萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

磐梯・安達太良攻略山行 その2 「磐梯山」

2011年06月17日 | 山と温泉


初日の6月4日(土)は三時半に起きてバタバタと準備し、4時半には家を出た。クルマは近くのトヨタレンタカーで借りた1300ccのBb。当初は自転車も持って行くかと思っていた為、大き目のクルマを借りたが、山だけなら1000ccクラスで十分である。

高速道路は空いていて順調に距離を稼げ、磐梯山の北側の登山口「八方台」まで4時間で行けた。広い駐車場ではあるが、ほぼ満車状態であった。磐梯山頂への最短コースの登山道なので人気があるようだ。今日の山行はここから山頂までのピストンである。先々週に荒船山に登っていたので“足”はできていて、それ程疲れずに登れた。

基本は一歩一歩、地面を捉えるようにじっくりと登る。20分もその動作を続けていると、やがてマウンテンハイというのかハイキングハイというのか、ジョギングハイのような高揚した気分になり、調子が出てくる。こうなれば、しめたもの、登りを楽しめる。


<高原植物、特に花は辛さを和らげてくれる>


<桧原湖。登りの途中のこんな景色の清々しさも気が休まる。>

山頂まで距離5km、標高差600m程度なので2時間程で上がれた。登る間中、北側の桧原湖をはじめとした湖沼が上りの苦しさを和らげてくれた。頂上に着いて南側の景色をみて少々驚かされた。当たり前と言えば当たり前だったのだが、猪苗代湖が見えたのだ。少々ガスってはいたが、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に続く日本第四位の湖が見渡せたことは非常に得した気分にさせてくれた。


<頂上の石碑>


<目の前の猪苗代湖が雄大だ>


<終わったばかりの田植えは上から見ると村が水没したように見える>

磐梯山の火山の歴史はざっと以下の通り(Wikipediaより抜粋)。

◇9万年前頃の翁島火砕流堆積物と5万年前頃の頭無火砕流堆積物によって、それ以前の猪苗代盆地の河川が堰き止められて水位が上がり古猪苗代湖が出現。

◇806年(大同元年)に噴火し、それまで2,000m以上あった富士山型の山から、4峰(大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰)になったといわれている。
(富士山型の山の崩壊については有史以前からの何度かの噴火によるものとの研究も有力である。)

◇1888年(明治21年)7月15日の水蒸気爆発による噴火時に小磐梯が山体崩壊を起こし、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落(5村11集落)が埋没するなどの被害を及ぼし477人の死者を出した。

【噴火の経過】噴火の1週間程度前から地鳴りなどの前兆現象があったが、当時は噴火との関連性の認識がなく対処も行われなかった。また噴火当日の午前7時頃地震が発生し、地震はその後も続いたが、午前7時45分噴火が始まり20回程度の爆発の後、小磐梯山北側の水平方向への爆発的噴火で山体崩壊が発生した。

また長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成された。裏磐梯の景観は、この時に形成された。

現代の我々が磐梯山の山頂に立って眺める南側の猪苗代湖、北側の桧原湖をはじめとした湖沼群は全て磐梯山のたまものと言っていい。磐梯山(の噴火)なかりせば、せき止って湖となることもなく、平凡な景色のままであったに違いない。したがって、観光資源としても乏しいものであったろう。

北側の風景は少々ガスっていて見難かったが、湖畔の水田は田植えが終わったばかりで、家々やこんもりとした林以外は村落全てが水没したかのように見えた。数年前、やはりこの季節であったが新潟平野の弥彦山に登ったときも平野全体が水没したような景観に出会った。まったく同じ景色である。

瑞穂の国だなぁ、ここも。秋の稲刈り寸前にくれば“黄金の国”の出現を見ることができるだろう。
コメント
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