分同意も得られるものだと思うんですが、個人的にはこの「分析」が一番の落とし穴だと思います。
ここでしばし寄り道。さっき自分を分析すると書きましたが、分析をするってことは、何かの枠組みが必要です。もっと簡単に秤と言ってもいい。しかもその秤がどういう秤で何を測定することが出来るか、僕が正確に理解しているものでなければなりません。そして、測定したいものと測定するものが一致していなければ、どんなに優れた秤でも何も出来ません。身長を測るために、体脂肪も一緒に測定できる体重計を使う人はいませんよね。
そうすると、ここにいる自分を分析するという行為の中には「僕はここにいる自分のことを正確に理解している」という暗黙の了解が生まれていることになります。分析したから正確に理解できるのではありません。「僕は自分がどういう存在か完全に把握できているし、僕の持つ秤の正確さも保証しているから、僕による分析が可能である」のです。「身長とはどういう概念であるかわかっているから、僕はその精度が保証された身長計を使って自分の身長が何センチであるか測定します」って言えるのと同じです。もっと平たく言っちゃえば、自分を分析するってことは「俺は自分のことわかってるよ。この秤を使えばわからない部分なんて何一つないよ」と宣言するってことです。
それは本当の自分にも当てはまります。僕の思い通りの自分、つまり本当の自分というものは、既に僕自身という秤によって計られているわけです。だから僕の思い通りの自分を描くことが出来る。けれど、それを逆に言えば、僕が「本当の自分」を想起したとき、既にある種の枠組みの中でしか「本当の自分」を捉えていないということでもあります。
それはさておき、より正確な本当の自分に近づくためには、僕が想起した本当の自分がとても正確である必要があります。しかし、その正確さを保証するものは一体なんでしょうか。身長であればその身長計の目盛りの細かさが考えられます。測り方も正確でなければならない。そうすると、僕自身の自己分析の目盛りの細かさを上げたり、分析方法を見直したりすることで、より正確な「本当の自分」が浮かび上がってくるはずです。僕は「ここにいる自分」と「本当の自分」を僕自身の秤で正確に測定する。そして分析によって差を生み出し、それを埋めようと努力する。それが自分探しだと思います。けれど、そんな簡単に自分なんてわかるものなのでしょうか。
人間を表すパラメータは身長だけではありません。体重は身長計では測定できませんが、とても重要なパラメータです。いくら身長の正確な測定が出来たとしても、僕は体重について語ることが出来ません。というより、ぶっちゃけて言えば、心とか何考えて生きてるかとかは、秤じゃ測定することができません。生きていれば、自分が想定し得なかったことがいくらでも起こりますよね。つまり、当たり前のように「本当の自分にはあり得ないこと」が起こるんです。そこを勘定に入れた上での正確な分析は、どう考えても無理です。きっと宝くじの1等の”番号を”当てるより無理臭い。しかしタチの悪いことに、想定し得ない事態に対しても、僕は「まだ本当の自分にはほど遠い」という言明を選択することを強要される。だって本当の自分にはそんなの起こらないということを前提にしているわけですから。あくまで「僕は自分の全てを把握している」という前提の元に分析は行われているのです。しかも一旦想定し得なかったことが起これば、そういうことも全て分析しなければならなくなる。「本当の自分」が揺るがないよう、枠組みを強化していかなければならない。そうしてますます自分を分析するための秤の正確さを磨いていくんです。
けど、枠組みの確固さを磨けば磨くほど、その枠組みの中での差異は目立つようになります。だからどんどん「今ここにいる自分」を否定する。また想定し得なかったことが起きたときも、ますます枠組みを強化する。これを繰り返すうちに、自分はどんどん疲弊していくし、戦いに「敗れて」絶望することになる。それが自分探しの本質だと思います。
じゃあ、そこから抜け出すためにはどうすればいいのか。僕が出した答えは「自分ってよくわからない」という”自分の理解の仕方”を取ることです。結局僕は「今ここにいる自分」でしかないのですから、自分でもわからない部分、未知の部分が自分の中に存在していることくらい認めても全く問題ありません。そうすると、枠組みは恐ろしく大雑把なものになります。しかしこれを言い換えるならば、自分の理解の枠組みを無限遠(っぽいところ)まで運ぶことが出来るということです。
無限遠(っぽいところ)と書いたのには2つ理由があります。まず、枠組み自体は絶対有限です。その有限性はなぜ生じるかと言うと、自分には身体があるからです。どんなに枠が広いと言えど、自分の感覚、クオリアから逃れることだけは出来ませんからね。そして、必ず他の人によって規定されるものがあることも考慮に入れなければなりません。これも枠組みの有限性を規定するものです。でもこれら以外は全く考慮されないくらいなので、無限遠と言っても差し支えないくらいにに大きな枠組みです。
だから「ここにいる自分」は本当の自分である(かもしれない)と自信を持って言えるわけです。かもしれないってのは、「自分は自分を正確に規定することは出来ない」という自己規定方法を取っているからです。でも、こう考えれば自分を相当正確に捉えることが出来る。だって自分を規定できないがために、有るべき自分はないんですから。
というわけのわからないことを考えていました。ぷう。