秋田小一男児殺害事件は近隣に住む畠山鈴香容疑者による犯行で大騒ぎの逮捕劇を向かえた。
ワイドショーをはじめとする報道番組ではお決まりの、近隣住民、同級生らへの取材合戦。そしてどこからか沸いてくる卒業アルバムと卒業文集の報道で沸き返っている。
そして、近隣住民のインタビューでは「前からやると思ってた」だの「日ごろの素行が悪い」だのといったこれまたお決まりのインタビュー内容に終始。
いつも思うんだけど、実はそんなに容疑者とつながりのなんか無い田舎のジジイやババアがここぞとばかりに得意げにインタビューに答えてる。
あれって・・・どうなん?ってよく思うことあるけど、ま、殺人を犯してしまった犯人には同情の余地はなく、ある程度はいたしかたないことかとも思っている。
しかも今回は大人を疑う事をしらない小さな子供が標的だ。
しかし、しかしである。
(ま、事前に繰り返し言うがどんな理由があるにせよ、小さな子を殺してしまった畠山鈴香にまったく同情の余地はない。)
あの卒業文集の寄せ書きにワタシは大変な違和感を覚えた。
もうインターネット上では大量に出回っている画像だが、こちらを見ていただきたい。
これは同級生から畠山鈴香に対する卒業記念の寄せ書きである。
会ったら殺す
もうこの秋田には帰ってくるなョ
今までいじめられた分、強くなったべ 俺達にかんしゃしなさい。
秋田から永久追放
顔をださないよーに!
同級生によるアンケート
・有名になりそうな人 畠山鈴鹿…自殺・詐欺・強盗・全国指名手配・変人大賞・女優・殺人・野生化
この寄せ書きをマスコミ側は、
畠山鈴香が若い頃からどれだけ人から嫌われていたか、異質な存在であったか、また殺人を起こしかねない人物だったかを強調する為に報道したと思われる。
しかし、ワタシはそんな事よりこんな考えられない内容の文章が卒業の寄せ書きとして堂々と存在している事が信じられなかった。
これは、学校が印刷して卒業生全員に配布したものではなかったのか?
この当時の担任の教員はこの文章を読んだのだろうか?
そしてそれに対して何の注意も行わなかったのだろうか?
世の中にはいろんな人物がいて、みんなから好かれる人、暗くてみんなから敬遠されている人、いろんな人がいる。
クラスの中でも大抵暗い子や性格の悪い子たちは嫌われていたり、いじめの対象になったりしていた。それは今も昔も、大人でも子供の世界でも変わらない事だ。
しかし、私は「暗い子、異質な子はいじめてられやすい。」ということは暗黙にはわかっていても、決して公には認めてはならない。それが社会のルールだと思っている。
いじめは絶対になくならない。イヤな奴はなんだかんだ言っても嫌われるし、いじめられやすい人はいじめられるのが世の常だ。
でも、例え建前でもいじめをやってはいけない。いじめをなくそう。
と生徒達に声高らか言える機関が学校ではないのか?
畠山鈴香の担任教員は一体何をやっていたのだろうか?
たとえ嫌われて当然の子であっても、こんな読むに耐えない寄せ書きを編集させるとはどういうことだ?本当に教師か?
高校生活最後の同級生からの寄せ書きが「会ったら殺す」。だぞ。
今はまったくそう思わないが、高校生くらいまでは学校で教えてもらう事は正しいと思っていた。先生の言うことも正しいと思っていた。先生は正しいものの味方をし、悪いことに対しては毅然と悪いと言ってくれる人だと思っていた。
ワタシは畠山鈴香と年齢が近いのだが、あの頃は先生に対して悪態をつく生徒もいたが、本当は先生にかまってほしい子ばかりだったと思う。
学校という場ですら畠山鈴香は最後まで先生に助けてもらえなかった。
そして、高校最後の思い出の文集に殺すと書いたクソ同級生。
畠山鈴香の同級生としてしたり顔でインタビューを受けたのだろうか?
はっきり言って私には同類にしか見えない。
最後の卒業寄せ書きくらい、いくら嫌いであっても「お元気で」くらい書くという常識は高校生にもなって沸かなかったのか?
なんども言うが私は人を疑うことを知らない子供を殺す奴などまったく同情の余地は無いと思っている。しかし、畠山鈴香の卒業文集を読み、彼女が育った環境が殺人犯畠山鈴香を生んだのかもしれないと思ってしまった。
この読むに耐えない寄せ書きの中に「頑張ってね。くじけるんじゃないよ」という一文があった。卒業のはなむけとしては普通の言葉だが、その文章に妙にせつなさを感じた。
もちろん畠山は無期でも軽すぎるんだが、この周囲の奴らにも何らかのバツが下ることを望みます。
私の思考が屈折してるだけかもしれないが、それはそれで辛い言葉に感じるし。書いた人物が好意的に書いたかどうかも疑問を感じる。