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「ブランド越後守」⑤へようこそ

骨董美術の紹介
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鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし)

2015年12月06日 | 掛け軸
鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし)

This is Japanese ukiyoe. Could someone buy it?



細田榮之(鳥文斎栄之)
Eishi Hosoda(Chobunsai)

日本画, 浮世絵師

1756 ( 宝暦6 )~ 1829 ( 文政12 )

本名:富治
通称:弥三郎、久左衛門
号:鳥文斎栄之

江戸/狩野栄川典信、鳥居文龍斎

代々幕府の旗本を務める細田家の出身で自身も1772年に家督を次いで以降、幕府西丸古納戸役などを務める一方で狩野典信次いで鳥居文龍斎に画を学び鳥居派の浮世絵美人画を能くした。

〔印 名〕
「榮之」(「栄之」) 「榮之画印」(「栄之画印」) 「華映」など

〔市場評価〕★★★★〔年鑑評価額〕2000万

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狩野章信

2015年12月06日 | 掛け軸
狩野章信

絹本肉筆 未だ箱違い 箱の中身みつかりました「蘆月」

狩野 章信(かのう おさのぶ、明和2年(1765年) - 文政9年10月2日(1826年11月1日))は、江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改める。号は大玄齋、素川(そせん)だが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったという。
狩野派にありながら浮世絵美人画にも学んだ、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評された。
略伝[編集]
浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系である。4代目の寿石賢信から継いだが、実父は宇多川徳元だとされる。1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだ。吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われた。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もある。
章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残るが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっているという。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たという。文政9年(1826年)死去、62歳。
弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだと言われる。


水墨書 大拙

2015年12月06日 | 掛け軸
水墨書 


鈴木 大拙(すずき だいせつ)


参考資料:鈴木大拙

出生 明治3年 10 月 18 日(1870)、加賀国金沢(現・石川県金沢市下本多町)
に加賀藩医家鈴木良準の四男として生まれる。本名、貞太郎。幼時に父と長兄
を亡くし、母増(ます)の女手一つの苦しい家計の中で育つ。
履歴 学生時代から鎌倉円覚寺で参禅。東京帝国大学文科大学哲学科選科修
了後、1897 年に渡米、出版社の編集部員となり、仏教・道教文献の英訳・紹
介を行う。11 年間の滞米の後、欧州を歴遊し、1909 年に帰国。学習院教授(1910)
を経て大谷大学教授(1921)となり、多数の著作を刊行。1949 年日本学士院
会員となり、同年文化勲章受賞。また、戦後はコロンビア大学客員教授をはじ
め長く海外に滞在し、欧米各地の大学等で講演・講義を行った。
事績 大谷大学で英文による仏教研究雑誌『Eastern Buddhist』を創刊。優
れた英語力を生かして 30 点を超える英文著作を刊行した。これらにより、禅
の思想を中心に仏教思想を広く欧米に紹介し、海外各界に大きな知的影響を
与えた。英文著作の翻訳を含む和文著作は優に 100 冊を超え、国内でも多く
の読者を得た。「老子道徳経」、「大乗起信論」、「教行信証」等、東洋古典の英
訳も業績の一つに数えられる。
評価 90 歳を過ぎた晩年まで、その著述と国際交流はやむことなく続けられ、70 年に及ぶ長期の知的
活動を継続した。東洋の思想・哲学を英文で表現したことにより、海外知識層に広く知られ、鈴木大
拙の名前と評価は世界的なものになった。円覚寺の釈宗演によって居士号大拙を与えられたが僧侶で
はなく、学者として近代日本仏教における最大の人物といえる。




釈宗演(しゃくそうえん)とのつながり

参考資料:[鈴木大拙(すずき・だいせつ):1]

鈴木大拙(すずきだいせつ,1870-1966)は日本の仏教学者・禅者で、禅宗や大乗仏教に関する多くの著作を英語で書き記し、西洋世界に禅(Zen)の理論・実践や仏教の世界観・理念を分かりやすく伝えたことで知られる。実際にアメリカに渡って、仏教・禅に興味を持っているアメリカ人を直接指導したこともある。

本名は鈴木貞太郎(ていたろう)といい、『大拙』という居士号は臨済宗の学師である釈宗演(しゃくそうえん)に与えられたものである。大拙の号は『大巧は拙なるに似たり(非常に巧いということは非常に拙いことと同じである)』という言葉に由来している。

石川県金沢市本多町で旧金沢藩の藩医の家柄に四男として生まれた鈴木貞太郎は、 第四高等中学校を退学してから英語教師をしていたが、東京に上京することを決めて、東京専門学校で更に語学力を磨いた。その後、東京帝国大学で学んでいる内に、仏教・禅の師匠筋に当たる鎌倉円覚寺の今北洪川(いまがわこうせん)と釈宗演と知り合って薫陶を受けることになる。“Zen”という禅宗のローマ字表記を初めて世界に広めたのも、鈴木大拙の学師に当たることになる釈宗演であった。

釈宗演の元で禅宗の研究をしていた神智学徒のベアトリス・レインとも知己を得たが、このベアトリスという女性は後に鈴木大拙の妻となる人であった。鈴木大拙は、インドのチェンナイの神智学協会で神智学に帰依したという。神智学(Theosophy)というのは、19世紀にブラヴァツキー夫人が主導して設立した『神智学協会』から始まる超越論的な思想哲学体系であり、あらゆる宗教・科学・哲学思想・神秘主義・オカルトを普遍的な真理の下に統合することを目指す学問であった。

あらゆる知識・思想・存在を統合する普遍的な真理があるという神智学は、鈴木大拙の仏教思想や禅の世界観に非常に大きな影響を与えており、見えるものも見えないものも含めた万物の根源に『霊的な力』があるとした。鈴木大拙は仏教思想の核心にある体験は『霊性の自覚』であるとするが、この霊性の自覚という概念や洞察は、ベアトリス・レインに紹介された神智学の世界から大きな影響を受けてのものだったとされる。


紙本水墨書 箱なし



書 宗演

2015年12月06日 | 掛け軸
書 宗演

絹本水墨書 


釈 宗演(しゃく そうえん)


釈宗演略伝(参考資料:松岡山東慶寺より)

宗演、号は洪岳こうがく、窟号楞伽窟くつごうりょうがくつ、安政6年12月福井県若狭高浜一瀬家に生まれる。12歳にて同族一瀬家出身の釈越渓しゃくえっけいの弟子となり、妙心寺天授院僧堂、15歳建仁寺群玉林の俊崖に就学、19歳岡山曹源寺の儀山に参禅、明治11年20歳より円覚寺の蒼龍窟そうりゅうくつ洪川こうせんに参禅、25歳にてその蘊奥うんのうを尽くし 峨差多端古巌前 擲命深潭凌苦屈 一死再蘇竜子吟 嘔阿透徹九渕窟 と証明の偈げを与えられ、さらに洪嶽こうがくの道号の頌じゅを与えられ、円覚塔頭仏日庵に住し、慶応義塾に学び、親しく福沢諭吉より洋学を学び、20年春卒業、山岡鉄舟や諭吉の資助、すすめによりセイロンに留学すること三年。この時の日記を『西遊日記』と題し毛筆で細々と記してある。