↑村田珠光(1423~1502)
↑武野紹鴎
↑千利休
今日の侘び茶は、茶の湯の「開山」と呼ばれています
「村田珠光」(1423~1502)から始まり
武野紹鴎をへて
千利休によって大成されたと云われ、
わが国の誇るべき最高の文化のひとつである茶道が、
まず村田珠光によって本格的に始まるということです。
先ほど述べました初期の茶会である闘茶は室町時代に入ると、
その豪華性、競技性は一層盛んになり「太平記」に述べられていた
佐々木導誉(1295~1373)の茶会などは、
この時代の闘茶会の典型ともいえるもので大金や領地まで
賭けられ堕落、俗化の傾向を示しました。
このような傾向に対して反省の気運が起こってきます。
これは茶のみだけでなく文化全般についていえますが、
足利義政の東山時代の文化は、一面において前代の文化の
反省として生み出されたものであるといってもよいのですが、
外面的豪華性や競技性の強い文化から内面的な精神的な方向を
目指す文化の転換が行われるようになりました。
それを行った代表的な芸術家に
能楽における 観阿弥、世阿弥、金春禅竹、
絵画における周文、雪舟
連歌における心敬、宗祇
そして茶の湯における村田珠光などです。
そして、能阿弥、芸阿弥、相阿弥三代の阿弥集たちです。
能阿弥が仕えた足利義政の時代になると
建築における書院造りが誕生します。
一番わかりやす例として、
三代将軍足利義満の造営した金閣寺と
義満の孫にあたる八代将軍義政の造営した銀閣寺を
みていただいたらお分かりかと思います。
祖父である義満は、幕府の権力の確立と富の集中で、
武士でありながら貴族の雅の文化に憧れ、
自分も貴族になりたいと願い、この金箔をはりめぐらせた豪華絢爛な
建物を造りました。
その孫である義政は、富と権力の中で何不自由なく育ち、
将軍職を息子の義尚に譲り(その事が応仁の乱の引き金にもなった)
宗教・芸術を愛好し東山に侘びた銀閣寺を造りました。