今日はもう初七日、なんとも早いものだ。
先週の今頃は、何をしていたのだろう。
そうだ、自分の病院の待合室で義母から妻が酸素マスクをつけたという電話を貰ったのだった。
あの時もっと早く病院に行って、いろいろ話をすればよかった。
あの晩、病室に泊まれればよかったのに・・・。
いろいろ考えてしまう。
先週の土曜日、酸素マスクをしている妻に「大丈夫?呼吸は苦しくない?」と聞いたら
「大丈夫、苦しくない」と囁くように応えてくれた。
夕飯も、マスクを外して少しは口にしたのに・・・。
8時の面会終了時間になり、後ろ髪引かれる思いで義妹と病室を後にした。
そのあと、段々肺の機能が低下したようで、翌朝は相当息が苦しかったようだ。
あの晩、妻は一人で何を考え、何を感じていたのだろう。
多分不安で不安で仕方がなかったに違いない。
その時に傍にいてやれなかったことは、今でも心残りだ。
翌日の日曜日、息子たちは部活やバイトで朝から出かけていた。
10時過ぎに病院から電話があり、肺の機能が夕べから相当落ちており酸素の濃度を上げているという。
少し前に夏のスーツを買って、その直しが出来るため、スーツを受け取ってから病院に行くつもりでいた。
ところがその後またすぐに当直の医師から電話があり
すぐにでも人工呼吸器を付けた方が良い状況なので、至急来て欲しいとのこと。
とにかく取る物も取り敢えず病院に駆けつけた。
病院に到着したのが午後1時。
妻は大きく荒い息をしながら、目を見開いている。
「大丈夫?お父さん来たよ!Mちゃん(義妹)もいるよ!」と手を握って声を掛けると、頷いて手を握り返してきた。
その後先生の説明を聞きに別室へ入ったが、肺の機能がどんどん低下し酸素を作ることが出来ない状況とのこと。
人工呼吸器を装着すると、意識レベルを下げるので話は出来なくなるというので
息子や親を呼ぶために2~3時間待てないかと聞いた。
先生と看護師は顔を見合わせ、「厳しいですがもう少し様子を見ましょう」と言ってくれた。
息子たちと義母、それと私の実家の両親に連絡をした。
息子は1時間ちょっとで来れるという。義母は所用があって出かけており連絡がつかない。
実家の両親は、取り敢えず新幹線に乗ると言っている。
病室に戻り、妻に声を掛ける。
実は前の日に引き出しを整理していたら、7~8年前までしていた私の結婚指輪が出てきた。
太ってきつくなったので外していたものだ。
でもこれからは無理にでも着けよう思い、嵌めてきていた。
「お母さん、見える?ほら指輪をしてきたよ。また一緒だね!」
確かに妻は私の手を見上げた。でもどこまで理解したのだろうか。
2時過ぎになって、肺の状況はますます悪くなってきた。
先生から「もう限界です。すぐ人工呼吸器を装着するか、それをやらずにこのままでゆくか決断をお願いします」と言われた。
息子も義母もまだ到着していないが、一刻を争うので器具の装着をお願いした。
せめて意識をなくす前に息子や母親に会わせたかったが、それも叶わなかった。
器具装着には随分時間がかかった。
最中に息子が相次いで駆けつけた。でも処置中なので病室には入れない。
長男は病室の外に座り込んで泣きじゃくっている。
次男は駆けつけるなり、「どうなってるんだよ!」とイスを蹴りつけた。
「二人とも取り乱すんじゃないよ!お母さんが苦しんで頑張っているんだから!」
そう言うのが精一杯だった。
程なく義母にも連絡が取れて駆けつけてきた。
しかしまだ病室には入れない。
5時近くなって、漸く面会が許された。
妻は、機能が多少は残っている右肺を上にするように横向きで寝ている。
口には太い管が入り、点滴が何本もぶら下がり各種計測のカラーモニターが枕元に
置かれている。
機械のリズムと呼応するように胸を大きく動かしている。
目は半開きで無表情。麻酔はしていないが意識はないという。
暫くして、主治医のS先生が駆けつけてくれた。
妻の体が大きく揺れているのは、機械の動きとは別に自分で呼吸をしようとしているからということだ。
なんか見ていて痛々しい。
その後、妻の体の動きが静かになった。
機械に呼吸を委ねたほうが体が楽なので、自然と自分で呼吸をしなくなるらしい。
S先生は、「こうなると人それぞれですが、それほど長くは持ちません。
でも家族みんなで付き添うと家族全員で倒れてしまうので、順番に交代で看たほうがいいですよ」と言う。
そんなことを話しているうちに、モニターの心拍数が徐々に下がってきた。
先生の顔つきが変わり、「仰向けにしましょう」と言い看護師とともに妻を仰向けにした。
S先生の「家族の体が持ちません」との言葉が聞こえて、自ら幕を引くことにしたように
どんどん心拍数が下がってゆく。
S先生が心臓マッサージを始めた。
マッサージをすると、モニターの数字が上がり、波形が動き出す。
しかしマッサージを止めると、また数字は戻り波形が直線に近くなる。
看護師さんと交代で30分ぐらい、マッサージを続けてくれた。
しかし止めると、妻の心臓は「もういいよ」と言うように動かなくなる。
一定の間隔で波線が動くが、これは電気的な刺激によるもので自力で心臓が動いているものではないと言う。
「先生、もう結構です、十分です。おばあちゃんもYもWも、これでいいよな」
息子たちは、泣きながら頷いた。
「残念です。午後6時25分でした」
思わず私も自分の腕時計を見てしまった。間違いなく6時25分。
長男「もうすぐ20歳の誕生日なのに!その前に逝っちゃうなんて!」
次男「俺、頑張って勉強して絶対大学受かるからな!!」
義母「もうゆっくり休んで!心配することないよ!」
義妹「辛かったね、もういいよ、大丈夫だよ」
私はなんと声を掛けたのか覚えていない。
でも「頑張ったね!辛かったね!もう安心して休んで!」というようなことを言ったような気がする。
その後は淡々と時が過ぎたような気がする。
器具を外す間、家族は病室の外に出された。
デイルーム(面会室)で待っている間、入院中のことやこれからのことを淡々と話していた。
両親の新幹線が到着する時間なので、電話を入れた。
「だめだったよ、急に心臓が弱っちゃって・・・」
暫くしてまた病室に呼ばれ、家族みんなで暖かい濡れタオルで妻の体を清拭した。
今まで一切見せなかった胸の手術痕も拭いてやった。
全然どうと言うことない。なんで拘って見せなかったのだろう。
夫から自分が女として見られなくなるのが嫌だ、いうようなことを言っていたことがある。
家族なのに、なんでそんなに気にしなくちゃいけないのか・・・。
拭きながら、また涙が出てきた。
着替えさせ、義母が薄化粧をしてあげた。
口は器具を装着していたので半開きになっている。
ガーゼであごを縛ってやった。
このときに漸く実家の両親が病院に到着した。
病院の地下2階の霊安室には、お世話になったS先生、看護師さん、そして脳外科のI先生まで駆けつけてくれた。
今日は日曜日、S先生もI先生も休みだったのに。
車を手配し、息子と両親と一緒に妻を家に連れ帰った。
引っ越して漸く2年のマンションだ。
妻を寝かせた和室の畳みもまだ新しく青々としている。
良かったね、帰ってこられて。
先生方は一度自宅に帰してあげたいと仰っていただいたけど、今漸く帰れたね。
家であごに掛けたガーゼを外してやった。
義母が軽くファンデーションを当て、口紅を引いただけなのに、顔全体が血の通った肌色をしている。
口元は微笑んでさえいる。
ここ半年近く、眉間に皺を寄せることが多かった。
特に一月前に入院してからは、ほとんど笑うことさえなかった。
でも今は、本当に安らかな寝顔をしている。
そんなに安心したのだろうか、そんなに楽になったのだろうか。
その寝顔を見ていたら、家族みんなも心安らかになったような気がする。
告別式も終わり、今妻が寝ていた和室には簡易祭壇を設え、遺骨と遺影が飾られている。
遺影は少し迷ったが、あまり昔の若い頃の写真より、極力最近のものを選んだ。
昔の写真は確かに若くて綺麗かもしれない。
でも私の中では、こんなに病気で苦労するようになる少し前の妻のほうが、妻らしい気がしたものだから。
今日は初七日。
このあと義母と義妹がやってくる。
妻は、私にとって最近の妻らしい表情で、笑って母や妹を迎えるに違いない。
長々とすみません。
妻の最後の様子についてできるだけ正確に記録を残したく、長文になってしまいました。
まだ妻が亡くなったという実感が沸きませんが、多分これからいろいろなところで感じて、そして寂しくなるのでしょう。
妻には、これからの家族のことを逐次報告してゆきたいと思っています。
それは、私のもう一つのブログの中で行ってゆきます。
こちらにお越しいただいている方で、もしご興味がありましたら下記のブログもご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ippoyomo1956/
もともと「オチャラケ」的に始めたものでしたが、妻の病状悪化につれて内容を変えてきました。
今後はどういう展開にするか決めていませんが、よろしければ時々覗いていただければと思います。
こちらのブログは、取り敢えず終了させていただきます。
短い間でしたが本当にありがとうございました。
先週の今頃は、何をしていたのだろう。
そうだ、自分の病院の待合室で義母から妻が酸素マスクをつけたという電話を貰ったのだった。
あの時もっと早く病院に行って、いろいろ話をすればよかった。
あの晩、病室に泊まれればよかったのに・・・。
いろいろ考えてしまう。
先週の土曜日、酸素マスクをしている妻に「大丈夫?呼吸は苦しくない?」と聞いたら
「大丈夫、苦しくない」と囁くように応えてくれた。
夕飯も、マスクを外して少しは口にしたのに・・・。
8時の面会終了時間になり、後ろ髪引かれる思いで義妹と病室を後にした。
そのあと、段々肺の機能が低下したようで、翌朝は相当息が苦しかったようだ。
あの晩、妻は一人で何を考え、何を感じていたのだろう。
多分不安で不安で仕方がなかったに違いない。
その時に傍にいてやれなかったことは、今でも心残りだ。
翌日の日曜日、息子たちは部活やバイトで朝から出かけていた。
10時過ぎに病院から電話があり、肺の機能が夕べから相当落ちており酸素の濃度を上げているという。
少し前に夏のスーツを買って、その直しが出来るため、スーツを受け取ってから病院に行くつもりでいた。
ところがその後またすぐに当直の医師から電話があり
すぐにでも人工呼吸器を付けた方が良い状況なので、至急来て欲しいとのこと。
とにかく取る物も取り敢えず病院に駆けつけた。
病院に到着したのが午後1時。
妻は大きく荒い息をしながら、目を見開いている。
「大丈夫?お父さん来たよ!Mちゃん(義妹)もいるよ!」と手を握って声を掛けると、頷いて手を握り返してきた。
その後先生の説明を聞きに別室へ入ったが、肺の機能がどんどん低下し酸素を作ることが出来ない状況とのこと。
人工呼吸器を装着すると、意識レベルを下げるので話は出来なくなるというので
息子や親を呼ぶために2~3時間待てないかと聞いた。
先生と看護師は顔を見合わせ、「厳しいですがもう少し様子を見ましょう」と言ってくれた。
息子たちと義母、それと私の実家の両親に連絡をした。
息子は1時間ちょっとで来れるという。義母は所用があって出かけており連絡がつかない。
実家の両親は、取り敢えず新幹線に乗ると言っている。
病室に戻り、妻に声を掛ける。
実は前の日に引き出しを整理していたら、7~8年前までしていた私の結婚指輪が出てきた。
太ってきつくなったので外していたものだ。
でもこれからは無理にでも着けよう思い、嵌めてきていた。
「お母さん、見える?ほら指輪をしてきたよ。また一緒だね!」
確かに妻は私の手を見上げた。でもどこまで理解したのだろうか。
2時過ぎになって、肺の状況はますます悪くなってきた。
先生から「もう限界です。すぐ人工呼吸器を装着するか、それをやらずにこのままでゆくか決断をお願いします」と言われた。
息子も義母もまだ到着していないが、一刻を争うので器具の装着をお願いした。
せめて意識をなくす前に息子や母親に会わせたかったが、それも叶わなかった。
器具装着には随分時間がかかった。
最中に息子が相次いで駆けつけた。でも処置中なので病室には入れない。
長男は病室の外に座り込んで泣きじゃくっている。
次男は駆けつけるなり、「どうなってるんだよ!」とイスを蹴りつけた。
「二人とも取り乱すんじゃないよ!お母さんが苦しんで頑張っているんだから!」
そう言うのが精一杯だった。
程なく義母にも連絡が取れて駆けつけてきた。
しかしまだ病室には入れない。
5時近くなって、漸く面会が許された。
妻は、機能が多少は残っている右肺を上にするように横向きで寝ている。
口には太い管が入り、点滴が何本もぶら下がり各種計測のカラーモニターが枕元に
置かれている。
機械のリズムと呼応するように胸を大きく動かしている。
目は半開きで無表情。麻酔はしていないが意識はないという。
暫くして、主治医のS先生が駆けつけてくれた。
妻の体が大きく揺れているのは、機械の動きとは別に自分で呼吸をしようとしているからということだ。
なんか見ていて痛々しい。
その後、妻の体の動きが静かになった。
機械に呼吸を委ねたほうが体が楽なので、自然と自分で呼吸をしなくなるらしい。
S先生は、「こうなると人それぞれですが、それほど長くは持ちません。
でも家族みんなで付き添うと家族全員で倒れてしまうので、順番に交代で看たほうがいいですよ」と言う。
そんなことを話しているうちに、モニターの心拍数が徐々に下がってきた。
先生の顔つきが変わり、「仰向けにしましょう」と言い看護師とともに妻を仰向けにした。
S先生の「家族の体が持ちません」との言葉が聞こえて、自ら幕を引くことにしたように
どんどん心拍数が下がってゆく。
S先生が心臓マッサージを始めた。
マッサージをすると、モニターの数字が上がり、波形が動き出す。
しかしマッサージを止めると、また数字は戻り波形が直線に近くなる。
看護師さんと交代で30分ぐらい、マッサージを続けてくれた。
しかし止めると、妻の心臓は「もういいよ」と言うように動かなくなる。
一定の間隔で波線が動くが、これは電気的な刺激によるもので自力で心臓が動いているものではないと言う。
「先生、もう結構です、十分です。おばあちゃんもYもWも、これでいいよな」
息子たちは、泣きながら頷いた。
「残念です。午後6時25分でした」
思わず私も自分の腕時計を見てしまった。間違いなく6時25分。
長男「もうすぐ20歳の誕生日なのに!その前に逝っちゃうなんて!」
次男「俺、頑張って勉強して絶対大学受かるからな!!」
義母「もうゆっくり休んで!心配することないよ!」
義妹「辛かったね、もういいよ、大丈夫だよ」
私はなんと声を掛けたのか覚えていない。
でも「頑張ったね!辛かったね!もう安心して休んで!」というようなことを言ったような気がする。
その後は淡々と時が過ぎたような気がする。
器具を外す間、家族は病室の外に出された。
デイルーム(面会室)で待っている間、入院中のことやこれからのことを淡々と話していた。
両親の新幹線が到着する時間なので、電話を入れた。
「だめだったよ、急に心臓が弱っちゃって・・・」
暫くしてまた病室に呼ばれ、家族みんなで暖かい濡れタオルで妻の体を清拭した。
今まで一切見せなかった胸の手術痕も拭いてやった。
全然どうと言うことない。なんで拘って見せなかったのだろう。
夫から自分が女として見られなくなるのが嫌だ、いうようなことを言っていたことがある。
家族なのに、なんでそんなに気にしなくちゃいけないのか・・・。
拭きながら、また涙が出てきた。
着替えさせ、義母が薄化粧をしてあげた。
口は器具を装着していたので半開きになっている。
ガーゼであごを縛ってやった。
このときに漸く実家の両親が病院に到着した。
病院の地下2階の霊安室には、お世話になったS先生、看護師さん、そして脳外科のI先生まで駆けつけてくれた。
今日は日曜日、S先生もI先生も休みだったのに。
車を手配し、息子と両親と一緒に妻を家に連れ帰った。
引っ越して漸く2年のマンションだ。
妻を寝かせた和室の畳みもまだ新しく青々としている。
良かったね、帰ってこられて。
先生方は一度自宅に帰してあげたいと仰っていただいたけど、今漸く帰れたね。
家であごに掛けたガーゼを外してやった。
義母が軽くファンデーションを当て、口紅を引いただけなのに、顔全体が血の通った肌色をしている。
口元は微笑んでさえいる。
ここ半年近く、眉間に皺を寄せることが多かった。
特に一月前に入院してからは、ほとんど笑うことさえなかった。
でも今は、本当に安らかな寝顔をしている。
そんなに安心したのだろうか、そんなに楽になったのだろうか。
その寝顔を見ていたら、家族みんなも心安らかになったような気がする。
告別式も終わり、今妻が寝ていた和室には簡易祭壇を設え、遺骨と遺影が飾られている。
遺影は少し迷ったが、あまり昔の若い頃の写真より、極力最近のものを選んだ。
昔の写真は確かに若くて綺麗かもしれない。
でも私の中では、こんなに病気で苦労するようになる少し前の妻のほうが、妻らしい気がしたものだから。
今日は初七日。
このあと義母と義妹がやってくる。
妻は、私にとって最近の妻らしい表情で、笑って母や妹を迎えるに違いない。
長々とすみません。
妻の最後の様子についてできるだけ正確に記録を残したく、長文になってしまいました。
まだ妻が亡くなったという実感が沸きませんが、多分これからいろいろなところで感じて、そして寂しくなるのでしょう。
妻には、これからの家族のことを逐次報告してゆきたいと思っています。
それは、私のもう一つのブログの中で行ってゆきます。
こちらにお越しいただいている方で、もしご興味がありましたら下記のブログもご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ippoyomo1956/
もともと「オチャラケ」的に始めたものでしたが、妻の病状悪化につれて内容を変えてきました。
今後はどういう展開にするか決めていませんが、よろしければ時々覗いていただければと思います。
こちらのブログは、取り敢えず終了させていただきます。
短い間でしたが本当にありがとうございました。