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Imaginarry Affairr

Tears sheded like a cherry

INDEX「桜さく、このうららかな堤」

2011年04月10日 00時00分00秒 | Novel「桜さく、このうららかな堤」
桜さく、このうららかな堤 -Cherry Blossoms on This Sunny Bright Bank-

 Echoed many many sounds. Roughly dirty street. Silent sunset to the holizon.
 At the evening, I feel all what I see is not in real.

 反響する無数の音。がさつな路地。音もなく沈む夕日。景色はすべて実在ではない気がする、そんな夕方。

 初めてお越しになった方、"春分 プロローグ"よりご覧ください。

INDEX(本編)
  Spring
  春分 プロローグ
清明-1「晩酌」
清明-2「葉桜」
清明-3「夜風」
清明-4「桜もち」
  季節の変わり目-i
穀雨-1「白昼夢」
穀雨-2「青」
穀雨-3「ツツジ」
穀雨-4.1「針」
穀雨-4.2「エプロン」
  季節の変わり目-ii
立夏-1「ピアノ」
立夏-2「ビワ」
立夏-3「猫」
立夏-4「ツバメ」
  季節の変わり目-iii
 
  Rainy Season
小満-1「クローバー」
小満-2「雨足」
小満-3.1「氷砂糖」
小満-3.2「傘」
小満-4「アゲハ1」
  季節の変わり目-iv
芒種-1「サツキバレ」
芒種-2「曇天」
芒種-3「月夜」
芒種-4.1「アジサイ」
芒種-4.2「水たまり」
  季節の変わり目-v
  Summer
夏至-1「夕日」
夏至-2「こもれび」
夏至-3「ノウゼンカズラ1」

夏至-3「ノウゼンカズラ1」(by水無月)

2010年07月02日 18時42分15秒 | Novel「桜さく、このうららかな堤」
 キシキシと階段の音が聞こえると、それは"晩酌"の合図だ。
 「あ~涼しい~」と顔を上気させながら、皐月が部屋に入ってくる。

 「熱い人が来るから冷やしといたよ」
 「……何。嫌な言い方」

 ぽんとコップが置かれる。
 氷の浮いたスプライトだ。

 「もしかして絵描いてた?」
 「うん」
 
 「うんって…テスト勉強は?」
 「だいたいしたよ。今は息抜き」

 「のんきなのね」
 
 そう言って皐月はごくごくと喉を鳴らす。

 風呂あがりの皐月は、強烈な香りを身にまとっている。
 この頃は入浴剤に凝っているのだ。

 ぼくは風呂の順番が一番遅いので、嫌でもその"恩恵"を受けることになる。
 鼻をひくつかせるまでも無く、今日の入浴剤はどうやらハニーレモンだ。

 でもどんな香りで包んでも、それが皐月なら、目隠しをしてでも見つけだす自信がある。

 先のちびた2B鉛筆を置く。
 『息抜き』のはずがかえって疲労してしまったデッサンを投げ出して、グラスに手を伸ばす。
 
 スプライトの炭酸が爽やかに甘い。
 
 よほど暑いのか、皐月はパジャマの胸元をぱたぱたさせている。

 「いい加減、下着つけたら?」

 うちの姉は、寝るときに下着をしない。
 昔からそうだし、それなりに信念もあってのことだそうだ。
 でも、皐月にはあまり無防備でいてほしくない。

 「……余計なお世話」
 膝を抱えて胸を隠す。
 
 「どうせ後は寝るだけなんだからいいでしょ」
 「寝てるときが大事なんだよ」
 
 ぼくは反論する。

 「重力には勝てないんだから」
 「もう。生々しい話しないでっ」

 グラスの水滴がついたティッシュをぶつけてきた。
 中学の頃バスケットで鍛えたスナップは、いまだ健在らしい。
 ぼくは床に落ちたティッシュを拾って、ごみ箱に投げ入れる。

 「暑い。冷房強くして」
 「はいはい」
 
 設定を20度まで下げる。

 スプライトをくゆらせながら、さっきまで描いていた絵をまた眺める。
 改めて、出来は悪いと思う。

 紙の上のデッサンのアジサイは、どこか熱情に欠けている。
 あの鮮烈な色あいを網膜に再現できるような姿ではない。
 諦めて、ケント紙を4つに折り畳む。

 「皐月は好きな花ある?」
 「好きな花?そうねぇ……。今の時期ならノウゼンカズラかな」
 「ああ。毎年隣のうちに咲くよね」
 
 オレンジ色をしていて、垂れ下がったツルからしだれるように咲く花。
 ノウゼンカズラが咲くと、夏が来るのだと思う。
 夏が来ることからは逃れられない。

 「奔放でだらしなくて、"遊んでます"っていう感じが好きなの」
 「そんな理由なの?」
 
 好きな理由としてはどうかと思うけど、面白いと思う。

 「ノウゼンカズラは………」

 言いかけて、皐月は口をつぐむ。
 
 「どうかした?」
 「ううん。何でもない」

 それから、まるで『ノウゼンカズラ』がキーワードだったみたいにふさぎ込んでしまう。
 この所、たまにこうだ。

 そのふさぎ込みの理由に心当たりはある。
 でも、ぼくにはどうにもできないことだ。
 
 皐月は"悩ましい"表情をしているときが、一番色っぽい。
 学校では少しも隙を見せないくせに、家では時に、ガラスのように繊細だ。
 そんな皐月を壊したくないと思ってしまう。

 本当は力になってあげたほうがいいのかもしれないけど、それを躊躇してしまう。

 「水無月は?好きな花」
 「……やっぱりアジサイかな」
 「もう時期、終わったじゃない」

 「画家はね、愛していないモチーフは描けないんだよ」
 「『画家は』じゃなくて『ぼくは』でしょ。そんなの全然一般論じゃないわ」
 
 冷静な批評に、笑ってとぼける。

 皐月はこれから、もっともっと綺麗になる。
 蝶に例えるなら、今はまだ幼虫だ。
 いや、そろそろサナギだろうか。

 どちらにしても、その潜在的な羽根は、まだ一度も日の光を浴びていない。
 その羽根を縛っているのがぼくだ。

 気がつくと、皐月はぼくのそばに立って、さっき4つ折にしたアジサイを開いて眺めている。
 レモンの香りがつんと鼻をつく。
 少し気分も落ち着いたみたいだ。

 「うまいものね」
 「まさか」
 
 「いつか私の絵も描いて」
 「どんな絵がいい?」

 「制服、着てるところがいいな」

 制服。
 この人は、自分のどんな姿が魅力的に見えるかを熟知している。
 それは本能的なものなのだろう。
 嬉しくなって、ぼくは請け負う。
 
 「必ず描くよ」

 残り少ないスプライトを喉に流しこむ。
 炭酸が減って、氷が溶けて、雨のような味だった。

 「もう寝るわ。水無月も、ほどほどにしなさいよ」
 
 「皐月」
 グラスを洗いに行こうとする皐月を呼び止める。

 「もっと頼って」
 ほとんど"意を決して"そう言うと、またもの悲しげな顔をする。

 「あなたらしい台詞ね」

 こういう時、ありがとう、とは言わない。
 頼りにしてる、なんて絶対に言わない。

 良かった。
 まだ変わっていないところもちゃんとある。

 しばらくして、隣の部屋からドライヤーの音が聞こえてくる。
 皐月は毎日入念にドライヤーを当てて、いつもきっちり6時間眠る。



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夏至-2「こもれび」(by水無月)

2010年06月21日 11時58分13秒 | Novel「桜さく、このうららかな堤」
 夏至を過ぎると、季節は夏だ。
 気象庁は意固地なものでなかなか梅雨明けを宣言しないけど、季節はそういうものに縛られたりしない。

 インクを垂らしたような青空は、長い雨に磨き抜かれて、本来の輝きを取り戻している。
 ぷかりと浮かぶ雲は完璧というほど白くて、夏への自信をにじませている。
 
 校庭の片隅に静かなイチョウの木立があって、そこは最近見つけたお気に入りの場所だ。
 手の平をお椀型に合わせると"光の雫"がすくえるのではないかと思うくらい、光と影がみずみずしいコントラストを作る。
 そんなこもれびのベンチはこの上なくすがすがしくて、不都合なことなどまるで無い、という気持ちになる。
 
 セミもまだ鳴き始めていない。
 湿度の高い季節特有の、さわさわという風の音もない。静かだ。
 
 一年のうちほんの数日、こんな季節がやってくる。
 
 だから、午前中の体育の授業くらいサボっても構わない。
 不都合なことなど、どこにあるだろう。
 
 ぼくはまどろみかけていた。
 すべての思考を放棄して。
 
 しばらく、余計なことを考えすぎた。
 これまでが考えなすぎただけなんだろうけど――。
 
 「君、宮野水無月くんだよね?」
 
 後ろからの声にぎょっとする。
 一応、良くないことをしているという認識はある。
 振り向くと、背が高くて白いベストを着た女子がいた。
 
 「サボりとはいいご身分だね」
 背後を取ったのが嬉しいのか、得意げな表情を顔に浮かべている。
 
 「……あなたは?」
 「私?私は川島潤子というしがない女だよ」
 
 「そうじゃなくて……どうしてこんな所にいるんですか」
 「まあちょっと、教室から君の姿が見えたから」
 
 指差す先は一年の教室がある校舎、三階は数字の大きいクラスだ。
 つまりこの人もサボりということか。
 
 「座ってもいい?」
 「――どうぞ」
 
 ベンチの片側を空けると、どっしりと腰を据える川島潤子。
 長くなりそうだ。
 皐月が言うには、川島潤子はざっくりしていてはっきりしていてどっしりしている人らしい。
 なるほど。
 
 「悩み、あるんじゃない?」
 
 やぶから棒だな、とぼくは思う。
 無きにしも有らずだけど、悩みと言えるほどの大層なものではないかもしれない。
 そもそも、"考えるべきこと"と"悩み"とは果たして同じものなのだろうか。 
 
 「君は面白い人だね」
 
 変わっているとはよく言われるけど、面白いと言われたことはない。
 面白がるほどのものではないと思う。 
 
 「君を見ていると何だか安心する」
 「……どういうことですか?」
 
 さっきからのこれは会話ではない。
 ただ一方的に言いたいことを言われている。
 
 傍若無人だ。
 ぼくの苦手なタイプだ。
 
 「君の彼女だけど、あれはあれでいい奴だから大事にしてやってよ。時々考えが足りないこともあるけどさ」
 「彼女なんていませんから」
 
 「残念ながら……時間の問題だよ。君が恐れなければ、の話だけど」
 
 川島潤子は音の響きを熟知している人のように、その言葉を極めてしっとりと吐く。
 異物の挟まった喉を傷つずに異物だけを抜き取ろうとしているようにも見える。
 
 そして、再び無音の時間が訪れる。
 確かにすがすがしかったはずの静寂も、もはや同じものではない。
 どこか居づらくて、静寂と言うよりこれはただの沈黙だ。
 
 空の高い所でトビが鳴いた。
 街にもいるんだな、と思う。
 鳥はいい。
 鳥は昨日も今日も、変わらずに空を舞う。
 
 「――例えば、文字を読むように、人の心がわかったらなぁ」
 
 突然、沈黙を破るように川島潤子が言う。
 
 「――例えば、大事なものだけ傷つけないように、とっておけたらなぁ」
 
 その声は、用意されていた特別な詩を朗読するように、優しく響く。
 みずみずしい光の雫がさらさらと揺れる。
 ぼくはその言葉を粗く噛み砕く。
 
 「私はそう思うよ」
 
 「簡単にはいかないんですよね」
 「簡単にはいかないから面白いんだけどね。なかなかそうは思えないよね」
 
 人の心を理解することと、大切なものを守ること。
 一つは必要のなかったことで、一つは当たり前すぎて気づかなかったことだ。
 おそらくぼくは、その両方を同時にしないといけないのだろう。
 
 「わかるなあ、私、君の気持ち。でも、協力はしてあげない」
 「いいですよ、別に」
 
 「君と私は似たもの同士だね」
 「……ぼくはそうは思いませんけど」
 「それでいいよ」
 
 湿度の高くない時の風は、葉っぱと葉っぱのすき間をなでるように流れていく。
 水をよく覚えている葉っぱに、風を思い出させようとしているようだ。
 
 遠くでピリピリピリと大きな笛の音がする。
 ともすれば、その笛を至近距離で聞いていたかと思うと、この時間の安らかさは一層貴重だ。
 川島潤子に邪魔をされたときはすごく残念に思ったけど、それも帳消しにしよう。
 
 「ここにはよく来るの?」
 「最近見つけたんです」
 
 「それにしても、いい季節になったね」
 「……あっという間に暑くなりますけどね」  
 「それがいいんじゃない。短命なものほど素敵だと思わない?
  最も価値のあるものは、いつか失われるから本当に価値があるんだよ」
 
 もしそうなのだとしたら、失われるものの価値を守るためにすら、失われることを潔しとしなければならない。
 悲しいことだけど、それは事実だろう。
 
 「夏は嫌いですか?」
 「好きだよ、もちろん。でも、あんまり梅雨が気持ちいいと、いつまでも夏にならなくてもいいかなって思うよ」
 
 仕方ないと言うように、川島潤子はにこっと笑った。
 
 安らかな雨の季節が激しい太陽の季節に飲み込まれるように、日々の安寧は失われるものだ。
 
 凪いだ海は、風が吹くだけでさざ波が立つ。
 波はやがて大きくうねり、人を飲み込むだろう。
 
 「川島さんって、もっと豪放磊落な人かと思ってました」
 
 「君ねえ、私をなんだと思っているの?」
 「姉の話だと、相当な変わり者だって聞いてましたから」
 
 「皐月ひどいなあ。でも、変わり者ぐあいでは、君に勝てる気はしないかな」
 
 さっきからこの人は、ぼくの一体何を知っていると言うんだろう。
 どの性質をもって変わり者と言うのか、心当たりが多すぎて解らない。

 「でも人間ってさ、無意識のうちに、自分の生まれた季節を好きになると思うんだ。
  私もそう。誕生日、7月――日なの。もうすぐでしょ。良かったら覚えといて」
 
 
 
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夏至-1「夕日」(by水無月)

2010年06月20日 17時39分02秒 | Novel「桜さく、このうららかな堤」
 人の好意を受ける価値がないと思う。
 一方で、人の好意には誠実でありたいとも思う。
 
 「今日はありがとう」
 一緒にいただけなのに、ありがとうと言われた。
 ベッドに寝そべって、今日あったことをぼんやりと振り返っていた。
  
 皐月ならどうする?
 これ以上皐月に甘えたらいけないって、思うのだけど……。

 会いたいと思ったタイミングで、部屋のドアがなる。
 
 「やっほー。元気?」
 
 元気ではなかったけど、そのしっとりとした声に少し元気になった。
 
 「そこ私の特等席なのに」
 
 皐月はぼくの勉強机の椅子を引き、そっちに座る。
 特等席と言うけど、ここはぼくのベッドだ。
 
 しばらく雨が続いていたけど、昨日今日あたりからまた日が照るようになってきた。
 皐月はそれに合わせるように、涼し気な夏服でコーディネートしている。
 
 白いコットンのチュニックと黒のショートパンツ。
 シンプルだけど、似合ってる。
 
 寝る前のわずかな時間は別にして、皐月は家でもあまりはしたない格好はしない。
 仮に肌を広く露出させていても、胸元や腰回りといった最低限の範囲は確実に覆っている。
 
 「どうだった?」
 「どうって、何が?」
 
 「今日のデート」
 「そんなんじゃないから」
 「デートだよ。誰が見ても」
 
 辛い話が始まる。まぁ、予想はしていたけど。
 でも皐月には、そんなことを言わないでいて欲しかった。
 
 「付き合わないの?」
 「どうしてそうなるの」
 「絵美、たぶん水無月のこと好きなんだよ」
 
 自分で言うのもなんだけど、そんなことは解っている。
 解っていても認めたくないこともあって、でも、誠実でなければならないとも思っていて、その間でぼくは悩んでいる。
 
 「ずるいよ」
 
 皐月を非難する。
 
 「そういうふうに言うのはずるい」
 
 変わらないね。と皐月は笑う。
 変わらなくていいなら、それに越したことはないとぼくも思う。
  
 のっそりと体を起こして、椅子の皐月と向き合うようにベッドの縁に座る。
 
 これは、話を変えようというときの間の使い方だ。
 皐月もそれを熟知していて、何を話してくれるの、という期待が膨らんでいくのが解る。
 
 「今日、何してた?」
 「英語の予習とか宿題。あとは読書と散歩くらいかな」
 
 「散歩の時、何考えてた?」
 「うーん。半分くらいはあなたのことよ」
 
 「体の調子はどう?」
 「いつも通り。すこぶるいいよ」
 
 「また綺麗になったね」
 「いつもそれ言う。もう信憑性ないよ」
 
 お世辞ばっかり。という口調で言うけど、そんなことはない。
 そんなことはないと教えてあげたい。
 
 真っすぐに目を見る。
 そこに湛えられた、長い長い時間の経過とたくさんの愛情の蓄積を見る。
 
 「来て」
 
 ぼくはベッドに座ったままで、皐月に両手を差し向ける。
 皐月はあまり快さそうな表情はせず、でも言われた通りに椅子をベッドにぐんと近づけてくる。
 
 膝と膝とを互い違いにはさむようにする。
 顔を寄せて、首筋の香りをかぐようにする。
 
 「近い近い」
 皐月が慌てるような声を出す。
 その微妙な音色で、本当に慌てているのか、ただの戯れなのかがぼくには解る。
 
 一度体を離す。
 穏やかで、すべてを解っているという表情。
 すべてを解っているくせに、あんなことを言うんだね。
 
 「触ってもいい?」
 「首から上ならね」
 
 そう言って、皐月は目を閉じる。
 上のまつげと下のまつげが交差する。
 
 ぼくはその頬に二本の指で触れて、皐月はそこにもたれかかるように首をあずけてくる。
 
 耳に、髪に、首筋に触れる。
 鼻筋、まぶた、前髪、その感覚を刻むように指で確かめる。
 これまで覚えていたのと少し違う、前より魅力を増した女の輪郭線。
 
 「皐月だったら簡単なのに」
 「うん。分かってる」
 
 ぼくが皐月だったらどんなに簡単だっただろう。
 ……皐月になりたい。
 
 もう離して。
 皐月が言うので手を離す。
 目が合ったら自然にキスをするような距離なので、ぼくは少し目を伏せる。
  
 「ぼくの何がいいんだろうね」
 
 「それを私が言ったら、なんにも面白くないよ」
 「確かにそうだね」
 
 「いいところ、いっぱいあるよ。絵美もきっと分かってるよ」
 
 そんなのどうでもいいって思っただろう。少し前のぼくなら。
 でも今は、そこまで邪険な気持ちは沸いてこない。
 ただ、心が空っぽになる。
 
 落とした目をそのまま皐月の体に向ける。
 
 「今日の服かわいい」
 「何?いきなり」
 
 わざと話題をずらす。
 少し皐月を困らせたいという思いがあった。
 そうやって、細かい砂が指の間をすりぬけていくのを妨げている。
 
 「首から下は、触ったらだめ?」
 
 皐月は呆れたように口びるを結んで、もう、と怒ったふりをする。
 
 「全部はだめ。肩から先だけならいいよ」
 
 口調を少し強くして、もうそれだけだと言っている。
 
 「それ以上はだめなんだ」
 「もうだめ」
 
 春。ぼくは頼んで皐月の脚に触れさせてもらった。
 すごく近くでそれを見た。
 その白磁のような表面と、植物のようなしなやかさ。
 
 いつでも正確に思い出せるけど、改めて、また少し皐月が遠くなった気がする。
 
 「見ちゃだめ」
 
 さらに低く落とした視線に気づいて、皐月はショートパンツから突き出た自分の脚を手で隠す。
 そうやって、自分の正しさ、二人の関係の正しさを誇示しようとする。
 
 ぼくはさらに、意地の悪い質問を突きつける。
 
 「どうして?見るのもだめ?」
 
 それは皐月にと言うより、二人に対して意地の悪い質問だ。
 これ以上困らせたら罰が当たるような、最後の質問。
 
 「それが普通だからよ」
 
 きっぱりと、皐月が答えを言う。
 
 普通という言葉は天敵だ。
 その言葉は現実を白く照らして、ぼくは夢から醒めそうになる。
 
 「ちゃんとできるよ」
 
 ほとんど哀願のような声。
 
 「ちゃんと絵美のこと考えてあげて」
 
 寂しい響きを残して、皐月が椅子を立つ。
 
 それが"ちゃんとする"っていうことなの?
 皐月は本気で、そう言っているの?
 
 夕日がまっすぐ部屋に差し込んで、目が痛い。
 
 「そろそろ降りてきなよ。今夜はカレーだって。しばらく夕食当番回避だね」
 
 日曜日は母さんが夕食を作ることになっている。
 カレーは3日くらい続くので、その間は夕食を作らなくていいことになる。
 
 無理に明るい声を張り上げるような皐月の優しさに、応えてあげないといけない。
 そう思うのだけど。
 
 
 
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季節の変わり目-v(by皐月)

2010年06月18日 22時45分38秒 | Novel「桜さく、このうららかな堤」
 ――ピピピッピピピッピピピッピピピッ……。

 ニンジンの形をしたキッチンタイマーは、ちょうど20分で起こしてくれる。
 その正確な仕事に、私は嬉しいような切ないような気持ちになる。
 眉をひそめながら、手探りでスイッチを切る。
 
 布団からはい出して、また、机に向かう。
 向かうまではよかったものの、ノートに並んだ一面の和訳に辟易する。
 今日からテスト週間だ。
 
 夕方から雨が降り始めた。
 でも部活がなくて下校が早くて、何とか雨には降られないで済んだ。
 
 雨はいい。
 雨は気持ちを鎮めてくれる。
 雨は純粋に気持ちを勉強に向かわせてくれる。

 だけど天気予報によると『当面の雨は今日で最後』らしい。
 前線が南下し始めた。
 梅雨が終わろうとしている。
 
 そんな雨の沈静効果に頼ってしまうくらい、このところ、私の情緒は不安定だ。
 
 水無月のこと。
 絵美の恋のこと。
 潤子からも、複雑な話を聞かされた。

 簡単には相入れないいくつかのことを、私は一度に抱えてしまった。
 
 容易ではない。
 みんながみんな、私の大事な人だ。
 誰ひとりないがしろになんてできない。
 
 登場人物が濃すぎて、そこに私の感情が溶け込む余地はないみたいだ。
 こういう時、自分は蒸気機関車のようだと思う。

 走れ!走れ!走れ!
 
 何のために走るんだろう。
 その先で、私はちゃんと笑っているのだろうか。
 どういう結末なら、私は笑えるのだろうか……。
 
 空中に指を伸ばして、"答え"に触れようとしてみる。

 ――ダメだ。
 バン、と机が鳴る。
 手の平がじぃんと痛い。

 自分の感情を御せなくなったとき、私は私ではなくなる。
 これまではちゃんとできてきたはずだ。
 その自負さえ、今の私を作っている。

 だから、せめて自分のために……。

 《♪♪♪~♪♪♪~》

 突然、携帯電話が鳴った。
 "となりのトトロ"のテーマは絵美からの着信音だ。
 思考を中断して反射的に通話ボタンを押す。

 「はい、もしもし」
 『あ…皐月ちゃん?』
 「どうかした?」
 『今、時間大丈夫?』
 「うん。大丈夫だよ」

 ちょうどリフレッシュしたかったところだ。
 思考も、いけないサイクルに差しかかっていたような気がする。

 『どうしよう、あたし……』

 切り出される絵美の話に私は驚いた。
 「ほんと?おめでとう!」

 『だけどちょっと困ってて……』

 しばらく、絵美からの相談を受けた。
 相談を"受けた"のは、私の方だ。
 なのに私は、無意識に、あっさりと、答えを突き付けられていた。

 ――悩んでいても仕方がないよ。
 そう聞こえたような気がした。
 明るく前向きな友人の声で。



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