水墨書
鈴木 大拙(すずき だいせつ)
参考資料:鈴木大拙
出生 明治3年 10 月 18 日(1870)、加賀国金沢(現・石川県金沢市下本多町)
に加賀藩医家鈴木良準の四男として生まれる。本名、貞太郎。幼時に父と長兄
を亡くし、母増(ます)の女手一つの苦しい家計の中で育つ。
履歴 学生時代から鎌倉円覚寺で参禅。東京帝国大学文科大学哲学科選科修
了後、1897 年に渡米、出版社の編集部員となり、仏教・道教文献の英訳・紹
介を行う。11 年間の滞米の後、欧州を歴遊し、1909 年に帰国。学習院教授(1910)
を経て大谷大学教授(1921)となり、多数の著作を刊行。1949 年日本学士院
会員となり、同年文化勲章受賞。また、戦後はコロンビア大学客員教授をはじ
め長く海外に滞在し、欧米各地の大学等で講演・講義を行った。
事績 大谷大学で英文による仏教研究雑誌『Eastern Buddhist』を創刊。優
れた英語力を生かして 30 点を超える英文著作を刊行した。これらにより、禅
の思想を中心に仏教思想を広く欧米に紹介し、海外各界に大きな知的影響を
与えた。英文著作の翻訳を含む和文著作は優に 100 冊を超え、国内でも多く
の読者を得た。「老子道徳経」、「大乗起信論」、「教行信証」等、東洋古典の英
訳も業績の一つに数えられる。
評価 90 歳を過ぎた晩年まで、その著述と国際交流はやむことなく続けられ、70 年に及ぶ長期の知的
活動を継続した。東洋の思想・哲学を英文で表現したことにより、海外知識層に広く知られ、鈴木大
拙の名前と評価は世界的なものになった。円覚寺の釈宗演によって居士号大拙を与えられたが僧侶で
はなく、学者として近代日本仏教における最大の人物といえる。
釈宗演(しゃくそうえん)とのつながり
参考資料:[鈴木大拙(すずき・だいせつ):1]
鈴木大拙(すずきだいせつ,1870-1966)は日本の仏教学者・禅者で、禅宗や大乗仏教に関する多くの著作を英語で書き記し、西洋世界に禅(Zen)の理論・実践や仏教の世界観・理念を分かりやすく伝えたことで知られる。実際にアメリカに渡って、仏教・禅に興味を持っているアメリカ人を直接指導したこともある。
本名は鈴木貞太郎(ていたろう)といい、『大拙』という居士号は臨済宗の学師である釈宗演(しゃくそうえん)に与えられたものである。大拙の号は『大巧は拙なるに似たり(非常に巧いということは非常に拙いことと同じである)』という言葉に由来している。
石川県金沢市本多町で旧金沢藩の藩医の家柄に四男として生まれた鈴木貞太郎は、 第四高等中学校を退学してから英語教師をしていたが、東京に上京することを決めて、東京専門学校で更に語学力を磨いた。その後、東京帝国大学で学んでいる内に、仏教・禅の師匠筋に当たる鎌倉円覚寺の今北洪川(いまがわこうせん)と釈宗演と知り合って薫陶を受けることになる。“Zen”という禅宗のローマ字表記を初めて世界に広めたのも、鈴木大拙の学師に当たることになる釈宗演であった。
釈宗演の元で禅宗の研究をしていた神智学徒のベアトリス・レインとも知己を得たが、このベアトリスという女性は後に鈴木大拙の妻となる人であった。鈴木大拙は、インドのチェンナイの神智学協会で神智学に帰依したという。神智学(Theosophy)というのは、19世紀にブラヴァツキー夫人が主導して設立した『神智学協会』から始まる超越論的な思想哲学体系であり、あらゆる宗教・科学・哲学思想・神秘主義・オカルトを普遍的な真理の下に統合することを目指す学問であった。
あらゆる知識・思想・存在を統合する普遍的な真理があるという神智学は、鈴木大拙の仏教思想や禅の世界観に非常に大きな影響を与えており、見えるものも見えないものも含めた万物の根源に『霊的な力』があるとした。鈴木大拙は仏教思想の核心にある体験は『霊性の自覚』であるとするが、この霊性の自覚という概念や洞察は、ベアトリス・レインに紹介された神智学の世界から大きな影響を受けてのものだったとされる。
紙本水墨書 箱なし


