
イーヴォ・ポゴレリチのピアノ・リサイタルを聴いた.
何としても今書いておかないと,嘘になってしまうような気がするので,疲れた脳と身体にムチ打って文字を綴ってみようと思う(エビスビール片手に・・・).
まず第1曲目,予定曲目を変更して弾かれたショパンの夜想曲ホ長調op.62-2は,極度に遅いテンポと繋がらないフレーズ,内声部の不気味な生かし方,さらに曲の流れを断絶するようなアクセントの置き方など,超個性的であることは言わずもがな,ある意味で異形すぎてまったく聴いたことないような音楽となっていた.さらに述べれば,どんな曲なのかすらよくわからないのだ.これを“斬新”や“新鮮”と評するのは簡単だが,そんな生易しい世界ではない.耳では捉えているはずなのに,頭が追いつかないというミョーチクリンな感覚.曲のただ中に放り出されたまま自分の居場所が定まらないという不安に困惑を隠せなかった.
その困惑は次に弾かれたショパンのピアノ・ソナタ第3番ロ短調op.58でも持続した.一般に第3番ソナタというのは,ショパン無限のイマジネーションが古典的なフォルムを纏って見事に昇華した作品で,素人目にもその緊密な書法というのは明らかである.演奏に際しては楽曲を大胆に彫像することが求められるが,一方で古典的な造形を遵守しなければただ散漫な印象となりかねない.こういう視点から言えば,ポゴレリチの奏でた演奏は,古典の形も何もあったものじゃない,言ってみれば形のない心象風景を見せられているような趣きで,最初は正直付き合いきれないとの想いが強かったのである.しかし,第1楽章の途中でなぜだか急に“これはポゴレリチによるショパンの心の深部を巡る旅なのだ”という想いが降って湧くと,途端にデフォルメで解体されたかのように思われた各所から,ショパンの“淋しい”“悲しい”という声がおずおずと響いてくるではないか.大地を揺るがしながら噴出する魂の叫びと虚ろで沈んでいく複雑な音の綾の狭間に,嘘偽りのない“純なるもの”が確かに存在していることが感知された瞬間だった.これには我ながら驚いた.なぜこのような認識に至ったのか自分でもよくわからないからだ.しかしこれによって一気に視界がひらけ,ポゴレリチの“心の旅”に付き合えるようになっていったのである.
だからといっても,曲が終わっても演奏に対して拍手をする気はまったく起こらず,ただただ茫然としてしまい,横に座る妻と顔を見合わせて苦笑するしかなかったのは事実である.ポゴレリチと旅をした心象世界はどこまでも深くはあったが,明らかに“感動”とは違っていた.美しい音楽に接したり,感動の涙を流すことは,心の浄化となり気持ちを軽くしてくれる.しかしポゴレリチはぼくらの心を軽やかにしてくれることはなく,むしろ途方もない旅疲れを置いて帰ってしまったといえよう.リスト,ブラームス,シベリウス,ラヴェルと続く心を巡る旅も基本的には同様のことが言える.ラヴェルなどはポゴレリチの天空を切り裂く閃光の如きピアニズムが爆裂し,純音楽的にも凄まじい出来栄えだったが,休憩なしの2時間半の旅のあとでは,ぼくの集中力と精神のキャパシティは限界域を超えて,完全に解脱してしまっており,その良さの半分も感得できなかっただろうことが想像されるのである.それでもポゴレリチを体験したことが,旅疲れが癒えていくにつれて,確かな充足感に変わっていくことを期待している.
****************************************************
イーヴォ・ポゴレリチ ― ピアノ・リサイタル
2010年5月6日(木)19:00開演
アクロス福岡シンフォニーホール
・ショパン:夜想曲ホ長調op.62-2
・ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調op.58
・リスト:メフィスト・ワルツ第1番
・ブラームス:間奏曲変ロ長調op118-2
・シベリウス:悲しきワルツ
・ラヴェル:夜のガスパール
****************************************************
にほんブログ村
何としても今書いておかないと,嘘になってしまうような気がするので,疲れた脳と身体にムチ打って文字を綴ってみようと思う(エビスビール片手に・・・).
まず第1曲目,予定曲目を変更して弾かれたショパンの夜想曲ホ長調op.62-2は,極度に遅いテンポと繋がらないフレーズ,内声部の不気味な生かし方,さらに曲の流れを断絶するようなアクセントの置き方など,超個性的であることは言わずもがな,ある意味で異形すぎてまったく聴いたことないような音楽となっていた.さらに述べれば,どんな曲なのかすらよくわからないのだ.これを“斬新”や“新鮮”と評するのは簡単だが,そんな生易しい世界ではない.耳では捉えているはずなのに,頭が追いつかないというミョーチクリンな感覚.曲のただ中に放り出されたまま自分の居場所が定まらないという不安に困惑を隠せなかった.
その困惑は次に弾かれたショパンのピアノ・ソナタ第3番ロ短調op.58でも持続した.一般に第3番ソナタというのは,ショパン無限のイマジネーションが古典的なフォルムを纏って見事に昇華した作品で,素人目にもその緊密な書法というのは明らかである.演奏に際しては楽曲を大胆に彫像することが求められるが,一方で古典的な造形を遵守しなければただ散漫な印象となりかねない.こういう視点から言えば,ポゴレリチの奏でた演奏は,古典の形も何もあったものじゃない,言ってみれば形のない心象風景を見せられているような趣きで,最初は正直付き合いきれないとの想いが強かったのである.しかし,第1楽章の途中でなぜだか急に“これはポゴレリチによるショパンの心の深部を巡る旅なのだ”という想いが降って湧くと,途端にデフォルメで解体されたかのように思われた各所から,ショパンの“淋しい”“悲しい”という声がおずおずと響いてくるではないか.大地を揺るがしながら噴出する魂の叫びと虚ろで沈んでいく複雑な音の綾の狭間に,嘘偽りのない“純なるもの”が確かに存在していることが感知された瞬間だった.これには我ながら驚いた.なぜこのような認識に至ったのか自分でもよくわからないからだ.しかしこれによって一気に視界がひらけ,ポゴレリチの“心の旅”に付き合えるようになっていったのである.
だからといっても,曲が終わっても演奏に対して拍手をする気はまったく起こらず,ただただ茫然としてしまい,横に座る妻と顔を見合わせて苦笑するしかなかったのは事実である.ポゴレリチと旅をした心象世界はどこまでも深くはあったが,明らかに“感動”とは違っていた.美しい音楽に接したり,感動の涙を流すことは,心の浄化となり気持ちを軽くしてくれる.しかしポゴレリチはぼくらの心を軽やかにしてくれることはなく,むしろ途方もない旅疲れを置いて帰ってしまったといえよう.リスト,ブラームス,シベリウス,ラヴェルと続く心を巡る旅も基本的には同様のことが言える.ラヴェルなどはポゴレリチの天空を切り裂く閃光の如きピアニズムが爆裂し,純音楽的にも凄まじい出来栄えだったが,休憩なしの2時間半の旅のあとでは,ぼくの集中力と精神のキャパシティは限界域を超えて,完全に解脱してしまっており,その良さの半分も感得できなかっただろうことが想像されるのである.それでもポゴレリチを体験したことが,旅疲れが癒えていくにつれて,確かな充足感に変わっていくことを期待している.
****************************************************
イーヴォ・ポゴレリチ ― ピアノ・リサイタル
2010年5月6日(木)19:00開演
アクロス福岡シンフォニーホール
・ショパン:夜想曲ホ長調op.62-2
・ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調op.58
・リスト:メフィスト・ワルツ第1番
・ブラームス:間奏曲変ロ長調op118-2
・シベリウス:悲しきワルツ
・ラヴェル:夜のガスパール
****************************************************

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます