あんまり暇じゃないとまっちのブログ

とか言いつつまた暇になりました。

自分の捉え方って難しい。

2010-12-07 00:53:28 | ちょっぴりまじめ
ということを昨日(おととい?)彼女とのやりとりで気づかされて、自分をどう捉えればいいのかもう一度考えてみることにしました。
その日はバイト前に2時間半しか寝れなくなった上に俺が耐えかねて怒りだすという悪夢のような状況に陥りましたが、別にバイトも問題なく行えたし、和解も出来たし、この考えも浮かんだわけで、彼女には感謝です。マジですよ。そのあと何事もなくデートしたんですから。リア充死ね?もう十分死にかけたから許せ。

先に言い訳しておきますが、考えが浮かんだとか言っても、ここに書かれていることのオリジナリティは一切保証しません。俺がわかっているだけでも、かなりの部分はパクりか論理の利用をしています。むしろ、今回の話題である「自分探しの否定」なんかすっごく行われてるから、もしかしたら同じものを蒸し返してるんじゃないかと思うわけで。まぁ、気にせずどうぞ。

 そもそもこういう考え方に陥るのは、本来の自分像なるものを持っているからだと思うんです。「今いる自分は、自分の力によって、将来目指す自分、正しい自分へと至ることが出来る」という自分探しの考えですね。ところで、僕が想起する「本当の自分」とは一体どういうものなのでしょうか。僕は「思い通りに動く自分」を想起していました。それは確かにカッコいいでしょう。だって、僕の望み通りの行動をしている自分なんですから。求めたくなりますよ。本当の自分なんかいないとか言われたって、絶対いてほしいじゃないですか。
 でも、どうあがいたところで僕の身体は僕の身体であり、僕の感覚は僕の感覚でしかないわけです。はっきり言っちゃえば、自分は「ここにいる自分」でしかない。だから将来の自分が正しいとか今の自分が間違ってるとか、そういうことはないはず。だけど、前述の考え方を保持している以上、必ず今の自分は何らかの誤りを抱えているということになるんです。じゃなきゃ将来のより良い自分は定義されない。誤りや欠点があるが故に、それらを無くすことで本来あるべき素晴らしい自分へ至ることが出来るのですから。
 そうすると、「ここにいる自分」と「本当の自分」にスゴく大きなズレが生じてきます。というより、本当の自分がいると思った時点で、そのズレを”生み出さなければならなくなる”んです。だって、本当の自分がここにいる自分より素晴らしいのなら、本当の自分とここにいる自分との違いが、どこかには必ずあるでしょう?むしろなきゃおかしい。そうすると、まずはここにいる自分を僕は否定しなければならない。僕が想起する本当の自分を良いもの、ここにいる自分を悪いものとしなければ、僕の自分探しストーリーが進まなくなりますからね。
 だけど、ここにいる自分を非とするためには、僕自身がここにいる自分をしっかり分析しなければならないわけです。僕はこれをさらっと書いたし、多分同意も得られるものだと思うんですが、個人的にはこの「分析」が一番の落とし穴だと思います。
 ここでしばし寄り道。さっき自分を分析すると書きましたが、分析をするってことは、何かの枠組みが必要です。もっと簡単に秤と言ってもいい。しかもその秤がどういう秤で何を測定することが出来るか、僕が正確に理解しているものでなければなりません。そして、測定したいものと測定するものが一致していなければ、どんなに優れた秤でも何も出来ません。身長を測るために、体脂肪も一緒に測定できる体重計を使う人はいませんよね。
 そうすると、ここにいる自分を分析するという行為の中には「僕はここにいる自分のことを正確に理解している」という暗黙の了解が生まれていることになります。分析したから正確に理解できるのではありません。「僕は自分がどういう存在か完全に把握できているし、僕の持つ秤の正確さも保証しているから、僕による分析が可能である」のです。「身長とはどういう概念であるかわかっているから、僕はその精度が保証された身長計を使って自分の身長が何センチであるか測定します」って言えるのと同じです。もっと平たく言っちゃえば、自分を分析するってことは「俺は自分のことわかってるよ。この秤を使えばわからない部分なんて何一つないよ」と宣言するってことです。
 それは本当の自分にも当てはまります。僕の思い通りの自分、つまり本当の自分というものは、既に僕自身という秤によって計られているわけです。だから僕の思い通りの自分を描くことが出来る。けれど、それを逆に言えば、僕が「本当の自分」を想起したとき、既にある種の枠組みの中でしか「本当の自分」を捉えていないということでもあります。
 それはさておき、より正確な本当の自分に近づくためには、僕が想起した本当の自分がとても正確である必要があります。しかし、その正確さを保証するものは一体なんでしょうか。身長であればその身長計の目盛りの細かさが考えられます。測り方も正確でなければならない。そうすると、僕自身の自己分析の目盛りの細かさを上げたり、分析方法を見直したりすることで、より正確な「本当の自分」が浮かび上がってくるはずです。僕は「ここにいる自分」と「本当の自分」を僕自身の秤で正確に測定する。そして分析によって差を生み出し、それを埋めようと努力する。それが自分探しだと思います。けれど、そんな簡単に自分なんてわかるものなのでしょうか。
 人間を表すパラメータは身長だけではありません。体重は身長計では測定できませんが、とても重要なパラメータです。いくら身長の正確な測定が出来たとしても、僕は体重について語ることが出来ません。というより、ぶっちゃけて言えば、心とか何考えて生きてるかとかは、秤じゃ測定することができません。生きていれば、自分が想定し得なかったことがいくらでも起こりますよね。つまり、当たり前のように「本当の自分にはあり得ないこと」が起こるんです。そこを勘定に入れた上での正確な分析は、どう考えても無理です。きっと宝くじの1等の”番号を”当てるより無理臭い。しかしタチの悪いことに、想定し得ない事態に対しても、僕は「まだ本当の自分にはほど遠い」という言明を選択することを強要される。だって本当の自分にはそんなの起こらないということを前提にしているわけですから。あくまで「僕は自分の全てを把握している」という前提の元に分析は行われているのです。しかも一旦想定し得なかったことが起これば、そういうことも全て分析しなければならなくなる。「本当の自分」が揺るがないよう、枠組みを強化していかなければならない。そうしてますます自分を分析するための秤の正確さを磨いていくんです。
 けど、枠組みの確固さを磨けば磨くほど、その枠組みの中での差異は目立つようになります。だからどんどん「今ここにいる自分」を否定する。また想定し得なかったことが起きたときも、ますます枠組みを強化する。これを繰り返すうちに、自分はどんどん疲弊していくし、戦いに「敗れて」絶望することになる。それが自分探しの本質だと思います。
 じゃあ、そこから抜け出すためにはどうすればいいのか。僕が出した答えは「自分ってよくわからない」という”自分の理解の仕方”を取ることです。結局僕は「今ここにいる自分」でしかないのですから、自分でもわからない部分、未知の部分が自分の中に存在していることくらい認めても全く問題ありません。そうすると、枠組みは恐ろしく大雑把なものになります。しかしこれを言い換えるならば、自分の理解の枠組みを無限遠(っぽいところ)まで運ぶことが出来るということです。
 無限遠(っぽいところ)と書いたのには2つ理由があります。まず、枠組み自体は絶対有限です。その有限性はなぜ生じるかと言うと、自分には身体があるからです。どんなに枠が広いと言えど、自分の感覚、クオリアから逃れることだけは出来ませんからね。そして、必ず他の人によって規定されるものがあることも考慮に入れなければなりません。これも枠組みの有限性を規定するものです。でもこれら以外は全く考慮されないくらいなので、無限遠と言っても差し支えないくらいにに大きな枠組みです。
 だから「ここにいる自分」は本当の自分である(かもしれない)と自信を持って言えるわけです。かもしれないってのは、「自分は自分を正確に規定することは出来ない」という自己規定方法を取っているからです。でも、こう考えれば自分を相当正確に捉えることが出来る。だって自分を規定できないがために、有るべき自分はないんですから。
 というわけのわからないことを考えていました。ぷう。

教育を語る「次元」

2009-07-20 23:16:05 | ちょっぴりまじめ
 現代教育論のお勉強に飽きました。もうお腹いっぱいです。もう可でいいよ。

 それにしても、やっぱこの手の教育論って好きじゃない。いじめとか、校内暴力とか、体罰とか、不登校とかを語る教育論ね。こういうので苦しんでいる人がいるのはわかる。僕も一時期苦しんでいたから。そういう問題に真摯に取り組む姿勢が重要なのもよくわかっている。

 でも、これらの話題を教育論として語るのは何か間違っていると思う。教育の現場で起こっているからと言って、それが教育の本質に関係があるかどうかはわからない(ないと思うからこういうことを書いてるんだけど)。

 本来、教育論ってのは、「この教育をすることで社会にどのような影響が出るのか」とか「こういう教育をしたいんだけど、どうすれば上手く教えることが出来るだろうか」ということを考えるものだと思う。つまり、教えたいことがまずあって、それが社会や子どもたちにどういう意味を持つのか、っていう「次元」で語るのが、本当の教育論だと思う。教えたいことがあるからこそ教育は行われる、という大前提を常に僕らに認識させるようなものこそ、教育論として優れているものなのだ。いや、そんな基準などクリアしていて当たり前なのかもしれない。

 でも、最初に挙げたものからは、教育論の大前提にはまったく触れていない。そこで語られているのは、子どもたち同士の関係のことばかり。「子どもたちがどうやって学校生活を乗り切るか」とか、「どうすれば子どもたちは落ち着いて学校生活を過ごすのだろうか」という問いばかりがもてはやされる。ここで語られていることは、子どもたちが学校でどう過ごすか、という「次元」の話である。

 そう、上に述べた2つの「教育論」は、同じ名前でも語られていることの「次元」がまったく違う。

 ところで、次元というのは基本的に理科や数学のタームだ。例えば、今読者のみなさまが見ている(はずの)パソコンの画面は2次元だけど、それは R2=(x,y) みたいな感じの、2つのパラメーターを持つベクトル2つで生成される線形部分空間(平面)に他ならない。僕らが生きる3次元なら、R3=(x,y,z) という3つのパラメーターを持つベクトル3つで生成される線形部分空間。ほら、XYZ空間って、X軸、Y軸、Z軸で作られてるでしょ?あんな感じ。

 2つともすごく想像しやすいものだけど、じゃあ2つを足し算してよ、と言われると、突然意味が分からなくなる。1+1=2(これはきちんと言えば1次元同士の足し算)ならいいけど、(x,y)+(x,y,z) はまったくよくわからない計算になってしまう。ここであれば、z はどうすればいいの?という話になる。つまり、次元が違うものは、単純に足し算してはいけない。どっちの「次元」でものを見ているのか、さっぱりわからなくなるからである。

 教育論の話にも同じことが言える。今の教育論は2つを混ぜ合わせたような形、どちらかと言えば後者寄りで語られているけど、そもそも2つはまったく違う「次元」のお話なのだ。同じ土俵で語ることができる問題ではない。現在熱く語られている教育論が、聞いた感じは良さそうだけど何をしたいのかわからない、なんて状況に陥っているのは、この「次元」を無視した足し算がまかり通っているからだ。いじめを無くせば学びの崩壊が止まる、という理論は一見正しそうに見えるけど、学びは生徒と教師の間で成立するものなのだから、いくら子どもたちの間の問題を無くしても、学びの崩壊は解決されないということはすぐわかる(そもそも、学びの崩壊と言うフレーズ自体が次元を間違えて使われている気もするけど)。要するに、意味が分からないことをやっているから、生み出された結論の有効性がいまいち分からないのも当然なのだ。

 そして前にも書いた通り、教育論として本来語るべきものは前者である。後者は「教育臨床心理学」や「集団心理学」、それに「社会学」という分野で議論すればよろしい。ただし、どちらが重要か、ではなく、どちらも至急議論すべきものであるのだけど。

 こんな混同を続けている限り、いつまでたっても教育論は意味のない理論でしかない。そもそも前提を間違えている理論自体、既に意味のないおハナシであることに気づいてほしい。科学や数学と同じように、社会の事象を説明する議論ならば、着実に正しい理(ことわり)を積み重ねて議論してほしい。

病名:急性腸炎

2009-07-11 00:07:02 | いわゆる日記
しばらくこちらは更新してませんでしたが、その間僕は結構ステキなことになってました。

急性腸炎により、完璧ノックアウト(´・ω・`)
テスト前に6日間入院+2週間休みとかね、ドンマイすぎるわけですよ。
それも、実は食中毒だったっていうね。
カンピロバクターっていう菌が原因らしい。
鶏肉とかに多くついてる菌みたいです。
…まぁ、あの時鶏肉食べたし。

で、めちゃくちゃ腹が痛かった。
盲腸よか若干マシだけど、内側からグッサグサ刺されてるみたいな。
ちょっと汚いけど、下痢もめっちゃヒドかった。
多いときは10~20分間隔で来るんだもん。
そのときは完璧脱水症状が出てました。
ポカリを頑張って飲んでも、全然追いつかなかったしなぁ…。

しかもそれだけならいいのに、39度近い高熱まで。
冗談抜きに、一回救急車で搬送されました。
ちょうど日付が変わるくらいの時間に。
だってロキソニン(熱冷まし)飲んでも全然熱下がらないっていう。
さすがにあのときは一人暮らしの大変さを実感しましたよ。
自分で救急車呼んだのなんか初めてだし。

おかげさまで、フラフラの状態で先週と今週を過ごしました。
今もまだ本調子とは言えないけどね。

水曜週末論始まる

2009-06-10 21:39:13 | いわゆる日記
やっぱり水曜日は楽しいねw
とにかく楽。唯一休息らしい休息が得られる日です。
そんな僕らのクラスでは「水曜週末(休日)論」が浮上してます。

だって…ねぇ。
みんな大好き ALESS の次の日が、英語と情報と生物だもんなぁ…。
情報はみんなでふて寝したりパソコンで遊んだりだし、英語も生物も、授業自体は鬼のように楽ちん。

つまり、僕らの1週間は下のようになります。
幸せの水曜、木曜が週明け、金は楽、土曜日はフリー、日曜は基本死亡、月曜完徹、そして地獄ktkr(何

火曜日って、ALESS だけじゃなくてチャイ語もあるんですよ。
その予習が結構重たいんだな。
ALESS とチャイ語が重なってるというのは嫌がらせに近い。

まぁ、愚痴はここらへんにして、久々に布教活動でもしましょうか(笑
今日は僕がドラムを始めるきっかけになった動画を紹介します。
1曲目が T-SQUARE より YUH-JA(勇者)、2曲目が CASIOPEA より MID-MANHATTAN です。
で、この動画ってツインドラムなのですが、白いドラムが神保彰さん、黒いドラムが則竹裕之さんです。
それぞれ CASIOPEA と T-SQUARE の黄金期を支えたドラマーですな。
この2人はとにかくすごいです。
この演奏がきっかけとなり、その後 Synchronized DNA というユニットで活動しちゃうくらい、シンクロしています(笑

緊張感たっぷりというか、音が弾けていくというか、何かそういうのがバリバリ感じられると思います。
特に、各々のソロ以降のバトルは圧巻です。
相手にバトンを受け渡すたびに、どんどん演奏が白熱していくんですよ。
これで僕はドラムという楽器に惚れました(笑
今でこそ彼らとは異なるスタイルを目指していますが、この動画がなければ、ドラムに手をつけることはなかったかもしれません。
これはそれだけ説得力のある演奏だと思っています。

…でも、この2人でやって一番スゴかったのって、やっぱりこのときだよなぁ…。それ以降は何かサラッとこなしちゃってて、どうもワクワク感がないです。

CASIOPEA vs THE-SQUARE - YUH-JA~MID-MANHATTAN(Synchronized DNA)


早起きは鬱予防に役立ちます。

2009-06-09 07:09:42 | いわゆる日記
久しぶりに(笑)6時半に起床。
今日は1限ないけどね。
だけど ALESS の印刷が終わったら、鬱な5限に備えて少し遊びたいですからね。

遊び?当然ドラムですけど?
1時間くらい部室で叩いてきます(^ー^
スポ身が共通授業だったのでしばらく運動もしてないし、何よりこのごろ全然叩いてないし。

ということで、学校に行く準備をしなければ。