ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

多摩川を歩く(その20)(多摩川スピード   ウェイ:川崎側)   2022.9.12

 

(写真は、多摩川の河川敷の「多摩川スピードウェイ」)

 

 

 

前回のゴールの東急東横線・新丸子駅で下ります。

昔、この新丸子駅の近くに住んでいたので、多摩川の土手へ

向かう前に、昔住んでいたアパートを探して、駅周辺を散策

します。

駅前の商店街は、昔からこんな感じだったのか?思い出せ

ません・・・?

ごちゃごちゃとしていて昭和レトロ的な印象しか残って

いません。

道幅が少し広がってアスファルトではなくなり、商店街全体が

オシャレで綺麗になった様です。

商店街の奥の左側には、更に建設中の武蔵小杉のマンション群

が!

商店街を抜けると、右手に医大グラウンドがあるハズですが?

医大グラウンドがあった場所には、写真の「日本医科大学

武蔵小杉病院」の立派なビルが建っていました。

その奥には、洒落たデザインのビルが?

近づいてみいると、川崎市立小杉小学校とあります。

この辺りは、武蔵小杉のマンション群の外れになるので、人口

急増で、こんなに大きくて斬新なデザインの小学校が新設

されたのでしょうか。

新しいビルが建って道幅も広くなっているので、昔住んでいた

アパートを探す起点が見つかりません。

10年くらい前の2013年にこの辺りを訪れたときは、

昔住んでいたアパートは、前頁の写真の写真の様に、

確かに未だあったのですが・・・

少し歩くと、写真の大西学園がありました。

建物は新しくなっていますが、場所は昔のままみたいなので、

この大西学園を起点にして、記憶をたどりながら昔住んでいた

アパートを探します。

ようやく、住んでいたアパートの前の路地を見つけました。

微かに見覚えのあるこの路地の左手にアパートはありました。

この路地で、娘が初めてよちよちと歩きだしました。

 

このときの”娘の初歩き”の嬉しかった記憶が、鮮明に

蘇りました!

 

現在は、住んでいたアパートは取り壊されて、個人のお宅に

なっているみたいです。

 

 

路地の端には、「日陰、風害、街こわし 超高層ビル建設

反対!」の旗が立っています。

 

当時は、住んでいるアパートが、その後に出現する武蔵小杉の

マンション群で日陰になるなんて想像もしませんでした。

 

新丸子駅へ戻り、駅から丸子橋へ向かいます。

 

多摩川に戻り土手道を歩いて行きます。

ふと丸子橋を振り返ったときに、土手の脇に、うっかり

見落として通り過ぎてしまった小さな陶磁器の説明板が

あることに気付きました。

慌てて引き返してよく見ます・・・

近づいてよく見ると「多摩川スピードウェイ」とあります?

この説明板によると、「多摩川スピードウェイ」は、この

河川敷に常設されていた”日本最初のサーキット”だそう

です。

1周が1.2キロの楕円形コースで、収容人数は何と3万人!

更に、この堤防の土手の斜面を利用した「メインスタンド」

は、収容人数は数千人!

1937年、ここで開催された第1回大会では、横浜工場で生産

されたフォード、三井男爵が輸入したベントレー、カーチス

航空機エンジン搭載の改造車、日産自動車などが参戦

しました。

ホンダを創設したあの本田宗一郎も、自社の車で参戦しました

が、レース中の接触事故により、マシンから放り出され骨折の

重傷を負いました。

え~っ、あの本田宗一郎がここのレースで重傷!

知らなかったな~、驚き!

 

ここでの熱気が日本の自動車産業の発展に火を付け、ホンダの

F1参入、日産のフェアレディZの開発などの原動力になり

ました。

戦後は、進駐軍の協力で、ここでバイクのレースが開催され

ました。

 

そして昨年、メインスタンドの観客席は、治水対策の堤防強化

工事のために取り壊されました。

これに伴い、陶磁器の説明板のプレートをモニュメントとして

作成した、とあります。

そうか、去年来れば、未だ観客席はあったんだ。

残念!

(取り壊し直前の観客席(2021年9月撮影):東京新聞から)


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コメント一覧

ウォーク更家
hide-sanさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、私が生まれる前の1937年に、多摩川スピードウエイがあったとはホントに驚きです!

そうですよね、昔住んでいた木造アパートなんて、今頃はどこも跡形も無くなっていますよね。

いや~、住んでいた部屋の前が内海ミドリの家で、高校生の彼女が窓辺で湯鬱そうな顔をしていた、なんてまるで青春映画の1場面ですね。

当時、内海ミドリは大変な人気でファンが多かったから、羨ましがられたことでしょう。
hide-san
こんにちは
https://goo.blog.ne.jp/hidebach
いろんなことを思い出させる記事でした。

>1937年、ここで開催された第1回大会では

80年以上も前に多摩川スピードウエイがあったとは驚きですね。
トヨタのクラウンが1955年に新発売しているのですが、
それより20年も前ですね。

昔澄んでいたアパートをボクも訪ねたことがありますが、
跡形も無くなっていました。
住んでいたボクの部屋の前がケロンパの内海(うつみ)ミドリの家で、
内海造園でした。
当時は、まだ彼女は高校生で、時折窓辺で湯鬱そうな顔をして、
空を見上げていました。
ウォーク更家
もののはじめのiinaさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
住んでいた家探しの気持ちを理解していただきありがとうございます。
歳をとると感傷っぽくなり、住んでいた家を探したいという思いが募りました。

そうですか、富士スピードウェイへは行ったことがあるんですね。
私は、多摩川の河川敷にスピードウェイがあったというのは、以前何かの記事で読んで、頭の片隅に記憶がありましたが、それがここに突然現れるとは思っていませんでした。
もののはじめのiina
(ウォーク更家) さん へ
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f3801e39251b5041b0e6b9e65d3c76e4
桜の咲く富士スピードウェイに行ったことがありますが、多摩川の河川敷に多摩川スピードウェイがあったのでしたか。

この日は、天気が好くてよかったです。

住んでいたお家をさがす気持ちを理解します。
そんな気持ちを著者・明野照葉が「かっぱタクシー」が小説にしています。
病んだ妻の行先が前に暮らしていた家という筋立てでした。その妻のためだけにタクシーを走らせる不思議な物語りでした。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5592807b4240046414a2e4a0e6508169

真鶴半島に若いころに寄りましたが、何もなくて引き返したのですが、何もなくはなかったです( ^ω^)・・・
一泊二日の旅を6篇につづります。更家さんなら、効率よくほぼ1篇にされるでしょうか (・・?

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