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水戸光圀の「大日本史」編纂の裏側

2013年06月18日 | 歴史メモ
 水戸光圀が「大日本史」の編纂作業に着手したのは1657年、30歳、まだ水戸家の当主ではない時だった。光圀の父であり、家康の十一男であった徳川頼房がまだ健在の時だ。若君に過ぎない光圀が、当主である父の意向を無視して、そんな大事業を簡単に開始できるものではない。この「大日本史」の完成は明治も終わりに近い1906年(明治39年)だ。これは水戸藩の事業として行われていた江戸時代、大変な費用がかかり、そのため領民に重税を強いたといわれる。「国の歴史の編纂」という事業は、本来幕府がやるべきことで、徳川御三家とはいえ、水戸藩35万石の大名にとっては大変な事業だ。これには家康の密命があったといわれている。「大日本史」は後に、勤皇思想「水戸学」の源流となった。「水戸学」は、敢えていえば「絶対の忠誠の対象を天皇とし、日本人の考え方になじむように改変された朱子学」ともいえる。中国の朱子学の考え方を貫けば、天皇は絶対的忠誠の対象にはならない。水戸学はそれを改造したといえよう。

 光圀は楠木正成を顕彰する碑を自費で正成討死の地である湊川に建てた。その流れの中で、幕末の尊王論が起こり、それが起爆剤となって明治維新も実現する。今でも皇居前広場に楠木正成の銅像がある。光圀は水戸黄門と呼ばれた。黄門とは中納言の唐名であるが、その後は黄門といえば光圀を指すようになった。幕末に尊王論の高まりと共に、町人の間で水戸黄門の諸国漫遊講談がもてはやされた。
 一般的には光圀は徳川幕府側だから反幕府ではないと考えられる。しかし、葵の御紋の入った印籠を見せる場面は明治以降近代に入ってからであり、初期の講談における水戸黄門は、むしろ将軍綱吉に対する手厳しい批判者であった。「生類憐れみの令」に反発して、水戸領内で犬狩りを行ない、犬の皮を剥いで大量に綱吉のもとへ送りつけたこともあった。

 綱吉は兄の徳川綱重が若死にしたおかげで将軍になれたが、跡継ぎの男子には恵まれなかった。この時期に批判的な姿勢をとったのが光圀だ。光圀は、将軍の兄の遺子・綱豊(後の家宣)を養子に迎えて将軍職を譲るのが儒教の信徒として当然の道と主張した。光圀自身も、自分の兄が庶子との理由で他家へ養子に出され、弟である自分が水戸家の当主となっており、実子がいるにもかかわらず、実子と兄の子を交換して、水戸家の嫡流を守っている。最終的には将軍綱吉の方も、兄の遺子・綱豊が家宣と改名して六代将軍となっている。

 家康は水戸家を将来の保険として考えていたようだ。将来、徳川将軍家と天皇家が敵対した場合は、水戸家は単独で天皇家に味方する。どちらが歴史の勝利者となっても、徳川一族の「血」は守られる。実際には、徳川将軍家では将軍が「京」とつながらないように、徹底的にその「血」を排除していた。三代将軍家光の愛妾である「お万の方」は公家の出身だが、子を産むことは許されなかった。反対に水戸家では、「京の最高の血」を入れようとしていた。これは将軍家の暗黙の了解あってのことで、光圀が晩年よく口にしていたのは「将軍家は親戚頭に過ぎぬ、我々の主君は天皇家である」という言葉だった。

 歴代の水戸家の藩主の正室は、ほとんど五摂家から正室を迎えている。子沢山であった11代将軍徳川家斉の治世に、水戸藩の当主が33歳の若さで死んだ時、将軍家では家斉の子を新藩主に押し付けようとしたが、水戸藩は抵抗し、新藩主として選んだのは関白一条家の血を引く先代藩主治紀の三男の斉昭だった。この人こそ、幕末に攘夷派の大親玉として活躍し、大老井伊直弼と争った水戸斉昭である。そして、その子が最後の将軍となった徳川慶喜である。徳川慶喜は、勝てるはずだった鳥羽伏見の戦いで、薩長側が「錦の御旗」を立てて進軍してきた時、腰砕けとなり軍艦で大阪から江戸まで逃げ帰った最後の将軍だ。彼の父すなわち水戸藩の9代藩主の水戸斉昭、そしてその妻、つまり彼の母、それは有栖川宮家の吉子女王だった。つまり、徳川慶喜には天皇家の血が入っていた。先に将軍となった14代徳川家茂は天皇家の皇女和宮と結婚して「公武合体」しようとしたが、水戸家ではそれ以前から実行していた。また、皇女和宮の婚約者でありながら「公武合体」のために婚約解消させられた有栖川宮親王は、後の幕府討伐の官軍の東征大総督である。徳川慶喜とは「母方の従兄弟の子」という関係になる。

 家康の計画でゆくと、「将軍家に逆らって官軍側に味方する」はずだった水戸家の人間が、こともあろうに最後の将軍になってしまった。つまり、幕府は一番「大将」にふさわしくない人間を「大将」に選んでしまった。なぜそんなことになったか、八代将軍吉宗が徳川御三家の他に、自身のエゴから「御三卿」を新設し、その御三卿の一つ、一橋家に徳川慶喜が養子に入ったことにある。これで、家康のプランは台無しとなってしまった。また、「大日本史」より先に家康のブレーンでもあった林羅山が中心となって「本朝通鑑」全310巻が、神代から後陽成天皇までの正史(官史)で作られている。この「本朝通鑑」の歴史観が、光圀をして「大日本史」編纂に走らせた。

「本朝通鑑」の中に天皇中国人説が書かれている。林羅山たちは儒教の徒だ。儒教の発祥の地は中国、中国というのは単なる地名ではなく、「中華の地」つまり世界で一番優れた国という意味であり、中華文明以外に文明は存在せず、中国の君主、皇帝こそ世界唯一の存在だという。そこで、日本人はこれに反発し、この後に「日本こそ中国だ」と主張し、山鹿素行は「中朝事実」なる本を書く。中朝とは中国、それは日本だと主張している。戦国末期、公家の冷泉家の子に生まれた藤原惺窩は、秀吉の朝鮮出兵で捕虜となり、朝鮮人儒学者と親しく交わり、聖人の国(中国、朝鮮)に生まれたかったと愚痴をこぼしている。その弟子が林羅山だ。 そして、日本で最も徳の優れた家系である天皇家は中国から聖人の子孫が渡ってきたものと考え、その神話も、「大和」の外からきた(天孫降臨)という。更に、林羅山は、天皇家を中国で最も理想的な王朝とする古代「周」の太伯の子孫だとする。光圀にとっては、こんな話は絶対に許すことが出来なかった。日本は神国であるという神道と儒教を合体させ、日本流の天皇絶対主義儒教を生み出して反論した山崎闇斎もいるが、光圀の反論もこれに劣らなかった。

 紀元前に孔子を開祖として始まった儒教は、当初は体系的にまとまったものではなく、後に孟子や荀子も出て、相互に矛盾もあり、整合性のあるものではなかった。12世紀に朱子(朱熹)が登場し、一つの哲学的学問体系として整理した。従って、これ以後を新儒教と呼ぶ。朱子の学説は、この世界には「理」という普遍的原則があり、西洋科学でいう「自然の法則」に似ているが、西洋と大きく違う点は、それ自体が「理性的」な秩序をもたらすものとする点だ。この「理」を極める「窮理」が学問の本質であり、人間はそれを窮めることで正しい存在になるという。西洋的にいうなら、それは「神」になる。朱子の新儒教は、それまでの儒教を体系的にしたという功績もあるが、大きな罪作りもしている。それはあまりにも独断的な中華思想を肥大化させたことだ。

 朱子が活動した12世紀は、当時の中国、「宋」の国が異民族に圧迫され、領土を侵略されていた。世界一優れた帝国が野蛮人に圧迫されることはあってはならない、それが現実に起こってしまった。しかし、あるべき理想に逃げ込んだのが朱子学だ。中華思想という理想の極致こそが朱子学だった。その後、世界一、正義であるはずの中国が野蛮人の「金」や「元」に滅ぼされてしまう。そこで、野蛮人(外国人)は排除すべきという排他的、独善的な主張が朱子学の中に組み込まれてゆく。これは一種の過激な宗教だ。日本では、後醍醐天皇が、これを尊王論に取り入れて熱狂的に信奉し、これに楠木正成が加担し討幕運動を成功させた。幕末においても、朱子学によって強化された最大のものが尊王攘夷の運動だったといえる。

 光圀は、亡命してきた当時の中国の「明」の学者(朱舜水)を水戸に招き、日本歴史上の人物について朱子学による再評価を行った。そこで注目されたのが楠木正成である。武家の出身でありながら天皇家に味方し、幕府側から見れば、時の将軍であった足利尊氏に反逆した人間であった。かつて、学問好きで読書家だった家康は、「忠義」というものを最大の目標とする朱子学さえあれば、徳川家は末永く安泰だと信じた。それが、家康の孫、光圀の代であっけなく裏目に出て、勤皇運動は倒幕運動となった。皮肉な朱子学の結末ともいえよう。

1 コメント

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家康の残した水戸藩への遺言か。 (K.K)
2013-06-18 06:44:28
家康がそこまで考えて、水戸藩に遺命していったなんて面白いですね。それが皮肉な結末を幕末に迎えたとはねえ。
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