庵建築計画事務所 森 豊のブログ

これまでの軌跡、思考。
日常の思いをつづります。

その5 茶の湯の「開山」

2009-03-18 11:24:50 | 作品例「組み立て式草庵茶室」

 

↑村田珠光(1423~1502)

↑武野紹鴎

↑千利休

 

今日の侘び茶は、茶の湯の「開山」と呼ばれています

「村田珠光」(1423~1502)から始まり

武野紹鴎をへて

千利休によって大成されたと云われ、

わが国の誇るべき最高の文化のひとつである茶道が、

まず村田珠光によって本格的に始まるということです。

 

先ほど述べました初期の茶会である闘茶は室町時代に入ると、

その豪華性、競技性は一層盛んになり「太平記」に述べられていた

佐々木導誉(1295~1373)の茶会などは、

この時代の闘茶会の典型ともいえるもので大金や領地まで

賭けられ堕落、俗化の傾向を示しました。

このような傾向に対して反省の気運が起こってきます。

 

これは茶のみだけでなく文化全般についていえますが、

足利義政の東山時代の文化は、一面において前代の文化の

反省として生み出されたものであるといってもよいのですが、

外面的豪華性や競技性の強い文化から内面的な精神的な方向を

目指す文化の転換が行われるようになりました。

 

それを行った代表的な芸術家に

能楽における 観阿弥、世阿弥、金春禅竹、

絵画における周文、雪舟

連歌における心敬、宗祇

そして茶の湯における村田珠光などです。

 

 

そして、能阿弥、芸阿弥、相阿弥三代の阿弥集たちです。

能阿弥が仕えた足利義政の時代になると

建築における書院造りが誕生します。

 

 一番わかりやす例として、

三代将軍足利義満の造営した金閣寺と

義満の孫にあたる八代将軍義政の造営した銀閣寺を

みていただいたらお分かりかと思います。

 

祖父である義満は、幕府の権力の確立と富の集中で、

武士でありながら貴族の雅の文化に憧れ、

自分も貴族になりたいと願い、この金箔をはりめぐらせた豪華絢爛な

建物を造りました。

 

その孫である義政は、富と権力の中で何不自由なく育ち、

将軍職を息子の義尚に譲り(その事が応仁の乱の引き金にもなった)

宗教・芸術を愛好し東山に侘びた銀閣寺を造りました。

 


その4 闘茶!

2009-03-18 11:10:10 | 作品例「組み立て式草庵茶室」

 

 

 

 

 

日本茶の風習は、もちろん中国から渡来したものですが、

今日の茶は鎌倉時代初期に、禅僧栄西(1141~1215)によって

抹茶の法が伝来されました。

鎌倉末期から室町初期にかけて主として武士の間で闘茶なるものが盛んになります。

これはやはり宋の闘茶の影響を受けているのですが、

中国の場合は茶の良否を飲み分けるとい検茶(利き茶)でした。

宇治の茶を本来、その他の産を非茶として

その産地を飲み分けることに比重がおかれました。

 

要するに、中国の茶の歴史は一貫して茶の味を味わう方向に

進展していったのに比べ、わが国では独特の茶道文化にまで発展しました。

 

安土桃山時代から茶会記なるものが多くのこされていますが、

そこに記されている内容には茶の味がまったく記載されておらず、

 

述べられているのは道具であり、

その道具の取り合わせであり、

その行われた茶室であり、

茶そのものよりも作法やプロセスが記されています。

 

すなわち、

その形式的な側面に比重がかけられたことが

かえって

茶道という精神文化に発展せしめる

一つの要因になったとも

考えることができます。

 

 

又、そのほかの世界においても、

コーヒー・紅茶・チャイ等の飲み物の文化は存在しますが、

コーヒー道とか紅茶道とかいう日本の茶道の様な「精神文化」を

持つ国は見当たらないようです。


その3  四十男の再入門

2009-03-01 12:24:52 | 作品例「組み立て式草庵茶室」

 

 

何が違うのか解らなかった。

いろいろ悩んだ挙句、建築のハード面からだけのものづくりの

限界に少しづつ気づき始めてきました。

 そして、実際に建物をみたり、本や文献を調べると、

特に数奇屋建築は日本人の美意識が根底に流れ、

その美意識は室町時代の茶人が作り上げてきたということ

が解ってきました。

 

 それから、茶の湯の書物を読み漁りましたが、やはり知識だけでは

理解できず、茶の世界に身を浸さなくては解らないと思い、

四十歳になろうかという時に再度、お茶に入門する事にしたのです。

 茶の世界は昔は男性の世界でありましたが、今日はほとんどが

女性の世界になっております。四十男が入門するのは

少し気恥ずかしく思いまして、女房を説得して二人で入門することにしました。

門を叩かせたのは女房に行かせたのです。

 

 ところが、全てに入門を断れました。

 

 というのは、街のお茶の先生はほとんどが女性であり、

「40歳の男性が入門したいといわれたのも始めてであり、

まして何を教えたらよいか解らない」と断られて帰ってきました。

 

 その後、悶々としていましたら、ある呉服屋の社長が

「よい先生がいますので紹介します。

此の先生なら森さんも満足するでしょう」と紹介され入門いたしました。

 

 その先生は女性ですが、大変博識な方でお茶はもとより、

華道では二流派の免許皆伝で、能や謡も習っておられ、

和歌や漢詩にも長け、男性の茶の先生である宗匠にも引けを

取らない程造詣も深い方でした。その教室は文化人の

長老たちのサロンにもなっていたほどです。

 作家・陶芸家・伝統工芸家・新聞社の重役・鑑賞陶器の専門家等の

集まるサロンでした。

 

 その中では私が一番若かったので、先生には大変可愛がられ、

茶会・茶事・美術館、その他いろいろの場所に参加させていただきました。

 そのようにして、茶人の物の見方、考え方が少しづつ理解できるようになりました。

 

 残念ながらその先生は亡くなられました。

 これまでの教えを今度は私がいつかは教え広めていかねばと胸に誓うのでした。

 


その2 Less is more 

2009-02-28 11:29:06 | 作品例「組み立て式草庵茶室」

 

 

 

2007年に 和風インテリア雑貨の店舗のため

本格的な  組み立て式草庵茶室  をつくりあげる話が私にまわってきました。

私のこれまでの経歴にはぴったりの話です。

 

私が建築の道に入ったの時代は、1920年からル・コルビジェに代表される近現代建築運動が続いており、「Less is more」 とか「Simple is best」(単純が一番よい)というような装飾を悪とする建築運動でした。

学校教育もそれに倣い近代建築一辺倒で、日本の木造建築科目は皆無に等しかった状態でした。

もともと私は学生時代から茶道・華道に興味がありました。

社会人になって、以前からの興味で早速、お茶を習いだしました。

最初のけいこは、礼儀作法から始まり、お点前(おてまえ)の部分けいこに明け暮れていまして、全く興味が続かず、その上長時間の正座を強いられ本当に閉口いたしました。

結果、数ヶ月で辞めてしました。

若気の至りで、うわべだけしか見えてなかったと思います。

しかし、日本の木造建築には、興味を持っていましたので、ある宮大工の棟梁との出会いをきっかけに個人指導を受け、独立後、曲がりなりにも和風建築をつくってまいりました。

ところが、どうしても思い通りに創れない、何かが足りない。

特に数奇屋建築に関しては数奇屋風は出来ますがやはり違うのですね。

 

 

 

 

 

 


その1 「組み立て式草庵茶室」のはじめの一歩

2009-02-27 17:12:26 | 作品例「組み立て式草庵茶室」
 私は「庵建築計画事務所」の代表をしております 森 豊(もり ゆたか)でございます。

 建築関係の企画・設計・監理を生業としておりまして、此の道40年近くやっております。

 これから20回ほどにわたり「組み立て式現代草庵茶室」のできるまでを
 綴っていこうと思いますので、
 是非お付き合い下さい。
 
 本日のところはこれにて。