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青木俊之翁?

2016-06-26 23:14:12 | 日記
青木俊之翁頌徳碑がある。
青木俊之氏の徳を称える石碑という事?
青木俊之とは?
調べてみた。
1869*-1930 明治-昭和時代前期の郷土史家。
明治元年12月20日生まれ。
生地の奈良県賀名生村(西吉野村)で郵便局長をつとめ、明治30年吉野郡会議員。
南朝史蹟の顕彰に尽力し、賀名生古蹟保存会を設立する。
南朝の後村上、長慶、後亀山の3代の天皇をまつる賀名生神宮の創建のために奔走した。
昭和5年3月死去。
63歳。

賀名生の里4

2016-06-26 18:13:25 | 日記
堀重信大人?堀家のご先祖様かな?
延元元(1336)年、後醍醐天皇は足利尊氏により京を追われ、吉野へ向かった。
途中、立ち寄った西吉野で郷士の「堀孫太郎信増」は天皇を厚くもてなし、邸宅は後村上、長慶、後亀山と3人の天皇の皇居になった。
これが、今も「賀名生皇居跡」として残る堀家住宅。
表門に「賀名生皇居」と書かれた扁額は天誅組の主将、吉村寅太郎によるもの。幾たびも歴史の表舞台に登場する賀名生の生き証人とも言える民家です。
そうあくまでも民家なんですよね。

賀名生の里3

2016-06-26 17:25:12 | 日記
五条市のHPより引用します。

延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に西吉野に立ち寄られました。
天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。
藁葺屋根の素朴な屋敷の前に建つ重厚な冠木門には、倒幕の志士天誅組吉村寅太郎の筆による「賀名生皇居」の扁額が掲げられています。
賀名生皇居跡は現在も「堀家」様の住居として使用されておりますことから、春と秋に期間を定め、往復葉書による見学の申し込みが受け付けられております。

南朝こそ正統でありたいと願う後村上天皇は、かつては「穴生(あなふ)」と呼ばれていたこの地に夢実現の願いを込めて「叶名生(かなふ)」と名付けました。
その後、正平6年(1351年)には足利氏が南朝に帰順し、また多くの公卿や殿上からの賛同を得た事より、願いが叶ったという喜びを記して、再度この地の名前を名付け改める勅書を下されました。
それが、「賀名生(あのう)」縁起です。

賀名生の里2

2016-06-26 16:55:50 | 日記
五条市のHPを引用します。

平成17年(2005)9月の合併以前の西吉野村において、「賀名生皇居跡」と伝えられる堀家住宅(重要文化財)を中心に、西吉野の歴史と文化を紹介し伝承する拠点をつくることを目的として、平成10年(1998)から「南朝史跡公園整備事業」が実施されました。
この事業の中心が「皇居前整備事業」で、資料館・伝承館・四阿の建設が平成15年(2003)6月から着手され、平成16年(2004)7月に完成しました。
そして同年9月1日に資料館が開館しました。

賀名生の里歴史民俗資料館は、五條市西吉野町の北西部、吉野山地からのびる支脈がしだいに低くなる丹生川沿いの谷筋に位置しています。
周辺には、堀家住宅(重要文化財)や(伝)北畠親房公墓、華蔵院跡などの南朝ゆかりの史跡が多数残されています。
また、奈良県三大梅林の一つ賀名生梅林と隣接し、周辺の自然環境と調和した中で、西吉野地域の歴史と文化を紹介しています。
このほか、南朝ゆかりの史跡をはじめとする西吉野地域の文化財情報や史跡散策、季節の情報などを提供しています。

賀名生皇居跡と伝えられる堀家に代々受け継がれてきた南朝ゆかりの宝物を主に展示しています。
また、幕末の文久3年(1863)に起こった「天誅組の変」で、戦いの場の一つとなった西吉野地域に残された貴重な関係資料も展示しています。