骨董屋 青雲館

昭和の金沢、まだ子供だったころのことや、今の金沢に思うことなど、折々に綴っています。

おばあちゃんから聞いた歌

2015年03月26日 | 日記
入所している90歳になったおばあちゃんがとても元気で、いろんな歌を歌ってくれる。

節はある程度しっかりしているのだが、歌詞となると、ところどころに自分の創作が入っているような気がする。
まあ昔は替え歌が元の歌以上に広まっていたから、もしかしたらそんな替え歌もあったのかもしれない。

先日聞いたのは「戦友」の替え歌だった。
たぶんこれも、当時世の中に広まっていたのだろうか。


「戦友」というのは「ここはお国を何百里…」で始まる有名な歌だが、おばあちゃんの唄っていたのは

ここは奥さんどこですか 離れて遠い満州です

赤い饅頭に 白饅頭

食べてみたならうまかった

御馬にけられていたかった 痛けりゃお医者に診てもらえ

お医者の薬は効かなんだ おじじの膏薬よく効いた



自分が子供のころに教えてもらったものには、「お月さまいくつ」というわらべ歌があった。

お月さんいくつ 十三、ななつ まだ年ゃ若いな

あの子を産んで この子を産んで 誰に抱かしょ おまんに抱かしょ

おまんはどこ行った油買いに 茶買いに

油屋の前で 滑って転んで 油一升こぼした

その油どうした 猫が来てなめた その猫どうした 犬が来て逃げた

その犬どうした 皮をはいで太鼓にしょ

その太鼓どうした あっちむいちゃドンドコドン こっち向いちゃドンドコドン


子供ながらに、なんと犬がかわいそうなことと思ったものだ。









いっかけにかけ

2015年03月25日 | 日記
「お寺の和尚さん」の歌もじゃんけんの唄だが、子供のころはさらに昔から伝わってきたらしい「いっかけにかけ」の歌があった。

こちらも唄に合わせた手ぶりもあったが、唄のふしも手ぶりも今では記憶があいまいになってしまった。

いっかけにかけ さんかけて しかけてごかけて橋をかけ
橋の欄干手を腰に はるか向こうを見渡せば
十七、八の姉さんが 花と線香手にもって
これこれ姉さんどこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
戦士なされた父上のお墓参りに出かけます
お墓の前で手を合わせ なんまんだぶつと唱えます
お墓の裏から幽霊が ふうわりふうわりじゃんけんポン


ネットで調べると、この唄も地方や年代によっていろんなバージョンがあるようだ。
歌い継がれていくうちに、いろいろ変遷していくのだろう。


もう一つ昔から続いた歌で、たぶん途中までしか伝わっていない「いちれつらんぱん」というものものもあった。

いちれつらんぱん破裂して 日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシアの兵
死んでも尽くすは日本の兵

この歌を何の遊びで歌ったのか、残念ながら覚えていない。
お手玉をしながらか、てまりをつきながらか…。



遊びの歌 も変わっていく

2015年03月24日 | 日記
以前てまり歌や下駄隠しの歌、替え歌などについて書いたが、そのほかにも子供のころにはいろんな歌があった。
今でもじゃんけんのときに歌う歌などは、子供たちに代々歌い継がれているのだろうか。

私たちの子供のころにあったのは

お寺の和尚さんが柿の種をまきました。
芽が出て膨らんで花が咲いたらじゃんけんポン

それが私の子供たちのころには

お寺の和尚さんがかぼちゃの種をまきました。
芽が出て膨らんで花が咲いたら実になって
忍術使って空飛んで
トンネルくぐってじゃんけんポン


どちらかを選ぶ時、私たちの子供のころには

どちらにしようかな
天の神様、地の神様の言う通り

それが子供の代になると

どちらにしようかな
天の神様、地の神様の言う通り
赤豆白豆黄色豆
おげげのげ 花が咲くように

今は孫もいるような年になったから、さらに変わっているのだろうか。
それとも、もうそんな歌すらもなくなってしまっているのだろうか。


トイレといえば

2015年03月20日 | 日記
昔はどこのトイレでも、女性はそれぞれの個室の前に立って順番を待つのが普通だった。
だから大きいトイレで多くの人が並ぶと、もう通路は人の行列でいっぱいになり、それぞれの列の最後がトイレの入り口側に流れて続いた。
それだけ混み合っていると用を足して出て行くのすら大変だったが、一番困るのはなんといってもドアの前で待たれるというプレッシャーだった。

並んでいる人は自分の列が早いか遅いかはわからないから、隣のドアが次々に開いて交代していても、自分の前のドアがなかなかあかなければじっと待っているしかない。
なかなか出てこなければ急かすためにノックもするし、やっと出てきた人の顔をチッと一瞥したくもなる。
用を足す方も落ち着かず、時間がかかってしまった時などは、出ていくのさえ気が引けた。

いつごろからだろうか「フォーク並び」という方法が広がりはじめ、銀行のATMなどの前にポールが立ったり矢印が書かれたりして、手前で待って空いたところに入るというやり方が便利なものだと認識されるようになった。
それからはトイレでも次第に個室の手前に並んで順番にドアの開いたところに入るようになり、以前に比べて行列はトイレの外にまで続くことはあっても、流れがスムーズになり、あまり待たなくてもよくなった。

たぶんそのほうが効率的だと思う人は以前からいたのでないかと思う。
私なんかもそうだったが、よいと思うようなことでも、当時の世の中の常識を変えていくには、なかなか一筋縄ではいかないことが多く、たいてい挫折してしまうことも多かった。
今でもそうかもしれないが、女子供の言うことはなかなか受け入れてはもらえず、認めてもらうには権威のある人の考えであるとか、外国でもやっていることだとかいうお墨付きがないと難しかった。

今でもそんな風潮はあるのだろうが、それに負けずに頑張っている若者や女性たちが多いのは素晴らしいことだと思う。

先日そんな昔の習慣で、手前で待っている行列に気づかないのか、個室の前で待ってしまった高齢の方がいらっしゃった。
並んでいる方も別に注意することなく、その方以外はごく普通にフォーク並びが続いていった。
なんとなくお年寄りへの愛を感じて、新しい時代の懐の広さを見たように思った。

昔の金沢駅には

2015年03月17日 | 日記
昔と言っても五十代くらいの人なら(もしかするとそれ以下の人でも)覚えているかもしれないが、今の金沢駅の東口の下には、バスターミナルから駅へと続く廊下のような地下通路があった。

大通りに面して置かれていた謡曲「杜若」の像の横あたりに地下への階段があって、そこから駅に通路が伸びていた。
途中にバスターミナルに出る階段や、観光バスの大勢の乗客にも対応できるような、当時としては大きめのトイレがあった。

通路は駅の地下改札口につながっており、その手前の駅側にはレストランやお土産、名産品の売り場もあったが、そのうち工事に伴ってか閉鎖されてしまった。

その後、駅はいろいろと工事を繰り返し、バスターミナルも右へ左へ場所を変えた後、今のような形になった。

駅のあまりの変わりように昔のことも忘れてしまっていたが、ふっと当時のことを思い出したとき、新しい駅の広々とした地下にあるトイレの当りが昔のトイレと重なるような気がしたのだが、どうなのだろう。


昔の地下のお土産売り場からは、らせん階段で地上の駅舎内に出られたが、その階段近くにあった駅のトイレ(女子用)が何とも変だった。
向かい合ってたくさん並んでいるトイレとは別に、入り口側にも二つほど個室があるのだが、そこで用を足すには手前の階段を4段ほど上っていかなくてはならない。
そんな高いところで用を足すというのは、何とも非日常的で、なんだか特別の場所のようで面白かった。