苦労したのは又市征治の母だけではなかった。
征治には11歳年上の兄がいた。又市家の長男・久義である。彼は終戦後、旧制神通中学(現在の富山中部高校)に通い始めたが、その後間もなく中学をやめた。家業の売薬業を担うことにしたのだ。
又市家は、春から秋は農業をし、農閑期である秋から翌年の春にかけて売薬に出かけて得た収入で生活してきたが、父は軍のトラックにはねられて脚を失っていた。交通機関も発達していないこの時代、行李を背負って顧客を訪ね歩く売薬業は久治には無理だった。
中学が義務教育になったのは昭和22年からだが、久義はその前に学校をやめ、家族のために働き始めたのだ。久義は当時まだ13歳くらいである。彼もまた時代の犠牲者の一人と言って良いだろう。
売薬さん(いわゆる、富山の薬売り)は日本全国の顧客を訪ねて旅をするというが、又市の顧客は群馬県にあった。久義は一年のほとんどを仕事先の群馬で生活しながら、実家に送金を続けたという。
(敬称略)
征治には11歳年上の兄がいた。又市家の長男・久義である。彼は終戦後、旧制神通中学(現在の富山中部高校)に通い始めたが、その後間もなく中学をやめた。家業の売薬業を担うことにしたのだ。
又市家は、春から秋は農業をし、農閑期である秋から翌年の春にかけて売薬に出かけて得た収入で生活してきたが、父は軍のトラックにはねられて脚を失っていた。交通機関も発達していないこの時代、行李を背負って顧客を訪ね歩く売薬業は久治には無理だった。
中学が義務教育になったのは昭和22年からだが、久義はその前に学校をやめ、家族のために働き始めたのだ。久義は当時まだ13歳くらいである。彼もまた時代の犠牲者の一人と言って良いだろう。
売薬さん(いわゆる、富山の薬売り)は日本全国の顧客を訪ねて旅をするというが、又市の顧客は群馬県にあった。久義は一年のほとんどを仕事先の群馬で生活しながら、実家に送金を続けたという。
(敬称略)