音と言葉の中間領域

「体験」と「言葉」には深遠な隔たりがある
ぼくらが生きているのは現実と空想が交錯する不可解な中間領域

同じ

2021-02-13 15:09:35 | クラシック音楽の話題
研究活動も佳境だが,ふと書きたくなった.

五嶋みどりが長いキャリアの中で初めてベートーヴェンのコンチェルトを録音した.自然体のすこぶる美しい演奏だった.
僕がクラシック音楽に深く親しみ始めた頃,彼女はソニー・クラシカルの看板アーティストだった.正しくないかもしれないが,作品を攻略していくような演奏スタイルと言って良いのかな? それが痛快でもあったし,ときに煩わしく感じることもあった.少なくとも,若輩者の僕はそう感じていた.ほどなくしてその活躍は目の届かないものになっていった.僕自身の彼女への興味が薄れただけかもしれない.

今日,かつてのアルバム「Midori / Encore!」を研究室のBGMに選んだ.新しいベートーヴェンと同じ五嶋みどりがそこにいた.あー,そうだったのかー.
過去の音楽体験に遡ろうとする志向は,今の僕が新しい何かを心に貯めるキャパシティーを失っているからなのかな.

人はただ今を生きる作業を続けていくしかない.その連続,同じ人.

K.297Bへの偏愛

2020-10-06 00:02:25 | クラシック音楽の話題
ぼくの偏愛曲のひとつにモーツァルトの協奏交響曲K.297Bがある.と書けば,モーツァルティアンの皆様は「おや,ちょっと待って!」と思われることだろう.パリ時代のモーツァルトは父への手紙で,フルート,オーボエ,ホルン,ファゴットのためのサンフォニー・コンセルタントを作曲したことを書き綴っているのだが,その楽譜はモーツァルトの生前に散逸してしまい(モーツァルトは陰謀説を唱えていた),そのことで幻の消失作品として扱われることになった(K.Anh.9という番号が付けられた).20世紀初頭になって,この曲と思しき作品の写譜が発見されたのであるが,本来の4つの管楽器のうちフルートがなく,クラリネットのパートに置き換わっていた.しかしモーツァルト学者たちはこれを真作と認定し「K.297b」という作品番号を付した.ところが1964年版のケッヘルでは「偽作」と認定され,本来作曲されたはずのK.Anh.9には「K.297B」という番号が付き,再び消失作品の扱いとなった.このような数奇な運命を辿った“モーツァルトの偽作” 管楽器のためのサンフォニー・コンセルタント(K.297b)であるが,4つの管楽器独奏が華やかに歌い交わす独特の魅力からか以後もずっと演奏され続けている.
そして偽作認定から10年後(1974年),現在ではフォルテピアノ奏者として活躍目覚ましい音楽学者ロバート・レヴィンが新説を発表した.K.297bのソロ・パートは一部で第三者の手が加わって改変されているものの,基本的にはモーツァルトのK.297Bに相当する「真作」であり,管弦楽パートはこの第三者によって改変されたソロ・パートに合わせて,さらに別の誰かによって作られたものであるという説だった.レヴィンはコンピュータによる分析から本来のK.297Bの復元を試み,新しいK.297Bを「再創造」した.このレヴィン版のK.297Bはマリナー指揮による音盤(1983年録音,PHILIPS)でついに聴くことができるようになり,K.297bより一層モーツァルトに近づいたという以上に,“モーツァルトそのもの”とも思えるような新鮮な感動を与えてくれ,これがぼくの偏愛曲になっているのである.

そして,今日ほんとうに書きたかったことは,このK.297Bの演奏において,巷では決定盤とされる最初の録音(マリナー盤)にも増して素敵な演奏があるということ! 

・ハーゼルベック指揮 ウィーン・アカデミカ 1995年録音 〔NOVALIS 150 113-2〕

ぼくはこの音盤をどれほど探したことか.ついに聴けたときの至福をなんに例えられよう! 指揮のハーゼルベックが描き出すモーツァルトの音符のひとつひとつがくっきり浮かび上がってくるような絶妙のアーティキュレーションと楽器相互のバランス! そして涼やかでしなやかな弦楽器をはじめとするオーケストラ・サウンドの美しさ! 各独奏者のチャーミングな掛け合いもマリナー盤に引けをとらない.わけてもオーボエとホルンが絡む音色の多彩さは,古楽器特有の溶け合わない魅力というものが3倍にも4倍にもなって立ち現れてくるようで,心の愉悦を抑えることができない.これを聴くとモーツァルトであるか否かという問いは,しばらくお預けにしておいて良いな,という気持ちになる.

《フルトヴェングラー詣で》第44回

2020-09-12 12:00:00 | フルトヴェングラー詣で
♯1938年10-11月(10月25-27日という説あり)〔スタジオ録音〕
♯ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74《悲愴》

録音年代順に聴き進めているフルトヴェングラー.久々にワーグナー以外の曲,それもチャイコフスキーの《悲愴》交響曲という大物だ.個人的なことであるが,これまでフルトヴェングラーのチャイコフスキーについては,戦後のスタジオ録音を含めて正直これといって際立った印象はなかった.1938年HMV録音の《悲愴》,この演奏も一言で喩えると“渋い”.チャイコフスキーの楽曲が本来有している演出性を鑑みると,この渋さは特徴の弱さとして受け取られるかもしれない.しかし,今回の試聴でそうではないことを思い知らされることになった.これは数あるフルトヴェングラーのレコーディングの中でも,彼の高貴なロマン性が遺憾なく発揮された稀有な演奏記録ではなかろうか.ここには“お涙頂戴”的な大衆に向かって訴えかける演出はない.大雑把なドイツ的という物の括りにも属さない.伝統とか流儀とかを超えたところで,フルトヴェングラー個人に内在するロマン性としか言いようのない演奏であり,しかもその心はどこか垢抜けた華やぎをもっている.この微妙な味わいに気がつけば,この《悲愴》はフルトヴェングラーをより身近に感じられるまたとない演奏記録ということになるだろう.フルトヴェングラーの同曲は1951年エジプトのカイロ公演もドイツ・グラモフォンからレコード化されている.会場ノイズの多いどこかざわざわした演奏との印象が残っているが,これも虚心坦懐に再度聴き直さねばならないという思いを強くしているところである.
第1楽章の短い序奏部,意外なほど流れが良く,ファゴットのフレージングにも飾り気はない.4小節から5小節で登場するヴィオラは凄く良い音色で,しかも十分メリハリが利いているが,アクセントや音の強弱は楽譜の通りである.そして提示部であるが,ここにこそフルトヴェングラーの曲への姿勢が如実に表れる.声楽的か器楽的かという対比でいうと,かなり器楽的に処理されているのがわかるだろう.テンポはストレートであり,ベルリン・フィルの弦がきわめて克明に抑揚を表現する.わずかな加速では足を踏み鳴らす音も収録されているが,フルトヴェングラーはあくまで理知的な姿勢を崩さない.89小節からの第2主題アンダンテ部分も決して泣き節ではなく,少し遠めから眺めたような良い意味での節度と和やかさがあり,芯には温かい心情が通っていることを感じさせる.展開部はさすがにベルリンの弦の力が凄いものの,フルトヴェングラーの指揮は驚くほど芝居っ気がなく,音楽のもつ力そのものを信じ切ったようなところがある.だから良いのだと思う.この点が今回の試聴で新鮮に感じられた点である.
第2楽章は4分の5拍子という変則的な拍子をことさら強調せず,レガートに繋がっていく音楽にしている.オーケストラが非常に充実した音を出しており,チェロの歌は素晴らしく,特に繰り返しの2回目の歌い口はより積極的である.
第3楽章は冒頭のみややアンサンブルが怪しく,ここは別のテイクはなかったものだろうか.しかし些細なことで,次第に興に乗った強靭なアンサンブルが構築されていく.特に後半はSP録音ながらオーケストラ自体がうねりを上げて燃焼していく様が捉えられている.お見事である.
ここまでの姿勢からして,第4楽章に臨むフルトヴェングラーの方法論はある程度予測がつくだろう.客観的で高貴な姿勢は崩さないながら,楽曲が要求する細部への踏み込み(抉り)はやはり前3楽章の比ではないほど克明である.局面局面での感情移入は冷静であるがゆえに怖いほどの説得力がある.そして,安易な言い方だが,ベルリンの弦は“心ひとつ”を感じさせて本当にすばらしい.音色に指揮者の気持ちが乗り移っている.フルトヴェングラーはこんな自分を理解してくれるオーケストラが傍にいて,さぞ幸せだったと思う.

CD選びであるが,第一のおすすめはグッディーズのSP復刻盤〔78CD-3002〕である.新忠篤氏によるダイレクト・トランスファー・シリーズと題された復刻で,一般販売ルートに乗っているプレスCDである.同じグッディーズにはCD-R盤〔78CDR-3103〕もある.これらはSPの盤面ごとに音楽が中断するが,音の迫真度では他を圧倒している.その他では日本フルトヴェングラー協会〔WFJ-15~16〕,DELTA〔DCCA-0067〕が良い.これくらいで事足りるのであるが,あえてEMI系から挙げるとすれば,ブライトクランク盤〔TOCE-9364~8〕は独特の奥深い音なので存在価値を認める.

publicとpersonalの間で

2020-08-17 02:13:53 | 徒然なるままに・・・
こんなにもほったらかしにして,もうやる気はないんじゃないの!? と言われてしまっても仕方がない.でも,僕には,それでもブログを残しておく理由がある.近年,SNSの普及で,飛躍的に情報の授受は増えた.その中には有益なものもあれば,たいしたことのないものまで様々な重みづけがある.しかしうまく取捨選択さえすれば,自身の利益になるような情報を比較的容易に得ることができる.例えば,研究職という僕の仕事では,日々新しい知見が世に問われることになる.優良な論文が出てくれば,それはたちまちSNSで話題になる.リアルタイムでこれを同業者と共有できるという時代である.当然,そのような場では実名での交流になるわけなので,SNSといっても僕の場合は半分以上は仕事の範疇という認識がある.
一方,このブログは,仕事の立場とかしがらみを抜きにして,好き勝手に書ける場所(place).例えばフルトヴェングラーについて,僕がどう感じ,何を書こうが,それは学術論文ではないのだから,誰かの査読を受けることもなく,誰かに迷惑かけることもない(明らかに間違っている情報発信を除いて).このことがどれほど貴重であり,心安らぐことであるか.こういう表現が正しいのかわからないが,僕の中にあるpublicとpersonalが行き来する中間領域.そこでこそ自由になれる.だからここではもっともっと遊びたい.
こういうわけで,一見廃墟に見えるブログも生き続けている.時々思い出したようにここに現われて,何かを書くと思います.時間は限られているが,《フルトヴェングラー詣で》も先に進めたいところ.たしか次はチャイコフスキーの《悲愴》(1938年HMV録音)だったな.

《フルトヴェングラー詣で》第43回

2019-04-10 00:33:31 | フルトヴェングラー詣で
♯1938年9月5日〔ライヴ録音〕
♯ウィーン国立歌劇場合唱団・ニュルンベルグ歌劇場合唱団・ニュルンベルク教員合唱団・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
♯ルドルフ・ボッケルマン(ザックス),ユリュス・カトナ(フォーゲルゲザンク),オイゲン・フックス(ベックメッサー),ゲオルグ・ヘッケル(ツォルン),ユリュス・ブロムバッヒャー(モーザー),ハンス・クレン(フォルツ),ヨーゼフ・フォン・マノワルダ(ポーグナー),エーリッヒ・ビュルガー(ナハティガル),ゲオルグ・ハン(コトナー),カール・ミコレイ(アイスリンガー),ヴォルフガンク・マルクグラフ(オルテル),アンドレ・フォン・ディール(シュヴァルツ),アイヴィント・ラホルム(シュトルツィーグ),ティアナ・レムニッツ(エーヴァ),エーリッヒ・ツィメルマン(ダヴィド),ルート・ベルグルント(マグダレーネ),アンドレ・フォン・ディール(夜警)

ワーグナー:楽劇《ニュルンベルグのマイスタージンガー》より抜粋録音

フルトヴェングラー・ファンにとっては心中複雑な記録である.
ナチス・ドイツは1938年3月にオーストリアを併合した.同年9月6日,ナチの党大会がニュルンベルクで開幕し,これにちなんでオーストリアからウィーン国立歌劇場を招き,“ドイツを代表する指揮者”であるフルトヴェングラーに指揮を執らせ,ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を上演させた.場所はニュルンベルク歌劇場である.この実況録音はラジオを通じて世界中に放送され,それをウィーン国立歌劇場の音響担当職員ヘルマン・マイが私的に録音したおよそ90分間の音源が遺された.これが今回扱う抜粋録音である.録音状態は声が比較的よく録れているが,弱音部分で音揺れが目立つ箇所があり,決して万全とはいえない.
今回の試聴には日本フルトヴェングラー協会盤〔WFJ-46-47〕を用いる.この協会盤はKOCH SCHWANNから出ているものより収録部分が多いとされる.なお,稀代のワーグナー・バリトン,ボッケルマンの出番が大半を占めるのは,マイの嗜好とも言われている.この録音で聴く限り,特別すばらしいという感じはしないが,生で接すればまた違ったのであろうか.
第1幕「前奏曲」は冒頭の欠落を除き,ほぼ全曲が聴ける.協会盤はこの欠落を1943年のバイロイト盤で修復しているようだ.フルトヴェングラーの指揮は全体にきびきびしており,ウィーンの弦が熾烈なほどにフレーズの起伏を際立たせている.特に前奏曲の後半になると激烈さはさらに増していき,ティンパニを強打させた大音響がホールを満たしていることがわかる.こういうところのフルトヴェングラーは凄い.
続く「主は汝のもとに来りて」の合唱は情念いっぱいといった風情であり,ザックスとベックメッサーの口論の場面(「待ってください! 師匠方,急がずに」)では,ボッケルマンの声帯が温まっていない感じがするのに対し,フックスはオーケストラを圧するような立派な歌唱を示す.
次に第2幕で6曲が聴ける.まず「リラの香りが和やかに」の部分が始まる.ボッケルマンのザックスは悪くないが,まだまだといった感じだ.管弦楽が際立つ部分になると一気に音楽に生気が増す気がする.ウィーン・フィル持ち前の蠱惑的な音色により,抒情的な雰囲気が一層豊かに再現される.「親方さん,こんばんは」からの二重唱ではボッケルマン以上にエヴァのレムニッツが見事だ.途中激しいサーフェスノイズが入るのが惜しい.「ヨイショ,靴叩きの唄」ではオーケストラの音には限界があるが,芝居に呼応した俊敏な音運びは実感できるだろう.ここでも後半ノイズがきつくなる.続く「これはこれは! あなたは私の自惚れ心を?」,「ベックメッサーのセレナード」,「近所の衆も大騒ぎ」では,ボッケルマンとフックスが朗々とした歌いぶりを示しており,フルトヴェングラーの追い込みも迫真的である.とはいえ,音としてその効果が十分実感されないまま音楽は途切れてしまうことになる.
第3幕は「第3幕への前奏曲」から収録されている.途中3分半だけだが,この部分のホルン重奏は雰囲気が良く,それに続く弦の静謐ともいえるような情感は録音の古さを超えて美しい.「迷いだ!」は本来ならば管弦楽の色合いが刻一刻と移ろうワーグナーの魔術を実感できる場面だが,音質が変動して落ち着かず,残念ながら音楽に酔えない.「わが友よ,楽しき青春の日」も同様である.「ザックス親方,なんて良い人なの」ではエヴァのレムニッツが情感たっぷりに歌うが,特別なものは感じられない.フルトヴェングラーもどうもボッケルマンのペースに合わせているようなところがあり,音楽の陰影が際立たないのは,決して録音だけの問題ではない気もする.貴重な「命名式」の一場面を経て,「五重唱」が収録されているが,演奏云々というより音楽が美しい.これだけ美しいと音の悪さも一時忘れてしまう.「眼覚めよ! 暁は近い」,大団円を迎えるにあたり,オーケストラも合唱も相当気合いの入った演奏を繰り広げていることが伝わってくる.その後,収録されている断片は「親方,皆の衆…」,「この歌は私のものではない」,「ドイツの親方の歌,万歳」と続いていくが,特筆すべき特徴は見当たらない.それでも最後の最後はフルトヴェングラーが小爆発を起こしてくれていることがわかり,ファンとしては救われる.

もう一度

2019-01-25 12:59:57 | クラシック音楽の話題
もう一度聴きたくなってしまう音(音楽)というものがあります.
昨日ふと思ったのが,チェロのヨーヨー・マによるドヴォルザークのコンチェルト(マズアとの再録音盤)で、ニューヨーク・フィルハーモニックのホルン首席奏者が第1楽章第2主題のソロを吹く場面.
これが新譜で出た当時,マの伸びやかで美麗な演奏にも感心したが,それよりもホルンの音にうっとりしてしまったことを覚えている.ホルン奏者の名は,フィリップ・マイヤーズだったかと記憶している.
もう聴かなくなって久しく,おそらく探しても我が家にはないCDだけど,このホルンの美しい音色と懐かしいフレージングだけは,妙にリアルな思い出としてぼくの心で再生され続けている.

デュリュフレのレクイエム

2019-01-19 00:59:09 | クラシック音楽の話題
職場のデスクから望む東京湾の水面に反射する陽ざしは,日ごとに柔らかくなっている.
大切に育てているガジュマルの木の挿し木も,食用レモン(レモネード)の種の発芽も,どちらもうまくいっているようで嬉しさがこみ上げる.
頭が優位な仕事ばかりしていると,いつしか身体のリズムを置き去りにしていることに気付く.自然や植物とのささやかな対話は,刹那な日常のなかにふと咲く花のようだ.
音楽もそうだ.

モーリス・デュリュフレ作曲の《レクイエム》op.9.

これまで何度聴いたか知れない,ぼくが最も大切にしている音楽だ.春に向かうことを確信するような微かなあたたかみを含んだ音がやさしく身体に降り注ぐ.ああ,なんという心地良さだろう! 
聴くのはBISレーベルのSACD-1206という規格番号で出ているスウェーデン放送合唱団(マルムベリ指揮)による演奏.オルガン伴奏版による最美のデュリュフレ.

私的リバイバル

2018-11-21 01:12:45 | クラシック音楽の話題
かつて何度か耳にしているものの,それほど印象に残らず,そのまま聴かなくなってしまったCDがごまんとある.そんなCDから,本当に偶然,ひょんなことからもう一度聴いてみたところ,かつてないほどの感動を覚えたという経験はないだろうか?
最近ぼくは立て続けにそういう経験をした.
ひとつはマタチッチが1983年にウィーン交響楽団を指揮したブルックナーの第9番のライヴ録音だ〔AMADEO 32CD-3124〕.かつてはオーケストラの弱さがマイナス評価だったと記憶しているが,今聴くと,そんなことはどうでも良いほど,曲の本質を鋭く抉り抜いた演奏だと確信した.鋭くといっても,ここに聴くマタチッチの第9は,この曲のある一面である切り詰めたような緊迫感はなく,普段豪壮な芸風からは想像できないほど,表面はどこまでも渋く,また柔らかく広がる世界をもっている.“魂が深い森に還ってゆくような第9”で,これもまたブルックナーの核を“鋭く”突いていると思うのである.このCDを聴く直前,宮崎駿の『もののけ姫』を久々に観たことが影響していたかな?
もうひとつは,ペーター・マークの指揮するベートーヴェンの交響曲第6番《田園》だ〔ARTS 47247-2〕.マークのベートーヴェンはこれが出た20年前は夢中で聴いた気がするのだが,どうにも印象が薄かった.いつしかドイツ的でずっしり重厚な演奏,また強烈なインパクトをもつ巨匠風の演奏の陰に隠れてしまった.でも近年,ベートーヴェンの演奏が変わって,ぼくの認識もずいぶん変わった.ベタ塗りだった重厚な響きが,晴れやかに毛羽立ち,オーケストラの音色は多彩になり,局面ごとに顔色が変わる音楽になった.ベートーヴェンは重くないし,暗くもない.パリッと冴えて躍動する前向きの音楽となった.こういうパラダイム・シフトを経た今,ぼくが再会したマークのベートーヴェンは,イタリアの明るい光と風を音に乗せた演奏と映った.しかもホッとくつろげる安らぎを含んでいる.暗いよりも明るいもの,深いよりも軽やかなものを志向する今のぼくの心に見事にフィットした《田園交響曲》.
こんな私的リバイバルが続けばいいな.

寂寥の雨が降る ~森山直太朗 《とは》~

2018-09-04 00:18:22 | 徒然なるままに・・・
このブログに触れるのは一体いつ以来だろうか.
ぼく自身の変化について事細かに書くことは止そう.一言だけ,昨年9月に慣れ親しんだ信州を離れ,三浦半島の“とある場所”で暮らしています.

今宵は,また,森山直太朗のことです.
ずっとずっと想い続けながら言葉にしてこなかった“とある曲”について・・・.

それは2016年にプロデュースされたアルバム『嗚呼』に含まれていた《とは》.これが凄い曲なんです.
冒頭から3拍子で周回するリズムは,始まりでもなく終わりでもないといった風情をもたらしていて,何とも言えない心地よい振動を身体に刻んでいく.「愛するとは とは 信じるとは とは」の部分に差しかかると,その「とは」という響きが,冥界から響く言霊のように感じられて,かつて知らない時空に放り込まれるような感覚に誘われる.この時点で,ポップスの枠を超えてしまっているのではないか,と思うのだが,本当の聴き所はさらに後半に用意されていた!
それは,直太朗の「今更―」の声によって召喚される“天女”の出現である! その天女とは阿部芙蓉美(あべふゆみ)なのだが,まったく具体的な色をもたない彼女の声こそ,この楽曲がもともと内包している現実と空想の世界が揺らぐ不可思議な魅力を決定づけていると言っても過言ではない.ツアーでは別の人が歌っていたようだが,それを聴いた妻は「まったくダメだった.リアルに歌いすぎ」と評した.なるほど,この指摘はたぶん正しいだろうと思う.それほどまでに,阿部芙蓉美でなくてはならない曲なのだ.
嬉しいことに,先日発売されたニュー・アルバム『822』の特典DVDに《とは》のライヴ映像が入っていて,ここでの阿部芙蓉美も期待通りの名唱を示している.ぼくは彼女を初めて観たのだが,風貌もまた天女よろしくこの世の人とは思えない雰囲気があると言ったら失礼に当たるだろうか・・・.

ぼくは思うのである.「《とは》という曲が発する寂しい雰囲気は一体何なのだろう」と.それは“寂寥”という雨が一斉に降り注いでくるようであり,それでいて心の故郷に還っていくようなある種の“なつかしさ”をも感じさせる.“寂しさ”と“なつかしさ”は相反するものでなくて,生きることの本質ではないか.しかし,そんな思いも,次の瞬間には,「なんて美しい曲なのだろう」というため息に消されてしまう.

《フルトヴェングラー詣で》第42回

2017-03-26 00:44:58 | フルトヴェングラー詣で
♯1938年6月7日〔ライヴ録音〕
♯コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団・管弦楽団(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)
♯フリーダ・ライダー(ブリュンヒルデ),ラウリッツ・メルヒオール(ジークフリート),ウィルヘルム・シルプ(ハーゲン),ヘルベルト・ヤンセン(グンター),アニー・フォン・ストッシュ(グートルーネ)

ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》より第2幕抜粋

コヴェントガーデンの《指環》,前回の《ワルキューレ》に続いて,今度は第2ツィクルス最終日の《神々の黄昏》である.千秋楽ということで聴衆の盛り上がりはいかほどだったか想像するに難くない.フルトヴェングラーとしても相当の意気込みをもって臨んだ公演だ.我々も心を開いて当時の空気感を味わうことにしよう.
抜粋は第2幕第4場と第5場からの約34分半であり,切れ目なく聴けるのがありがたく,比較的音も良いので演奏の気迫が十分に感じとれるだろう.
この第2ツィクルスの聴き物は,ライダーのブリュンヒルデとメルヒオールのジークフリートということになろうが,まさに収録されている部分は純愛を誓ったジークフリートからの裏切りを受けて,ブリュンヒルデが復讐の女に変貌していく部分なので,このコンビの素晴らしさを存分に堪能できる.ワーグナーの音楽自体,肺腑を抉るようなドラマティックな管弦楽が最高度の興奮を伝える名シーンだ.
フルトヴェングラーの筆致は“今ここで”物語に生命を吹き込むようなリアリティと新鮮さに満ち,その表出力(インパクト)には凄まじいものがある.十分に制御されていながら,どちらかというと直情的あるいは動物的な感性が勝っているように感じられるが,ぼくはこういうところが,こと《指環》に限って言うと,後年の録音よりも純粋に物語を愉しめて好きである.
コヴェントガーデンのオーケストラはドイツの手兵と比べればいくらかラフな感じのするところもあるが,劇場的な“勘の良さ”はさすがであり,前述したような意味合いにおいて壮年期のフルトヴェングラーによく追従している.
第4場“グンター万歳!”の部分から入るが,さっそく管弦楽のエネルギーが炸裂する.実際には物凄い音が劇場を満たしていたことだろう.弾力のあるくっきりとしたリズム感も最高で,随所で彼一流のアッチェレランドを織り交ぜながら曲想を自由自在に描いていく.近年テスタメント・レーベルから出て評判になったカイルベルトのバイロイト・ライヴも聴いてみたが,フルトヴェングラーに比べるともっさりとしていて田舎臭い.そう,フルトヴェングラーは垢抜けていて,どこか都会的なセンスを感じさせる.これは重要な要素だ.
ブリュンヒルデとハーゲンが結託してジークフリートの殺害を企てる第5場は,ワーグナーの音楽の中でもとりわけドラマティックで多彩な場面だが,フルトヴェングラーはますます物語の深部を炙り出すような絶妙な雰囲気を作っている.終結部のド迫力と破壊力はまさに極限をいくものであり,その熱狂の中にもワーグナーの魔性の美が溢れかえっている.鬼神フルトヴェングラーの真骨頂と言わずして一体何になろう!
今回もドイツのフリーダ・ライダー協会によるCD-R〔FLG 19361938〕で試聴した.現状これが最も鮮明な音だと思う.他にどれも古いCDだが,PEARL〔GEMM CD 9331〕,EKLIPSE〔EKR 62〕,DANTE〔LYS219-221〕も聴いてみた.それぞれ持ち味は違うが,演奏そのものの凄みを損ねるほどの違いではない.まずは入手できたものを聴こう.
壮年期のフルトヴェングラーの《指環》は愉しい.是非そのことを実感していただきたいと願っている.