「集団的自衛権の行使を容認した政府解釈の変更」再考



(4/24、文章を一部加筆・修正して再掲載します。)
 参院選挙を前にして、相変わらず、党内にも、世間にも、憲法学者の間にも、集団的自衛権の限定的行使を容認した一昨年の閣議決定や昨年9月成立し今年3月施行された安保関連法制に対し、戦争法だ、憲法違反だ、立憲主義の蹂躙だ、という声が鳴り止みません。そこで、大学時代に憲法学を専門的に学んだ立場から、改めて、政府が閣議決定して修正した憲法解釈について私自身の考え方を整理しておきたいと思います。(法的な概念の正確性を期する余り、多少くどい文章になっていることをご容赦ください。)

 まず、多くの憲法学者や国際法学者も指摘しているように、集団的自衛権の本質は「他衛」です。じっさい、過去の集団的自衛権の行使事例を振り返っても、自国の存立が直接脅かされるというよりも、密接な関係を持つ同盟国などに向けられた武力攻撃に対しその国を守る、あるいはその国に加勢すること(すなわち、他衛)を通じて自国の安全や生存を図ろうとするケースが殆どでした。したがって、従来の政府の定義(最終的に昭和56年に確立)も「他衛」としての集団的自衛権でした。 たとえば、「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国 に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている」(昭和56年5月29日の政府答弁書) が、典型的な政府による集団的自衛権の定義です。

 この定義からは、想定されている武力攻撃が我が国に対し直接向けられたものでないことは明らかであるものの、その攻撃により我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利がどのような影響を受けるかについては定かではありません。つまり、自衛権の行使といっても、自国に直接向けられた武力攻撃に対し反撃するしか選択肢が残されていないような差し迫ったケースというより、能動的に(自国と密接な関係にある)外国まで出かけて行って、そこへ加えられている攻撃を実力で阻止するような態様を想定しており、受動的な自衛というより「他衛」というべき概念です。集団的自衛権をそのような概念で捉えて、そのような自衛権の行使は我が国の憲法上認められるものではないと結論付けたのです。

 すなわち、そのような集団的自衛権の定義を前提とすれば、憲法13 条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」との規定に根拠をおいて自衛権の行使を合憲と解してきた政府が、前述のようにわざわざ攻撃を受けた国にまで出かけて(あるいは攻撃国にまで迫って)行ってその攻撃を阻止する「他衛」を正当化できないことは火を見るよりも明らかです。 これが、「昭和47年見解」で示された政府の「いわゆる集団的自衛権」を違憲とした基本的論理なのです。以来、この基本的論理は40年以上も踏襲されました。

 ところが、今回、国際情勢の変化や軍事技術の進歩に鑑み「自衛」の視点(我が国に対する脅威の近接性、切迫性、および武力攻撃波及の蓋然性等)から改めて集団的自衛権の概念(定義)を見直してみたところ、たとえば(集団的自衛権の行使そのものには否定的な)木村草太首都大学東京教授がかろうじて憲法上許容し得るとした 「集団的自衛権と個別的自衛権が重なる部分」(つまり、外形的には我が国に対する直接の武力攻撃が発生していないにも拘らず反撃するという意味で「他衛」と見なされるものの、当該武力攻撃によってもたらされる我が国の国民の生命、自由、幸福追求の権利への侵害に切迫性があり近接性があり、しかも攻撃が直接我が国に及ぶ蓋然性が高いと判断されることから、それへの反撃が「自衛」と解される十分な根拠がある場合)などについて、武力行使の新三要件に基づく限りで(これまで集団的自衛権とされてきた行為の一部を)合憲と判断し得るのではないかという結論に至り、閣議決定を通じて政府解釈をアップデート(修正)した、ということだと思うのです。

 したがって、私は、一昨年7月の閣議決定をもって昭和47年見解の基本的論理を維持しているとの政府の説明も十分成り立つのではないかと考えるのです。すなわち、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置」としてならば、そのような自衛の措置は、たとえ我が国に直接武力攻撃が加えられない(つまり、当該武力攻撃に対する反撃行為は個別的自衛権では説明し切れない)ような場合であったとしても、憲法上「容認されるものである」とされたのです。換言すれば、この「47年見解」で違憲と断定された「いわゆる集団的自衛権」とは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」従来の定義に基づく「他衛」のことを指すのであって、それはすなわち、我が国に対する脅威の切迫性や近接性、武力攻撃が我が国へ直接波及する蓋然性が存在しないにも拘らず、我が国が反撃を加えることができる権利と解されるのです。

 ところで、たとえ従来の定義に基づく「いわゆる集団的自衛権」のごく一部を認めるような政府解釈の修正であったとしても、本来国家権力を縛るためにつくられた憲法の解釈を国家権力たる政府が自ら変更するのは立憲主義の蹂躙だ、という主張について一言触れておきたいと思います。政府はいかなる理由があろうとも過去の解釈を自らの手で変更してはならないのでしょうか。そんなわけがありません。憲法81条には、国家行為の憲法適合性を判断する終審裁判所は最高裁であると明記されており、最高裁が判断するまでの間は、政治部門(行政府と立法府)が憲法の有権解釈権を有しています。問題は、政治部門が、法規範論理(憲法規範の枠内に収まる論理)に基づいて、過去に積み重ねられた解釈と整合性のある解釈変更の根拠を示せるか否かということです。それをはみ出すようであれば、憲法を改正するしかないことは論を待ちません。

 また、政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。なぜでしょうか。要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)

 以上要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。

 もちろん、だとしても、このたびの安保法制の立法過程において、なぜそういった新規立法が必要なのかを示す立法事実を十分に説明し切れなかったり、国際情勢変化や軍事技術の進歩などについて説得力ある説明ができず、国民多数が未だ十分に理解していない段階で、数の力で押し切った政府の責任は重いと考えます。その意味での反発や批判は正当なものといえます。ただし、それを以って「戦争法」だとか、「集団的自衛権は違憲」だとか、「立憲主義を蹂躙するもの」などと批判するのは感情論以外の何物でもなく、いかに憲法学の大家や熱心な政治家や気鋭の学生さんたちが論陣を張ろうとも、それらは学問的にも政策的にも誠実な議論とは言えないのではないかと感じています。


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こども・子育て「非常事態宣言」


 「保育園落ちた、日本死ね!!!」・・・たった一人の母親の叫んだたった一言が、日本全国に共感のうねりを起こし、永田町を揺るがしています。「日本死ね」というギョッとするような表現をめぐっては、常軌を逸しているのではとの批判が巻き起こりました。それでも、認可保育園をいくつも落ちて仕事を続けられず、孤独な育児と日々格闘している女性の悲痛な叫びは、SNSを通じて瞬く間に全国に広がり、日本全体が改めて少子化問題に正面から向き合うことになりました。そして、ついに国会をも動かすことになったのです。


保育や幼児教育を担う人材確保は、ほんの第一歩


 3月24日、民進党は他の野党と共同で「保育人材の確保法案」を衆議院に提出、保育士や幼稚園教諭の給与を5万円引き上げることにより、保育園という「箱モノ」ではなく、保育や幼児教育の「担い手」を確保することを通じて効果的な待機児童対策を講ずる方向性を鮮明に打ち出しました。政府与党も、緊急対策本部を立ち上げ、対応に追われています。

 しかし、保育や幼児教育を担う人材の確保は、我が国のこども・子育てを取り巻く環境を改善するためのほんの一歩に過ぎません。私は、昨年の川崎市で起こった中学一年生の少年殺害事件にショックを受けて以来、日本の子供たちにいったい何が起こっているのかを知るために、関連する書籍を読みあさり、専門家の話を聞き、現場に足を運び、私なりに真剣に取り組んできました。


こどもの貧困が招く悲劇をこれ以上許さない!

 その結果、こどもの貧困(16.3%)、それもひとり親家庭のこどもの貧困の深刻さ(54.6%は、先進国中最悪!)、にもかかわらず現行制度の綻びや社会の対応の遅れが、あまりにひどい状況であることに愕然とさせられました。「少子化」が叫ばれて約20年。すでに10年前から人口減少が始まった日本で、さらに深刻なのは、「貧困の連鎖」によってせっかく生まれてきた子供たちを家庭が、社会が育て切れていないという現実です。幼児虐待が年8万件(15年前の8倍!)を超え、虐待死が3日に一人。子供の自殺は1日に1.4人に上ります。最近も神奈川県相模原市で、児童養護施設への入所を訴えていた中学1年の男児の声を児童相談所が取り合わず、自ら尊い命を断ってしまう悲しい事件が起きました。


「学ぶ機会の保障」こそ、国を挙げて取り組むべき国家百年の大計

 就学前の幼児期における保育や教育の在り方が、その後の人生や社会全体にとり決定的に重要であることは、国連をはじめ世界の識者が認めるところです。したがって、先進国では、家庭の経済事情に左右されないよう、幼児教育の無償化が必然の流れとなっています。加えて、ますます知識(情報)集約型の産業構造にシフトして行く中で、高等(専門)教育の重要性が認識される時代にあって、欧州では高等教育の無償化や米国をはじめ奨学金制度の拡充が図られ世帯収入の多寡に関係なく、子供たちが自らの能力を磨き、開花させ、社会により大きな貢献を果たす充実した人生を自由に選択できるよう国を挙げて取り組んでいます。

 しかし、翻って我が国の現状はどうでしょうか。義務教育となっている小中学校は約9割を公的支出で賄っていますが、就学前の幼児教育段階では約半分が家計負担、高等教育段階では家計に2/3もの負担が重くのしかかっているのです。「資源のない日本は、人材こそ最大の資源」などと言われながら、GDPに占める教育費は5.1%に過ぎず、これは先進34カ国中27位で、公財政支出3.6%は最下位という不名誉な実態なのです。


「過去との闘い」から、「未来をつくる闘い」へ!


 そのため、親の年収によって大学進学率に30%以上も差がついてしまっています。私は、すでに民主党政権下で実現させた「高校の無償化」に加えて、幼児教育の無償化、大学や専門学校における給付型奨学金の拡大などをベースに、「こども・子育て・教育」環境の劇的な改善をもたらす包括的な政策を策定し実現することを、改めて誓う所存です。7年前の年金記録の回復を目指した私たちの取り組みは、いわば「過去との闘い」でした。これに対して、私が全身全霊全力で取り組む課題は、「未来をつくる闘い」です。皆さん、一緒に「未来に誇れる日本」をつくって参りましょう!

衆議院議員 長島昭久
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週末に頭を冷やして甘利大臣辞任を考える

 のっけから誤解を恐れず言わせて貰えば、「国会戦術上」の甘利問題は、あの潔く辞任表明した会見でほぼ勝負がついてしまったと思う。これ以上、国会の場で甘利問題を深追いしても逆効果になってしまう(つまり、スキャンダル追及で政権に打撃を与えるという思惑が国民の支持を広げる可能性は高くないどころか、逆に反発すら招く恐れがある)のではないか。小渕元大臣も仕留められなかった国会が、甘利前大臣にとどめを刺すのは難しいだろう。これが国会の限界なのだと思う。

 ここから先は、斡旋利得があったかどうか等、秘書の件も含め司直の手に委ねるべきものだ。もちろん、甘利前大臣自身が認めているように、政治家及び政治事務所による役所(今回は国交省およびUR)への口利きや金銭授受行為は、違法か否かに拘らず、政治的、道義的責任を免れず、厳しく正されるべきことは言うまでもない。ましてや、国家の最高権力者たる現職大臣である。再発防止のため新たな法整備の必要もあるかもしれない。また、そういった点をめぐり、国民の疑問にきちんと答える(野党としてしっかり正す)べきとの議論は残るだろう。しかし、党を挙げて、しかも予算審議を人質に取ってまで取り組むべき問題なのかどうか、真剣に考え直すべきだろう。政治倫理を扱う別の委員会も存在する。

 言うまでもなく、予算委員会で議論すべき問題はいくらでもある。甘利大臣が担当していたTPPから始まって、政府の異常な金融緩和、消費税の引き上げ、それに伴う軽減税率の是非や総合合算制度を諦めてしまったことの是非、原発再稼働、北朝鮮のミサイル実験、中国の軍事的拡張と経済崩壊の可能性等々、枚挙に暇がない。

 その上で、改めて国政(政府)を正す責務を有する野党の立場で考えてみると、甘利大臣辞任がもたらす問題の核心は、甘利大臣の罪状というより、甘利大臣が第二次安倍政権の中で果たしてきた役割が突然取り除かれてしまったことにあると思っている。

 つまり、これまで3年間にわたり安倍政権の安定性を担保してきたのは、閣内における鉄の結束だろう。それは屢々「トリプルA」と呼ばれてきた安倍・麻生・甘利の三枚看板だ。そこに菅官房長官の調整力が加わり盤石の体制を誇ってきたものだ。アベノミクスの進め方をめぐり、消費税や金融緩和、財政政策など閣内でも意見が相克するような場面はこれまでいくらでもあった。しかし、その局面のたびに、総理の信頼厚い盟友・甘利大臣が果たしてきた役割はきわめて大きかった。ここ数日、甘利大臣の力量をめぐってメディアでも激論が交わされたが、私の見るところ、安倍政権における甘利大臣の価値は、政策力でも交渉力でもなく、総理の信頼を背景にした政権内のバランサー的な役割だったと思っている。

 したがって、甘利大臣の後継に石原伸晃氏が起用されることが決まった直後の大臣会見で、事もあろうに政権の要である麻生副総理が石原氏の手腕にビッグ・クエッション・マークを付けてみせた時には、思わずのけぞってしまった。これが政権の綻びになる可能性を秘めているからだ。その意味で、巷間囁かれているように今回の甘利大臣辞任が安倍政権の「終わりの始まり」だとすれば、それは甘利前大臣の罪状の故にではなく、甘利大臣が閣外に去ることによる政権内の不協和音の顕在化にあるのではないかと推察する。

 であるからこそ、野党は、すでに大臣自ら職を辞し幕引きを図った事案の罪状暴きに奔走するのではなく、真正面から堂々と安倍政権に政策論争を挑み、建設提案を突きつけ、閣内不一致を暴き出すことに全力を傾けるべきなのだ。野党として、スキャンダル攻撃に血道をあげるより、政策論争で政権を追い詰める方がよほど憲政の常道に叶うし、国民の利益になるはずだ。この週末は、野党にとっても頭を冷やすにはちょうどいい。
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教育、教育、そして教育! ―すべては、将来世代のために

 新年、明けましておめでとうございます。
  旧年中は、私長島昭久の政治活動に温かいご理解ご支援を賜り心より感謝申し上げます。今年は正月4日から国会が始まり、私は、衆議院文部科学委員会の筆頭理事に就任することが決まり、子供たちの教育、子育てファミリーの支援、我が国の将来を切り開く人材づくりと世界の課題を解決する革新的技術の振興に全力を挙げて取り組む一年として参ります。

福澤諭吉が『学問のすゝめ』で伝えたかったこと

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり・・・」

 明治の啓蒙家・福澤諭吉の名著『学問のすゝめ』の冒頭の一節は、つい数年前まで士農工商の封建体制にあった日本において、「人間平等の思想」を高らかに宣言したものとして、明治初頭の人々に大きな影響を与えました。なにしろ、この本は、明治5年2月に初編が出版されてから瞬く間に22万部を売り尽くし、最後の第17編まで含めるとじつに340万部を売り上げたというのです。当時の人口が3400万人ですから、老いも若きも含めて10人に一人の日本人がこの本に触れたことになります。

 ところが、福澤が本当に世に問いたかったことは、この後に続く次の一節でした。
「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と。つまり、本来は平等であるはずの人間なのに現実には不平等が生じている、その理由は何か、と問うのです。そして・・・
「その次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」と断じたのです。つまり、不平等な現実を変えられるのは「学ぶこと」なのですよ、と説いたのです。

混沌の時代に明治人の魂を揺さぶった『学問のすゝめ』

 この福澤が放った言葉がどれほど衝撃的だったかを理解するには、当時の時代背景を思い起こす必要があります。『学問のすゝめ』が出版された前年、明治4年に断行された廃藩置県は、維新革命の頂点をなす驚天動地の改革でした。なにしろ数百年来の権力者たちが根こそぎその地位を追われることになったからです。なんと薩長政府が、自らの基盤である薩摩藩も長州藩も廃止してしまったのです。その結果、世の中の価値観が大混乱に陥ったことは想像に難くありません。地位を追われた士族たちの多くが絶望の淵に立たされ、彼らだけでなく戊辰戦争直後の騒然とした世相の中で多くの人々が計り知れない将来不安に苛まれていたことでしょう。

 そういう時代背景にあって、福澤が放った「学ぶことこそが、あなたの境涯や将来の運命を変えることができるのです!」という一言が、どれほど明治の人々の魂を揺さぶり、生きる勇気を与えたことでしょう。

今日の日本でも、人々の運命を切り開くのは「学び」だ!

 今、多くの人々が将来不安に襲われているこの時代にあって、福澤の『学問のすゝめ』に込められたメッセージがますます重要になって来たと思うのです。なぜなら、子供の貧困も、貧困の連鎖も、ワーキングプアの問題も、そこから脱出するカギを握るのは、「学ぶ」こと。そして「学び直す」ことだからです。グローバル化の荒波を撥ね返す力をもたらすのも、ノーベル賞を受賞するような革新的な研究開発で世界の課題を解決する力を発揮するのも、すべては「学び」次第だといっても過言ではないのです。

人の成長なくして、経済成長なし

 そして、その「学ぶ場」は、学校教育や研究機関だけであってはならない。意欲さえあれば、いつでも、どこでも、誰でも、何度でも「学び直す」機会を保障することこそが、21世紀の教育システムの在るべき姿ではないかと考えます。それは、重厚長大産業が牽引した20世紀型の社会構造から、ソフトやデザインなどサービス産業を中心とする知識社会へと変貌を遂げる21世紀には、その担い手としての人間の能力が経済成長のカギを握ることになるからです。にもかかわらず、我が国の教育への投資(GDP比)は主要国の中で最下位(32位)という体たらく。学ぶ機会への投資こそが潜在成長力を押し上げる決定打であることを自覚し、今こそ政治の焦点をコンクリート中心の公共事業から「人への投資」へと大きく転換すべきです。

 2016年、長島昭久は、「未来に誇れる日本」実現に向けて「人への投資」に徹底的に取り組んで参ります。もちろん、外交・安全保障政策についても引き続き積極的に発信して参ります。どうぞ倍旧のご支援を宜しくお願いします。

平成28年 丙申 元旦
衆議院議員 長島昭久

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いよいよ野党再編に向けて勇気ある一歩を踏み出す!

第189回通常国会を振り返って

 9月末に閉会した通常国会は、安保法制をめぐる乱闘国会という後味の悪いものとなってしまいました。国会を取り囲むデモ隊の先頭に立ち共産党委員長と手を取り合って万歳する民主党代表の姿を見た多くの方々から「民主党はいつから共産党と同じになってしまったの?」と懸念をぶつけられました。野党に転落してからも熱心に民主党にアドヴァイスしてくださったある有識者からも「今の民主党は、この国のサイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)を余りにも馬鹿にしているのではないか?」と失望されてしまいました。

民主党は、現実を見据え、つねに「対案」を示して来た

 私は、2000年に補欠選挙に初挑戦して以来、民主党として政治活動を行って参りましたが、こんな民主党に成り下がってしまったことが残念でなりません。2009年に悲願の政権交代を実現するまでの民主党は、自民党に代わる現実的な政権の受け皿をつくり上げるべく、日々政策論争を行い、官僚機構の力を借りずとも幾多の法案を国会に提出し、つねに国会論戦の先頭に立って政府与党の誤りを正し、国民に堂々と政策選択肢を示したのです。それは外交や安全保障も例外ではなく、国際情勢の現実を見据えて、つねに「対案」を掲げ続け政府の暴走を諌めました。

今こそ、民主党は原点に立ち返れ!

 戦後最長の国会会期を終え、私たちはもう一度原点に立ち返る必要があると考えます。なぜなら、今の「一強多弱」国会のままでいいと考えている国民はほとんどいないからです。「民主党に頑張ってもらいたい!」という方々の大半は、民主党そのものというより、バラバラになって力を失った野党を再建して欲しいという切実な願いを表明しているのだと受け止めています。民主党を応援しているというより、民主党が掲げてきた政権交代可能な二大政治勢力の競争による緊張感溢れる政治の再現を切望しているのです。

政策の旗印は、現実的な外交・安保政策と、将来の安心と生きがいを実感できる経済社会

 私は、旗印になる基本政策を次の3つに絞っています。第一に、先の通常国会の反省に立って「現実的な外交・安全保障政策」です。国際関係は独りよがりでは乗り切れず、つねに現実的な対応が求められます。第二は、「行き過ぎた新自由主義を修正する経済政策」です。新自由主義が前提にする「工業化社会」はもはや時代遅れです。にもかかわらず、生産性や効率を求める新自由主義経済では、賃金や雇用は容赦なく切り捨てられ多くのブラック企業を生み出し、生活者は凄まじいストレスと将来不安に苛まれ、格差や貧困は悪化します。これに対し、すでに北欧を中心とするヨーロッパでは30年前から脱・工業化の「知価(知識)社会」(サービスやデザインなど知識集約型の産業構造)に対応する社会インフラと国民生活のセーフティネットの張り替えが精力的に行われ、日本より国民負担が重くても多くの人々が将来の安心と生きがいを実感できる社会をつくり上げています。

そして、徹底した分権と、人と未来への投資

 第三は、「思い切った分権で社会保障と教育の現場を再生する政策」です。教育、医療、福祉(子育て・介護)などは利用者のニーズに近い各地域が財源も権限も人材も主導権を握って推進すべきです。そしてその中核は、中央政府が全国一律でばらまく現金給付型から、地域の実情に合致した人的サービスを住民参加の下に提供する現物給付型に転換して行くのです。そのためには、憲法第8章(地方自治)を改正してでも実質的な地方分権を確立せねばなりません。

すべては、「未来に誇れる日本」のために!

 今こそ民主党は自分たちの殻を破って、改革の志と政策を共有する野党勢力の再結集を図らなければなりません。衆議院にも参議院にも、民主党が分裂し下野して以来、15年前の民主党結党時と同様の改革の情熱に溢れ、分権と共生の精神を持して新党を立ち上げた潜在的な同志が数多くいます。いや、全国に津々浦々で再び政権交代を夢見て草の根の運動を展開している同志たちがいるはずです。その人々の力を糾合するのです。私もその大きなうねりの中で、「未来に誇れる日本」をめざし、身を捨ててでも中核的な役割を果たす覚悟です。どうぞ、倍旧のご支援をよろしくお願いします。

衆議院議員 長島昭久

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