前から気になっていた大石誠之助を訪ねる事にした。
邸宅跡は船町の住宅街、正に家にありました。
また近所に天台烏薬の説明版。
新宮ではいたるところに天台烏薬が植わっている。
大石誠之助、慶応3年11月4日(1867年11月29日)~明治44年(1911年)1月24日)は、日本の社会主義者・キリスト者、医師。
幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。
雅号は「禄亭」。
紀伊新宮仲之町(現和歌山県新宮市)出身。
同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。
1892年オレゴン州立大学医科に入学。
1895年4月1日オレゴン州立大学卒業。
同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月帰国。
翌1896年新宮町で医院を開業。
ドクトル(毒取る)と、多くの市民や、とりわけ被差別の人々から慕われていた。
というのも、貧しいものからは無理に診察代や薬代をとらず、「できるだけ払ってください」という札を診療所にかけてはいたものの、無理な取り立てなどはしなかった人物であったため。
また、患者には極めて優しかったという。
さらに病気は待ってはくれないと往診にも精力的に励んだ。
1899年伝染病研究のためシンガポール及びインドのボンベイ大学に留学。
1901年帰国。
ボンベイ滞在中、カースト制の実態を知り、社会主義の思想に目覚める。
また、アメリカ留学中にコックをしていたことから、1904年に新宮の町に「太平洋食堂」を開き、自ら料理人として西洋流の食生活を庶民に紹介した。
堺利彦が主宰していた『家庭雑誌』に西洋料理に関する記事を寄稿し始め、堺を通じて社会主義思想に興味を持った。
社会主義関係の文献を読み始め、幸徳秋水や堺利彦らと交流を持ち、自宅には多くの社会主義者やアナキストなどが集った。
1910年幸徳事件(大逆事件)により検挙され、旧知の与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだが、1911年1月18日死刑を宣告され、24日午後2時23分死刑執行。
43歳没。
近年、故郷の新宮市では、大石誠之助を名誉市民へという運動とともに無実の罪でその生命を落とした大逆事件の事実を広める運動が起こっている。