葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

楽しいという方便。

2017-08-28 12:26:47 | 養生
 身体を動かすことは楽しい。
 だがその楽しさの本質は、所謂娯楽とはちょっと性質が違う。

 厳密には楽しいという表現は妥当ではないのかもしれない。
 だが、辛いというのはもっと違うと思う。

 「運動やトレーニングは辛いものだがやるべきだ」という人にとっては、運動とは結果としてついてくるスピードやパワー、健康、場合によっては試合に勝利する事や、それに伴う賞賛や報酬に対して支払う対価のようなものだ。

 だから辛ければ辛いほど得られる報酬も増えると思いがちで、ひとつ間違えると辛さを感じること自体が目的となり、効率や合理性の追求が疎かになりかねない。

 そうではなくて、身体を動かすこと自体が楽しい、もしくは有意義、価値や意味があると言い替えても良いのだが、どれも少しずつ違うような気もする。

 身体と向き合い動かすことは、瞑想や祈りに近いものだと思う。
 瞑想の本質はただ意識することだし、祈りの取っ掛かりは願いや感謝や許しをこうことだったりするが、その本質は、ただ祈ることだ。

 身体を動かすことの本質もまた、健康や勝利のためではなく、「ただ動く」それだけなのだと思う。
 だが、ここからが少々ややこしい。
 健康や勝利のためでないのなら、本人さえ満足すれば非効率・非合理的な運動でもよいかというと、そうではないからだ。

 つまり、身体と真摯に向き合えば、身体を過度に虐めることも甘やかすことも出来なくなり、可能な限り合理的で効率的な動きを追求せずにはいられなくなるのだ。
 これは神の前では嘘はつけないという祈りの感覚に似ているし、神と心身を同一視するという意味では無分別の境地にも近いと思う。
 いや、相当な大風呂敷を広げたなとも思うが。

 斯様にスリリングなゲームが、面白く無いわけがない。
 と、ここでまたゲームなどという言葉で煽ってしまったが、正確にはゲームでもない。

 この感覚を言語化出来たら、歴史に名を残せるのではなかろうか。
 いや、今度は大風呂敷ではない。
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