時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

DUMBO Brooklyn ~マンハッタン橋の下の物語~

2015年03月26日 | ニューヨーク/ロンドン散策

 ダンボ(DUMBO)といってもディズニー映画の耳の大きな子象の話ではない。ニューヨークブルックリンにある地区のことだ。ここはイーストリバーを隔てて対岸にマンハッタンの高層ビル群を望む景色の良いところ。最近は観光スポットとしても脚光を浴び始めている。しかし、かつてはマンハッタンブリッジの大きな橋脚の袂に広がる工場や倉庫がひしめくモノ造りの町であった。年配のニューヨーカーにとっては、地元ブランドのチョコレート工場やアイスクリーム工場が懐かしいところだとか。ご多分に洩れず産業構造の変遷により60年代以降衰退し、一時は廃墟同然の不気味で治安もよろしくない町へと変貌していった。1970年頃から、町の再開発を機に若いアーチストやアントルプルナーたちが移り住み始めた。古い倉庫や、工場跡がロフトやギャラリー、ビジネスインキュベーションの場として活用され始め、いまやトレンディーな街に変身を遂げつつある。地価・レントが高騰するVillageやSOHOを避けての移動だ。市当局はここを歴史地区の一つに指定している。

もともとはマンハッタンのSOHOあたりもアイアンキャストの階段や外装の建物が並ぶ倉庫街であったが、いまやその独特の景観がアルチザンな街の顔になり、アーティストが活動拠点を構える憧れの地になっている。地価も高騰し、成功したアーティストやその雰囲気に魅せられた一部の金持ち(しばしばそうしたアート活動のパトロンである)しか住めない地区になってしまった。こうして若いアーティスト達はaffordableな新しい拠点を求めて、ブルックリンだけでなく、Meat Packing District:ミートパッキングディストリクトやHigh Line:ハイライン、あるいはハドソン河対岸のニュージャージーへと移り住んでゆく。最近はハーレムも新しい文化の発信地区に変貌してきている。どの地区もマンハッタン中心部への交通も便利で、若いサラリーマンたちにも人気のロケーションになっているという。

DUMBOとはDown Under Manhattan Bridge Overpassの略で、「ダンボの物語」は文字通り「橋の下の物語」である。ニューヨーク最古のサスペンションブリッジ、ブルックリンブリッジもここに美しい姿を誇っている。3月初め、ちょうど訪れた時は雪景色を背景に、クリアーな青空。マンハッタンブリッジが夕日を正面に受けて輝き、対照的にブルックリンブリッジが夕日の残照にシルエットを落とすという、誠に美しい光景が出現していた。マンハッタンでは目にすることのできないもう一つのニューヨークの景観である。1870年以前は対岸からは船で渡るしかなかった。ここにFulton Landing:フルトン渡船場があったところからFultonとも呼ばれる。マンハッタンの素晴らしい夜景が楽しめる観光客に人気のRiver Cafeはここにある。


こうしたスラム化した町が再び脚光をあびる町に移り変わってゆく様をgentrificationと呼んでいる。日本語では「都市再生」と訳しているようだが、日本の都市で行われているように、古い建築物を壊して、高層ビルに建て替える「都市再生」とは違う。古い建築物や町の景観を最大限生かしつつその中身を変えてゆく。それを、ハコモノではなくライフスタイルを提案する、いわば長いサイクルでの衰退と再生を繰り返す不断のevolutionと理解するならば、むしろ「町の輪廻転生」と言ったほうがいいように思う。都市はその中身を変えながら生き続ける。

日本の地方の都市で、若者が出て行って年寄りばかりになってしまった古い町家、古民家を破壊してマンションにするのはgentrificationではない。古い町家や古民家での暮らしを新しいライフスタイルとすることだ。もっともマネーの論理がはっきりと働くニューヨークにおいては、そうしたgentrificationのせいで、街が賑わいを取り戻し、裕福な新住民が移り住み、地価が上がり、レントが上がる。それはとりもなおさず、安い家賃で暮らしてきた低所得の旧住民は出ていくことを余儀なくされるということを意味している。光と影を合わせて移ろいゆく、それが町の輪廻転生のもう一つの側面だ。

マンハッタンブリッジの橋脚が町のシンボル

 

石畳の街

 

イーストリバーままだシャーベット状だ。
春はまだ遠い

 

夕日を受けて地下鉄が行く

 

ブルックリンブリッジの夕景

 

ダウンタウンの夕景
新装なったフリーダムタワーも見える

 

ストリートペインティングもただの落書きではない
ここでは立派なアート作品
 

 

マンハッタンブリッジを下から覗く

 

橋脚の下はアートスペースやフードコートになる



 

 

DUMBOの街角

 

この橋はなんて巨大なんだ!

 

アート系のブックショップ






旧制浪速高等学校「イ」号館に父の青春の面影を訪ねて

2015年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 私の父は生まれも育ちも大阪天王寺、チャキチャキの(?)浪速っ子であった。以前、私がこのブログを始めるきっかけとなった大阪勤務時代、当時住んでいた天王寺の宿舎の近くに、父が旧制中学生時代まで暮らした住所と番地を確認することができた。しかし、父がその後進学した旧制浪速高等学校(浪高)へも行ってみたいと思いつつ、結局大阪在任中、この浪高のあった豊中待兼山を訪ねることができなかった。今は大阪大学の豊中キャンパスとなっている旧制浪速高等学校跡には、本館である「イ号館」が残っており、大阪大学会館として保存活用されているという話を大阪大学OBの同僚には聞いていた。
 
 旧制浪速高等学校(浪高)は、1926年(大正15年)に大阪府立の公立7年制校(尋常科4年、本科3年。のちに尋常科は廃止された)として創立された。その後、終戦後の1949年(昭和24年)には学制改革で大阪大学に包含され、翌年に廃校となった。その間、たった24年という短い歴史ではあるが、政官界、財界、学界に戦後の日本を代表するリーダーを多く送り出した旧制高校として知られる。制服はボタンのない「海軍式」で、上からマントを羽織り、かっこよかった、と父も語っていた。学生は、やはり地元出身者が多かったようで、当時、大阪が日本一の経済都市で「大大阪」と呼ばれていた時代に創設された学校だけに、地元財界の御曹司など都会的でスマートな学生が多かった、と言っていた。旧制高校といえば、弊衣破帽に朴歯下駄という「バンカラ」が主流であった時代に、やや異色の旧制高校だったのかもしれない。
 
 一方、大阪には官立の旧制大阪高等学校(1921年大正10年創立)もあった。やはり戦後の学制改革で廃校となり大阪大学に包含されたが、こちらはキャンパスが引き継がれず消滅してしまった。旧制高校は戦後、新制大学に包含、改組され、旧ナンバースクールは、一高が東京大学に、二高は東北大学に、三高は京都大学に、四高は岡山大学に、五高は熊本大学に、六高は金沢大学に、七高は鹿児島大学に、八高は名古屋大学に、それぞれ包含、改組された。旧帝國大学では九州大学が旧制福岡高等学校を吸収し、大阪大学が旧制浪速高等学校と旧制大阪高等学校を吸収した。ちなみに浪高も一部の教官と蔵書は、府立浪速大学、のちの大阪府立大学に引き継がれた。父もよく大高は官立なのに無くなってしまい、卒業生はかわいそうだ、と言っていた。
 
 父の浪高時代の青春は、勉学一筋であったようだ。学究肌を地で行くような人で、もともと愛だの恋だの、ナンパな話は聞いたことがなかった。かといって、硬派ぶってバンカラ風を愛するわけでもなく、端然としていたようだ。浪高では弓道部に属し、各地の旧制高校との他流試合に出かけたといっていた。旧制松江高校との試合では、松江高校が駅まで出迎えに来て、黒山の人だかりの駅前で蛮声を張り上げてエールの交換を行い恥ずかしかった、と語っていたくらいだ。また、ご時世で、軍事教練では、分列行進、閲兵の指揮をとらされ「大声を出すのが大変だった」と述懐していた。確かに、父は、成績優秀でひときわ長身で目立つ体躯だったので、選抜されたのだろうが、サーベルで号令かけている父を想像できない。
 
 このように、父には中学時代から自ら興味のある研究テーマがあり、「その研究のため」という明確な進学理由を持っていたので、あまりそれ以外のことにうつつを抜かす、というようなことはなかったようだ。本人の希望としては、そのためには名古屋の八高へ進学したかったようだ。のちに祖母や父から聞いたエピソードで、浪高理科に合格したのち、大阪駅から八高受験のため名古屋に向かおうとしていた父を、中学の担任の先生が「浪高に行け」と、駅まで連れ戻しに来たそうだ。
 
 結局浪高に進学したが、そこで父は、後の人生に影響を与える多くの友人を得ている。父自身はその後、東京帝大に進み学界で研究者、教育者として活躍することになるが、その浪高人脈は、学界にとどまらず、財界、政界、官界で活躍する、いわば戦後復興期のリーダーたちのそれである。父の晩年まで各方面に活躍する同窓生との交流があったことを覚えている。この待兼山でのいい意味でのエリート教育と、多彩な人脈がのちの父を育てたといっても過言ではないと思う。羨ましい青春時代を送ったものだ。いや、羨ましいと言わしめるのも、のちの父の壮絶な学究人生を振り返ればこそである。あの時に培われたものが大きかったんだと。
 
 この度ようやく父の母校、旧制浪速高等学校を訪ねることができた。場所は豊中市の待兼山。父からよく聞かされた地名だ。同窓会誌が「待稜」であったことを覚えている。阪急石橋駅から坂を登り歩くのが正面ルートのようだ。父もそうして通っていたと話していた。ちなみに旧制高校は全寮制が多くて、私の子供の頃まで、旧制高校OBが全国寮歌祭なるものを毎年開催していて、NHKテレビで全国放送されていたのを覚えている。しかし浪高は全寮制ではなく、通学生が多かったそうだ。父も生まれ育った天王寺からこの頃には豊中に引っ越して自宅から通っていた。「孟母三遷の教え」。子供の教育のために引っ越した祖父母の父への愛情が感じられる。
 
 現大阪大学豊中キャンパスには、浪高本館「イ号館」が修復保存され、大阪大学会館として待兼山にそびえ立っている。ここに立つと、待兼山の名にふさわしく大阪を一望に見渡すことができる。とても風光明媚な地だあることがわかる。「イ号館」の前にはかつて、父が水練に勤しんだという池も半分残っている。弓道場は今も阪大弓道部が使っているとか。なんと緑濃い素晴らしいキャンパスだ。比較的新しく帝国大学(8番目)になった大阪大学にとって、「イ号館」は現在残る唯一の歴史的建造物(2004年登録有形文化財)としてキャンパスにアカデミックな風格を醸し出している。「時空トラベラー」にとってここに立っていること自体が得難い体験だ。
 
 ところで、今回の私の大阪大学訪問の主目的は、法学研究科での特別講義である。父と違って理系の学究の道を歩んだわけでもない「不肖の息子」が、亡き父の母校を図らずも訪れることができ、そこで、自らの長い会社人生を背景とした講義が出来たことは感無量であった。講義を熱心に聴講してくれた若い学生諸君の澄んだ瞳に父の青春時代の面影を見たような気がした。
 

 

旧制浪速高等学校生(理科)の集合写真
青春群像!
「イ号館」横の土手で撮った写真だと思われる

 


 

その石段が今も残っていた!

 

「イ号館」から理科特別教室へ移動する若き日の父(右)
写真の裏に昭和15年4月とある

 

 
浪高「イ号館」
父の卒業アルバムから

 

 
現在の浪高「イ号館」
修復保存され「大阪大学会館」として豊中キャンパスのランドマークとなっている。


「イ号館」を望む「浪高生の像」


 

 

同窓会により寄付された「浪高庭園」

 

リノベートされているがファサードの原型は残されている

 

階段は往時のままだという

 

館内廊下

 

         エントランス部のレリーフは往時のまま復元

 

当時の浪高キャンパス配置ジオラマ
エントランスに展示されている


この池には「水練場」があった
手前の石柱は当時池の周りを囲っていた柵の跡だ。


現在は大阪大学豊中キャンパス


法文系キャンパス


法学研究科特別講義
若き阪大生の瞳に父の青春時代の面影を見た

 




ニューヨーク郊外の小さな町 Beacon and Cold Spring  ~そして現代美術館Dia:Beacon~

2015年03月15日 | ニューヨーク/ロンドン散策
3月に入って、梅や蝋梅、椿が咲き始め、ようやく春の気配漂う季節になった東京を後に、極寒のニューヨークへ。最高気温でもマイナス1度、除雪の進んだマンハッタンの街角でも雪が解けずに路肩で凍りついている。晴れの日の空は眩しいほど青いが、空気は突き刺すような痛さ。久しぶりのfamily reunion。娘夫婦と初孫とでドライブに出かけた。

マンハッタンから車で80Km.ハドソン川に沿ってWest Highway , SawMill PKW、Route9Dと北上する。途中Bear Mountain State Parkの展望所で雪景色のハドソン川とベアマウンテンの眺望を堪能しながらのドライブ。陸軍士官学校で有名なWest Pointのさらに北、Beaconという小さな町に到着する。ハドソン渓谷沿いの美しい街並みが魅力的なニューイングランド風の町だ。中心部は歴史を感じさせる建物の立ち並ぶ通りと教会があるだけの静かな町並み。18世紀初めからプランテーションがあったところで、独立戦争当時にはFishkill 山にイギリス軍を見張るBaeconがあったことからこの町の名前になったという。アメリカ建国時代に形成された歴史ある街だ。

High Streetに沿って立ち並ぶ古い建物はアンティークショップ、廃業して売りに出されている古いホテル、小さなレストランやアートショップ。1870年代のスレート葺屋根の建物が復元保存されている。そして小さいが美しい尖塔を持つ教会。短い通りが途切れた先には雪化粧の山肌が迫る。

昔、イギリスのロンドンにいた時に、週末はよくKentやSussexの田舎へ車で出かけた。Tumbridge WellsやHasting,Battle, Ryeなどの小さな町のPub やレストランでイングリッシュブレックファーストやアフタヌーンティーを楽しむ。気取らない雰囲気で濃い紅茶やイングリッシュマフィン、ホームメードの生クリームとジャム。時にはミートパイ。たまらなく心豊かで嬉しい時間だった。Beaconの佇まいはあの時のイングランドの小さな村を彷彿とさせる。まさにニューイングランドと言われる所以だろうか。

Beaconにもコージーで素敵なレストランがある。アメリカらしくメニューはハンバーガーやパニーニが主体だが、イングランドの田舎町を思い出させてくれた。週末だからか結構込み合っていて、次々に客が来て、そのうち外で並んで待ち始めた。東京じゃあるまいし... ここぐらいしか食べるところがないのと、なかなか洒落たところであることとで人気があるようだ。

最近、Beaconという地名が日本人のNY訪問客にも知られるようになったのは、Dia Beacon現代美術館が2003年に開設されてからだ。とは言ってもまだまだ知る人ぞ知るアートスポットだが。ハドソン渓谷沿いの広大な敷地に展開する自然と共生するアートスペースだ。Dia Art財団が展開する美術館はこのほかにもチェルシーなどがある。ニューヨークといえばメトロポリタンや、グッゲンハイム、MoMAが有名人気美術館だが、ちょっと郊外に足を伸ばせばこんな素敵なところがある。

元はナビスコの包装工場であった広大な敷地には、これまた広々した建物が確保され、自然光だけで内部採光した空間が用意されている。それぞれの作品はそのなかにゆったりと配置されている。というより、このスペースそのものがまさに作品だと言えよう。写真撮影禁止と禁止マークの無いコーナーとがある。どういう区分けなのか不思議だ。人々の鑑賞を妨げるような無作法な観光客は少ないので、訪れた人は作品やその置かれている空間を愛でながら適切に撮影もしている、といった感じだ。ちなみに今はメトロポリタンもMoMAも写真撮影OKになっている。嬉しい。

しかし、なんという贅沢な癒しの空間と時間だ。日本人の「おもてなし」とは異なる「おもてなし」がここにはある。外に出ると雪景色のハドソン川を望む庭園がある。ここの植栽と青い空と白い雪、そして輝く太陽の組み合わせももう一つのアート作品だ。(Dia:Beaconウエッブサイト

少しマンハッタン方面に戻ると、Cold Springの街がある。ハドソン川に面した古い村である。ここも歴史的建物を中心とした街の佇まいが美しい。アンティークショップやブティークが並ぶ。夏は避暑地として人気だが、春まだ遠いこの季節の静かな佇まいもまた格別だ。ここもニューヨークなのだ。喧騒渦巻くマンハッタンとは違ったニューヨークのもう一つの姿を楽しむことができる。

どちらもマンハッタンからは、グランドセントラル駅からハドソンラインの電車でも行くことができる。所要時間1時間半ほど。


Beaconの町並み




















Dia:Beacon現代美術館
























Cold Springの町へ

























Bear Mountain State Park

















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もう一つの「山崎の合戦」サントリーの山崎になぜアサヒビールか?

2015年03月09日 | 京都散策

 NHK朝ドラ「マッサン」が人気だ。スコットランドから連れてきた妻のエリーの健気な姿がとても日本人ウケする。日本人はこういう「外人」に弱い。一方、巷では、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝がモデルとなっているのでサントリーが僻んでるとか、「マッサン」を取り上げた雑誌にはサントリーは広告を出さないとか、まあ、どこまで本当なのかわからないが騒いでいるようだ。サントリーほどの企業がそんな子供じみた反応するとは思えない。そもそもドラマのストーリー読んでも、マッサンは鴨居商店で日本で初めてのウイスキー醸造所を作り、しかも鴨居社長にはいたく恩義を感じて、共に日本のウイスキーづくりに頑張っているではないか。そもそもライバル同士が切磋琢磨し、正々堂々と競争してない業界があるとすればそれは終わってしまった業界だろう。世の中には、ホントにつまらんうわさ話を作り出しておもしろおかしく「売り」にするヤツがいるものだと思う。 ところで、大阪と京都の間に位置する山崎の地は、歴史好きには明智光秀と秀吉の「山崎の合戦」「天下分け目の天王山」、ウヰスキー好きにはサントリー山崎ディステラリー、「鉄ちゃん」には新幹線とJR東海道線、阪急電車の並走競争「山崎の合戦」で有名な土地である。古来より京都・大阪を結ぶ重要な交通の要衝で、三川合流する谷間の狭い回廊が、様々な「合戦」の舞台であることを示している。

 

以下は以前の訪問した時のブログ: 「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 大山崎山荘美術館 ーOyamazaki Villa Museum of Artー: http://tatsuo-k.blogspot.jp/2011/09/oyamazaki-villa-museum-of-art.html 最近ちょっと美術館巡りが続いている。今回は京都府乙訓郡大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。  この山荘美術館の本館は、大正7年に実業家加賀正太郎によって建てられた、英国ハーフティンバー様式の建物だ。英国の生活様式に憧れて建物を本格的に設計、建築した。この時代には好事...

 この大山崎の背後にそびえる天王山。その中腹に、立派な英国風ハーフティンバーの山荘がある。現在はアサヒビール大山崎山荘美術館として一般に公開されているが、元は関西の財界人加賀正太郎が建てた別荘である。素敵な建物と庭園、一級の美術品。安藤忠雄設計の半地下の新館にはモネの睡蓮が。テラスからは木津川、桂川、宇治川が合流して淀川となり、やがて大阪へと流れ下る景観を一望に見渡せる。素晴らしい景観と歴史的な建築。私の好きな場所の一つだ。 しかし、山崎といえばサントリー山崎ディステラリーを思い起こす人が多いだろう。TVのコマーシャルでもおなじみのあの静かな森に囲まれた醸造所だ。サントリーで有名なここ山崎に、何故アサヒビールの美術館があるのか?ちょっと不思議に思っていた。サントリー山荘美術館じゃなくて、アサヒビール山荘美術館なのだから。なにか曰く因縁があるのだろうかと。現にすぐ隣にあのサントリーのシンボルたる醸造所の建物がそびえている。ちなみにアサヒビールは大阪生まれのビールの老舗(大阪麦酒)。同じく大阪生まれのサントリーはビール市場では新規参入事業者だ。しかし、そういう競争関係だけでなく、実はアサヒビールは現在はニッカウヰスキーを吸収しているので、サントリーの本丸とも言えるウイスキー市場での競争相手なのだ。 そうなると、にわかにここ山崎の地が騒がしくなってくる。 話は少々込み入ってくるが、ここは関西の起業家・企業家たちのビジネスの主戦場の一つ、もう一つの「山崎の合戦」の舞台でもあったのだ。すなわち、「マッサン」こと竹鶴政孝は、鳥井信治郎に見込まれてサントリーの前身、鳥井商店・寿屋に入り、日本初の本格的なウイスキー醸造所をここ山崎に創設する。竹鶴はのちに寿屋を離れ、北海道余市に醸造所を設け、ニッカウヰスキーを設立する。こうして世話になった鳥井信治郎の元を離れ、彼が開設し所長を務めたサントリー山崎醸造所とも競争関係になる。 竹鶴のニッカウヰスキーはその株の70%を関西財界の大物、加賀正太郎に保有してもらう(出資してもらう)ことで事業化に打って出ることが出来た。加賀は良きパトロン、筆頭株主としてニッカの事業支援を行ってゆく。この加賀正太郎が、この山崎の山荘の所有者である。また竹鶴政孝とその妻リタ(エリーのモデルとなる)はこの山崎に一時住まい、リタは加賀夫人の英語の家庭教師を務めたという。晩年に加賀は、この株をアサヒビールの山本為三郎に譲渡する。安定的にニッカの事業を継続できる株主としてアサヒビールを選んだと言われている。アサヒビールはニッカウヰスキーを吸収合併して現在に至っている。そういった加賀と山本の関係もありアサヒビールが、一時存続が危ぶまれていた加賀の山崎山荘を買い取り、再生して「アサヒビール大山崎山荘美術館」が誕生することとなったというわけだ。 ちなみに、この「山崎の合戦」のプレーヤーを簡単に紹介しておこう。関西財界の超有名人、実力者達なので今更履歴など書き連ねても始まらないが。

 竹鶴政孝 (大阪高等工業のちの大阪大学工学部。グラスゴー大学留学) 寿屋で鳥井信治郎の元で本格的なウイスキー製造を始める。山崎醸造所開設。のちに独立してニッカウヰスキー創立。北海道余市に醸造所を開設する。

 鳥井信治郎 (大阪高等商業のちの大阪市立大学) 大阪道修町小西儀助商店などを経て鳥井商店、のちの赤玉ポートワインの寿屋を創設。現在のサントリーの創業者。

 加賀正太郎(東京高等商業のちの一橋大学。英国留学) 加賀財閥主人。加賀証券社長。ニッカウヰスキー設立に関わり、筆頭株主(70%)。のちにアサヒビールに全株売却。

 このようにこの業界だけ見ても、当時の関西はこうした起業家・企業家がダイナミックに合従連衡する土地柄だったことがわかる。高等工業や高等商業といった実業を教える高等教育機関がこうした若い人材の育成に大きな役割を果たしたこともわかる。学校卒業後、地元の企業に入り、下積みから努力して、やがて独立し起業する。成功した財界人は彼らのパトロンとなり、そうした若き起業家を育て、出資し、事業の成功を支援する。ベンチャーキャピタルファンド、エンジェル、人材育成... 当時の関西にはシリコンバレー顔負けの産業生態系(エコシステム)が出来上がっていた。日本一の経済産業都市、大大阪のエネルギーの源泉はこの辺にあったようだ。 資本、人材、技術、これらが自由でダイナミックに融合し、競争し、あるいは衝突しながら産業、経済が成長してゆくという資本主義の本質。それを育む土壌と気質。これが大阪という土地の生来の特色だ。それらがこの「合戦」エピソードを生み出しているのだ。マッサン人気とサントリーの苛立ちなどという下らない岡目八目の噂話などではなく、むしろこうしたダイナミズムを感じさせる話が最近トンと聞こえてこないほうを心配したい。もっと後世に残るドラマの主人公になる逸材や、豪奢な別荘でも建てる大物がドンドン出てこないものか...

アサヒビール大山崎山荘美術館 加賀正太郎が建てた英国風別荘が元になっている
天王山中腹にハーフティンバー様式の山荘が威容を誇る
山荘テラスから展望する大山崎 京都からの木津川、桂川、宇治川がここで合流し淀川となって大阪湾に流れ込む 英国のテムズ川やエイボン川の風景を彷彿とさせる
サントリー山崎醸造所(同社HPより)
 

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Before and After in New York 1960-2015 エンパイアステートビルからの摩天楼都市の展望

2015年03月09日 | ニューヨーク/ロンドン散策
 
 永年住んでいても意外に行った事がない観光名所というものが,街にはあるものだ。東京タワーやエッフェル塔。大阪なら通天閣。最近だと東京スカイツリーや阿倍野ハルカスもまだ行ってない。高い所は嫌いではないのだが..... ここニューヨークのエンパイアステートビルもその一つ。何時でも行ける、そのうち行こうと思って間に引っ越してしまい、旅行で来てやっと行ってきましたなんて。そんな所だ。
 
 55年前、当時ワシントンにいた父母が旅行で訪れたニューヨーク。エンパイアステートビルに登り撮影した写真が前から気になっていた。あの時のアングルでニューヨークを見てみたい。現在のニューヨークを見てみたい。どのように変わったのか比較してみたい。今回の訪問で遂に実現した。
 
 55年前の父のカメラはCarl ZeissのContaflex Tessar 45mm. 当時流行りのレンズシャッター式一眼レフカメラだ。日本へも持ち帰り、子供の頃よく撮ってもらったものだ。シャッターがバッシャッと切れよく落ちると,ファインダーが真っ暗になる。ギロチンでバッサリやられたような感触だ。クロームメッキも美しい金属度120%の時代を感じさせるカメラだが,写真を見ても分かるように,素晴らしい解像度だ。テッサーのキレだ!現代のデジイチと遜色無い。フィルムはコダックのエクタクロームのリバーサル。こちらも素晴らしい発色!アナログメカニカルカメラ、銀塩フィルム時代のトップブランド同士の組み合わせだ。
 
 現在を写したカメラは最新のSONY α7II+Zeiss Vario Sonnar 24-75mm.ミラーレスフルサイズセンサの軽量デジタル一眼レフだ。こちらもさすが,キレのある写りと発色。時の流れとともに摩天楼都市ニューヨークの景色は変わっていたし、写真を取り巻くテクノロジーも変わったが、そこに写し出されたその時点でのリアリティーは、時空を越えて驚く程変わらない。写真とは「真」realityを「写す」モノであるという。そのサステーナビリティー。
 
(1)アップタウン方向
 
1960年
2015年
北方向を見るとGEビル,Central ParkとGeorge Washington Bridgeが見える。今は高層ビルが建ち並びどちらもよく見えなくなってしまった。こうして見ると昔から摩天楼の街ニューヨークと言われながらもミッドタウンの変貌ぶりがよくわかる。
 
 

(2)ダウンタウン方向

1960年
2015年
一見あまり変わらない様に見えるが、2003年9月11日、悲劇的な形でWTC Twin Towerビルが無くなって、いまその跡地にFreedom Towerが完成した。55年の間にこうした景観の激変があった訳だが。。。自由の女神が右上に微かに見える。現在の写真の下部にはFlat Iron Bldgが見える。中間のVillage辺りは古い街並を残している。
 
 
 
(3)ハドソン川方向
 
1960年
2015年
Hudson川はなんとか見える。George Washington Bridgeはビルに遮られてしまった。55年前に比べてミッドタウンは高層ビルが増えた。Park Westの高級住宅街はなんとか街並景観を維持しているようだ。
 
 
(4)イーストリバー方向
 
1960年
 
2015年
East Riverサイド。国連ビルは見えているが、当時の高級アパートTudor City は今もあるがビルに囲まれて見えなくなっている。三本煙突の火力発電所Power Stationは取り壊された。我がアパートHorizonはそのすぐ隣だ。Midtown Tunnel の出入り口が見える。対岸のQueensにも高層ビルが増えた。
 
 
(5)グランドセントラル駅
 
1960年
2015年
Grand Central Terminal. 黒くて煤けた外装は奇麗になった。隣のホテル(Hyatt)は建替えられたんだ。Chrysler BLDGの昔のまま。今年はグラセン開業100周年。東京駅赤煉瓦ビルも100周年。両駅は姉妹駅だそうだ。グラセンではJapan Weekのイベントが開催されていた。