萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

インドを走る! 第5話 アグラ

2007年03月14日 | 自転車の旅「インドを走る!」


 アグラ。別に怪獣の名でもなければ、「あぐら」の発祥の地でもない。タージマハール(写真)で有名な地である。インドを全く知らない人でも、このタージマハールの写真を見れば、カレーとターバンの次ぐらいに、「オッ、インドダナ。」と感じさせる何かがあると思うのだが、ドウデショウ。

 この巨大にして華麗な白亜の大建築物は1650年頃、時のムガル帝国の王、シャー・ジャハンが愛妃の死を悲しみ、22年の歳月と二万人の職人を費やして完成に至った墓である。全て、磨きぬかれた白色の大理石で構成されており、この巨大にして精緻な、贅沢にして質素な、大胆にして可憐な、一件相反する観念が溶けるようにひとつになっている様は見事というより他は無い。

 古来より巨大な墓というのは多い。エジプトのピラミッド然り、本邦の前方後円墳然りである。しかし、それは皆、国王自身の権力の象徴としての墓であり、自己の愛妃の為の墓として建てたものではない。この点を考えるとこのタージマハールは、一大ロマンの一大建築物であり、今日でも、新婚旅行のメッカになっていると聞くと、ナルホドと言って頷けるシロモノではある。

 だが、たった一人の愛妃の死の悲しみを表現するのに、22年の歳月と二万人の職人を費やすという現実はどう意義付けたらよいのか。史実に聞けばシャー・ジャハン王というのは、ムガル帝国最盛期の最後の王であるそうだ。彼の時代から、ムガル帝国は、左前となり、後にイギリスに侵略(進出カナ)されるハメとなるのである。この時代の税の徴収というのはかなり厳しかったと史実は物語る。そういう過酷な状況の中で、タージマハールは建てられたのである。王の一大センチメンタルによって。

 二万人の職人は賃金をもらって潤うこともあったかもしれないが、多くの民は税金に苦しんだのではないだろうか。人生にロマンを感ずることもなく、生を終えた人も少なからずいたであろう。その歴史を思う時、私はこの一大ロマンの一大建築物を素直に受け入れ得ない、重苦しいもの悲しさを感じるのである。

 三月七日金曜日の黄昏。私は一人でこの白亜の巨大な建築物を再度訪ねた。金曜日はイスラム教徒の安息日とあって入場料はタダであった。一渡りぶらつき、この白亜の建物が夕日に紅く染まっていくのを眺めながら、背後に流れるジャムナ河の見えるところにたたずむ。

 流れがあるかないかわからぬほど緩やかなこの河に小舟が一艘、船頭の悲しげな舟歌とともにゆっくりとすべり込んできた。その歌の歌詞はむろんわからぬが、ひどくもの悲しく白亜の墓に響きわたる。あたかも、シャー・ジャハンの悲しみを今日に伝えるかのように。

 建設当時の国民の悲惨は、数百年の時を経るうちに薄れ、忘れられ、消えてゆく。が、白亜の建物とそれを建てた王の名は残る。残るがゆえに、一大観光地として栄え、金曜以外は入場料を取り、周りの宿屋やみやげもの屋も繁盛し、一日本人は大汗かいて自転車でここを訪れたりするのである。

 こう考えると、歴史は常に流れているものであり、一時点で立ち止まって見るものではないと思わざるを得ない。


 月は出ていない。灰色になってきたタージマハールを背に宿に戻る。宿の名は「シャー・ジャハンホテル」一人90円の相部屋である。外人旅行者ばかりのこの宿には、オーストラリアの美男美女のアベックをはじめ、ニュージーランド、イギリス、ドイツ、アメリカなど国際色豊かである。

 宿のオヤジ、我々に向かって「私は日本語を少し話せる。」という。聞いて我々は失笑したのだが、およそシルクロードにしろ、何にしろ、異国の文化交流の折にまず最初に覚える言葉というのは、このオヤジの言葉に象徴されるのではないかと思う。一に挨拶関係、二に数字、そして三にコレである。すなわち、オヤジの話した言葉を記せば、

 「オハヨー、コンニチハ、コンバンハ。イチ、ニイ、サン、シイ、ゴー
 ・・・・・ジューク、ニジュウ、オ○○コゲジゲジ。」

                          ―つづく―
コメント (2)
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