夏至を過ぎると、季節は夏だ。
気象庁は意固地なものでなかなか梅雨明けを宣言しないけど、季節はそういうものに縛られたりしない。
インクを垂らしたような青空は、長い雨に磨き抜かれて、本来の輝きを取り戻している。
ぷかりと浮かぶ雲は完璧というほど白くて、夏への自信をにじませている。
校庭の片隅に静かなイチョウの木立があって、そこは最近見つけたお気に入りの場所だ。
手の平をお椀型に合わせると"光の雫"がすくえるのではないかと思うくらい、光と影がみずみずしいコントラストを作る。
そんなこもれびのベンチはこの上なくすがすがしくて、不都合なことなどまるで無い、という気持ちになる。
セミもまだ鳴き始めていない。
湿度の高い季節特有の、さわさわという風の音もない。静かだ。
一年のうちほんの数日、こんな季節がやってくる。
だから、午前中の体育の授業くらいサボっても構わない。
不都合なことなど、どこにあるだろう。
ぼくはまどろみかけていた。
すべての思考を放棄して。
しばらく、余計なことを考えすぎた。
これまでが考えなすぎただけなんだろうけど――。
「君、宮野水無月くんだよね?」
後ろからの声にぎょっとする。
一応、良くないことをしているという認識はある。
振り向くと、背が高くて白いベストを着た女子がいた。
「サボりとはいいご身分だね」
背後を取ったのが嬉しいのか、得意げな表情を顔に浮かべている。
「……あなたは?」
「私?私は川島潤子というしがない女だよ」
「そうじゃなくて……どうしてこんな所にいるんですか」
「まあちょっと、教室から君の姿が見えたから」
指差す先は一年の教室がある校舎、三階は数字の大きいクラスだ。
つまりこの人もサボりということか。
「座ってもいい?」
「――どうぞ」
ベンチの片側を空けると、どっしりと腰を据える川島潤子。
長くなりそうだ。
皐月が言うには、川島潤子はざっくりしていてはっきりしていてどっしりしている人らしい。
なるほど。
「悩み、あるんじゃない?」
やぶから棒だな、とぼくは思う。
無きにしも有らずだけど、悩みと言えるほどの大層なものではないかもしれない。
そもそも、"考えるべきこと"と"悩み"とは果たして同じものなのだろうか。
「君は面白い人だね」
変わっているとはよく言われるけど、面白いと言われたことはない。
面白がるほどのものではないと思う。
「君を見ていると何だか安心する」
「……どういうことですか?」
さっきからのこれは会話ではない。
ただ一方的に言いたいことを言われている。
傍若無人だ。
ぼくの苦手なタイプだ。
「君の彼女だけど、あれはあれでいい奴だから大事にしてやってよ。時々考えが足りないこともあるけどさ」
「彼女なんていませんから」
「残念ながら……時間の問題だよ。君が恐れなければ、の話だけど」
川島潤子は音の響きを熟知している人のように、その言葉を極めてしっとりと吐く。
異物の挟まった喉を傷つずに異物だけを抜き取ろうとしているようにも見える。
そして、再び無音の時間が訪れる。
確かにすがすがしかったはずの静寂も、もはや同じものではない。
どこか居づらくて、静寂と言うよりこれはただの沈黙だ。
空の高い所でトビが鳴いた。
街にもいるんだな、と思う。
鳥はいい。
鳥は昨日も今日も、変わらずに空を舞う。
「――例えば、文字を読むように、人の心がわかったらなぁ」
突然、沈黙を破るように川島潤子が言う。
「――例えば、大事なものだけ傷つけないように、とっておけたらなぁ」
その声は、用意されていた特別な詩を朗読するように、優しく響く。
みずみずしい光の雫がさらさらと揺れる。
ぼくはその言葉を粗く噛み砕く。
「私はそう思うよ」
「簡単にはいかないんですよね」
「簡単にはいかないから面白いんだけどね。なかなかそうは思えないよね」
人の心を理解することと、大切なものを守ること。
一つは必要のなかったことで、一つは当たり前すぎて気づかなかったことだ。
おそらくぼくは、その両方を同時にしないといけないのだろう。
「わかるなあ、私、君の気持ち。でも、協力はしてあげない」
「いいですよ、別に」
「君と私は似たもの同士だね」
「……ぼくはそうは思いませんけど」
「それでいいよ」
湿度の高くない時の風は、葉っぱと葉っぱのすき間をなでるように流れていく。
水をよく覚えている葉っぱに、風を思い出させようとしているようだ。
遠くでピリピリピリと大きな笛の音がする。
ともすれば、その笛を至近距離で聞いていたかと思うと、この時間の安らかさは一層貴重だ。
川島潤子に邪魔をされたときはすごく残念に思ったけど、それも帳消しにしよう。
「ここにはよく来るの?」
「最近見つけたんです」
「それにしても、いい季節になったね」
「……あっという間に暑くなりますけどね」
「それがいいんじゃない。短命なものほど素敵だと思わない?
最も価値のあるものは、いつか失われるから本当に価値があるんだよ」
もしそうなのだとしたら、失われるものの価値を守るためにすら、失われることを潔しとしなければならない。
悲しいことだけど、それは事実だろう。
「夏は嫌いですか?」
「好きだよ、もちろん。でも、あんまり梅雨が気持ちいいと、いつまでも夏にならなくてもいいかなって思うよ」
仕方ないと言うように、川島潤子はにこっと笑った。
安らかな雨の季節が激しい太陽の季節に飲み込まれるように、日々の安寧は失われるものだ。
凪いだ海は、風が吹くだけでさざ波が立つ。
波はやがて大きくうねり、人を飲み込むだろう。
「川島さんって、もっと豪放磊落な人かと思ってました」
「君ねえ、私をなんだと思っているの?」
「姉の話だと、相当な変わり者だって聞いてましたから」
「皐月ひどいなあ。でも、変わり者ぐあいでは、君に勝てる気はしないかな」
さっきからこの人は、ぼくの一体何を知っていると言うんだろう。
どの性質をもって変わり者と言うのか、心当たりが多すぎて解らない。
「でも人間ってさ、無意識のうちに、自分の生まれた季節を好きになると思うんだ。
私もそう。誕生日、7月――日なの。もうすぐでしょ。良かったら覚えといて」
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気象庁は意固地なものでなかなか梅雨明けを宣言しないけど、季節はそういうものに縛られたりしない。
インクを垂らしたような青空は、長い雨に磨き抜かれて、本来の輝きを取り戻している。
ぷかりと浮かぶ雲は完璧というほど白くて、夏への自信をにじませている。
校庭の片隅に静かなイチョウの木立があって、そこは最近見つけたお気に入りの場所だ。
手の平をお椀型に合わせると"光の雫"がすくえるのではないかと思うくらい、光と影がみずみずしいコントラストを作る。
そんなこもれびのベンチはこの上なくすがすがしくて、不都合なことなどまるで無い、という気持ちになる。
セミもまだ鳴き始めていない。
湿度の高い季節特有の、さわさわという風の音もない。静かだ。
一年のうちほんの数日、こんな季節がやってくる。
だから、午前中の体育の授業くらいサボっても構わない。
不都合なことなど、どこにあるだろう。
ぼくはまどろみかけていた。
すべての思考を放棄して。
しばらく、余計なことを考えすぎた。
これまでが考えなすぎただけなんだろうけど――。
「君、宮野水無月くんだよね?」
後ろからの声にぎょっとする。
一応、良くないことをしているという認識はある。
振り向くと、背が高くて白いベストを着た女子がいた。
「サボりとはいいご身分だね」
背後を取ったのが嬉しいのか、得意げな表情を顔に浮かべている。
「……あなたは?」
「私?私は川島潤子というしがない女だよ」
「そうじゃなくて……どうしてこんな所にいるんですか」
「まあちょっと、教室から君の姿が見えたから」
指差す先は一年の教室がある校舎、三階は数字の大きいクラスだ。
つまりこの人もサボりということか。
「座ってもいい?」
「――どうぞ」
ベンチの片側を空けると、どっしりと腰を据える川島潤子。
長くなりそうだ。
皐月が言うには、川島潤子はざっくりしていてはっきりしていてどっしりしている人らしい。
なるほど。
「悩み、あるんじゃない?」
やぶから棒だな、とぼくは思う。
無きにしも有らずだけど、悩みと言えるほどの大層なものではないかもしれない。
そもそも、"考えるべきこと"と"悩み"とは果たして同じものなのだろうか。
「君は面白い人だね」
変わっているとはよく言われるけど、面白いと言われたことはない。
面白がるほどのものではないと思う。
「君を見ていると何だか安心する」
「……どういうことですか?」
さっきからのこれは会話ではない。
ただ一方的に言いたいことを言われている。
傍若無人だ。
ぼくの苦手なタイプだ。
「君の彼女だけど、あれはあれでいい奴だから大事にしてやってよ。時々考えが足りないこともあるけどさ」
「彼女なんていませんから」
「残念ながら……時間の問題だよ。君が恐れなければ、の話だけど」
川島潤子は音の響きを熟知している人のように、その言葉を極めてしっとりと吐く。
異物の挟まった喉を傷つずに異物だけを抜き取ろうとしているようにも見える。
そして、再び無音の時間が訪れる。
確かにすがすがしかったはずの静寂も、もはや同じものではない。
どこか居づらくて、静寂と言うよりこれはただの沈黙だ。
空の高い所でトビが鳴いた。
街にもいるんだな、と思う。
鳥はいい。
鳥は昨日も今日も、変わらずに空を舞う。
「――例えば、文字を読むように、人の心がわかったらなぁ」
突然、沈黙を破るように川島潤子が言う。
「――例えば、大事なものだけ傷つけないように、とっておけたらなぁ」
その声は、用意されていた特別な詩を朗読するように、優しく響く。
みずみずしい光の雫がさらさらと揺れる。
ぼくはその言葉を粗く噛み砕く。
「私はそう思うよ」
「簡単にはいかないんですよね」
「簡単にはいかないから面白いんだけどね。なかなかそうは思えないよね」
人の心を理解することと、大切なものを守ること。
一つは必要のなかったことで、一つは当たり前すぎて気づかなかったことだ。
おそらくぼくは、その両方を同時にしないといけないのだろう。
「わかるなあ、私、君の気持ち。でも、協力はしてあげない」
「いいですよ、別に」
「君と私は似たもの同士だね」
「……ぼくはそうは思いませんけど」
「それでいいよ」
湿度の高くない時の風は、葉っぱと葉っぱのすき間をなでるように流れていく。
水をよく覚えている葉っぱに、風を思い出させようとしているようだ。
遠くでピリピリピリと大きな笛の音がする。
ともすれば、その笛を至近距離で聞いていたかと思うと、この時間の安らかさは一層貴重だ。
川島潤子に邪魔をされたときはすごく残念に思ったけど、それも帳消しにしよう。
「ここにはよく来るの?」
「最近見つけたんです」
「それにしても、いい季節になったね」
「……あっという間に暑くなりますけどね」
「それがいいんじゃない。短命なものほど素敵だと思わない?
最も価値のあるものは、いつか失われるから本当に価値があるんだよ」
もしそうなのだとしたら、失われるものの価値を守るためにすら、失われることを潔しとしなければならない。
悲しいことだけど、それは事実だろう。
「夏は嫌いですか?」
「好きだよ、もちろん。でも、あんまり梅雨が気持ちいいと、いつまでも夏にならなくてもいいかなって思うよ」
仕方ないと言うように、川島潤子はにこっと笑った。
安らかな雨の季節が激しい太陽の季節に飲み込まれるように、日々の安寧は失われるものだ。
凪いだ海は、風が吹くだけでさざ波が立つ。
波はやがて大きくうねり、人を飲み込むだろう。
「川島さんって、もっと豪放磊落な人かと思ってました」
「君ねえ、私をなんだと思っているの?」
「姉の話だと、相当な変わり者だって聞いてましたから」
「皐月ひどいなあ。でも、変わり者ぐあいでは、君に勝てる気はしないかな」
さっきからこの人は、ぼくの一体何を知っていると言うんだろう。
どの性質をもって変わり者と言うのか、心当たりが多すぎて解らない。
「でも人間ってさ、無意識のうちに、自分の生まれた季節を好きになると思うんだ。
私もそう。誕生日、7月――日なの。もうすぐでしょ。良かったら覚えといて」
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