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日本が世界に誇る文化として食を挙げることができる。味だけでなく見た目の美しさも兼ね備える日本料理は芸術と言えるが、一般的には外国人には日本食と言えばSushi、Sashimi、Tempura程度の認識しかなく、同じレストランで提供されるケースもあるので中華料理の一部と誤解している人も多いようだ。まぁ我々も全ての外国料理毎の細かい違いがわかるわけではないので、同じようなものだ。
とはいえ我々が日常的に口にしている食事は日本料理の中のほんの一部であり、伝統的な日本料理については知らないことが多い。例えば、伝統的な日本料理のひとつとして頭に浮かぶのは懐石料理だが、これは茶道から発した料理で、本来は茶を楽しむためのものであったのが、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理を指すといった実利的な意味に変化したものだそうだ。

めでたい席やもてなしの場でご馳走がふるまわれることは今も昔も同じであり、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたそうだ。
そして平安時代中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列が確立し、その接待の形式として「大饗」(大規模な饗宴) が定められた。ここで提供されたのが大饗(だいきょう/おおあえ)料理である。

有職料理 大饗料理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%96%99%E7%90%86

唐文化の影響を受け、「台盤」と呼ばれるテーブルに全料理を載せたり、「唐菓子」など渡来の料理も添えられるなどの献立の多さもさることながら、食べる側にも食べ物の種類ごとに細かい作法が要求されたことが『内外抄』や『古事談』の記述から分かり、現代人から見ると大変堅苦しい物だったようである。出汁を取る、下味をつけるなどの調理技術が未発達で、各自が塩や酢などで自ら味付けをしていた。珍しいものを食べる事によって貴族の権威を見せつけ、野菜を「下品な食べ物」とみなして摂取しなかった事や、仏教の影響で味の美味いまずいを口にする事をタブー視していたことから、栄養面から見るとかなり悪い食事であった。

平安末期の『兵範記』に書かれた藤原基実の保元元年(1156年)「大臣大饗」は、永久4年(1116年)の藤原忠通のそれを参考とし、事前の準備は宴会予定日の9日前から始められ、赤漆塗の膳を特別にあつらえ、その膳の上には白絹を現在のテーブルクロスの如く敷き、これまた特別にあつらえた折敷や漆塗の食器に料理を盛りつけたとある。
この時の献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていた。献立内容は「飯」、調味料、生もの、干物、唐菓子(今のドーナツに近い)、木菓子(=果物類)。生ものには獣肉類は無く、魚介類、鳥類(雉など)で占められ、干物もアワビやタコ、蛙などで獣肉類は無い。調味料が別皿になっているところから見て、料理自体には味はなく、食べるときに好みで調味料をつけながら食べた物と考えられる。この調味料も身分によって差があり、尊者や公卿はひしおなど4種あったが、主人には塩と酢のみであった。また、食器として箸の他に鎌倉時代以降は衰退する匙(スプーン)が存在し、各料理を盛りつけた容器の大きさがほぼ同じで料理の序列が判然としていない点も後の時代の料理とは異なる特徴といえる。


料理は文字で記してもなかなかイメージが浮かばないが、京料理展示大会で再現されたという大饗料理の写真が見つかった。上記の記事にもあるとおり全体的に唐の影響が強く出ていることがうかがえる。



さぞかし大きな宴だったのだろうが、料理自体には味がなかったり、野菜が含まれていなかったりと正直あまり魅力を感じない。食の技術という点でこの時代はまだ充分でなかったようだ。

さて、平安から鎌倉・室町と時代が変わり、武士の世の中になると、武士と公家の各々で饗応の料理が発達した。武士は本膳料理、公家が有職(ゆうそく)料理である。

本膳料理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86

室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式。 しかし明治時代以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理にその面影が残されている程度である(婚礼の際の三々九度など)。更に、肝心の料理店自体が用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。

式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、硯蓋からなり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もある。ただし、特徴的なのはこうした膳の多くが「見る」料理であり、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。この本膳料理は少なからず儀礼的な物であり、この後に能や狂言などの演技が行われつつ、後段と呼ばれるうどんや素麺といった軽食類や酒肴が出されて、ここで本来の意味での酒宴になった。なかには三日近く行われた宴もあったようだ。


ということで、現在では衰退してしまった本膳料理だが、その一部を安土桃山時代に創業し400年の歴史を持つ平八茶屋が再現している。

平八茶屋
http://www.heihachi.co.jp/



本膳料理は当家の創業いたしました安土桃山時代に完成いたしました本格的儀式料理でございます。当時は最高のもてなしの膳として、丸1日かけて食されたものでございます。当家の本膳料理は今の時代にあうように、中心となる部分だけ、平成 8年 8月 8日、当家20代目当主によって再現されました。一の膳、二の膳と続く料理は、全部で23品にも及びます。時間にして、3時間ほどのお食事となりますが、蝋燭(ろうそく)のあかりのもと、古(いにしえ)の人々が感じた時の流れをしばしの間お楽しみくださいませ。

そして、大饗料理の流れをくむのは有職料理である。そして有職料理を正式に継承しているのが、京都・西陣にある萬亀樓である。

萬亀樓
http://www.mankamerou.com/index.html



当店は、京都西陣の一角にあります。創業は享保7年(1722年)で、初めは造り酒屋(萬屋)を営み、後に料理屋となり屋号を「萬亀樓」と改め285年になり、当代で9代目になります。 又、御所ゆかりの生間流式庖丁(当代29代目生間正保)・有職料理を正式に継承しております。

ここで出てくる式庖丁とは、料理とともにめでたい席で披露される食の儀式で、様々な流派が作法を継承しているが生間流は唯一京都に残る御所ゆかりの流派ある。(生間家は代々宮廷の調理を担当してきた)
生間流式庖丁は、烏帽子、袴、狩衣姿でまな板の上の魚や鳥に直接手を触れずに包丁刀と真菜箸を使って料理し、瑞祥というめでたい形に盛り付けるものである。



こうしてみるとやはり伝統的な料理は儀式的な要素が強いことを感じる。基本的に料理は栄養バランスがよくて美味しければいいと思うのだが、それだけでは文化の域には達しないようだ。

萬亀樓はぐるなびや食べログにも掲載されているなど現代ではだいぶ敷居が下がっているようだが、少し襟を正して平安時代の貴族や江戸時代の公家の気分で有職料理を食してみるのもいいだろう。


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